トップギア

お盆と終戦に思う。(第二部)

今回は朝鮮半島出身の「光山文博(卓 庚鉉(たく・こうげん)」氏のお話です。戦後教育では、朝鮮半島(北・南)では「我々は戦勝国」だと、いつの間にか日本と戦ったなどと間違ったウソ話になっておりますが、終戦(敗戦)になるまで朝鮮半島の人達は紛れもなく日本と一緒に連合軍と戦った側なのです。それを戦後の教育や左巻きの人達ほ「日本は戦前、朝鮮半島の人達に悪いことをしたから罪を償え!!」とウソばかりついていますね。

それは、今回の「光山文博(卓 庚鉉(たく・こうげん)」氏と「鳥濱トメさん家族」との話で分かります。以下は「特攻隊員になった朝鮮人」早坂隆(ノンフィクション作家)より一部抜粋しました。それでは、どうぞ。

昭和19年10月、光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月、そんな彼を思わぬ不幸が襲った。京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、

「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」

という内容のものだった。

やがて、父もまた同じ気持ちであることを知った光山は、特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続いた時期であった。周囲の戦友たちも、次々と特攻を志願していた。

上官の一人は、光山が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし、光山の決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされた。こうして光山の特別攻撃隊への配属が決定した。

昭和20年(1945年)3月、光山は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成された。その内の一つである第51振武隊の隊員の中に、光山の名前はあった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。

第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。光山はこうして再び知覧の地を踏むこととなった。当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。

光山は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。

「おばちゃーん」

店の引き戸を開けて入ってきた光山の姿に、トメが驚く。

「まあ、光山さんじゃないの」

トメは温かく彼を迎えた。光山の相貌(そうぼう)は以前よりも逞しくなっているように見えた。そして、トメはすぐに光山が特攻隊員であるという事実を悟った。何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。トメの推察と不安は、光山から発せられた次の言葉によって裏付けられた。

「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」

約半年前に実母を亡くした光山にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。

久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。

以降、光山は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由に認められていた。

光山は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だろうと判断して促した結果であった。

そんな光山にも、確実に出撃の日が迫る。

いよいよ迎えた出撃前夜の5月10日、光山はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。光山はトメと彼女の娘たちを前にして、こう口を開いた。

「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ」

光山が心中を吐露する。

「長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていうことを忘れそうになるんだ。でも、俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」

光山の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘たちが彼に贈ったものだった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊に大切にしていたという

トメが目頭を押えながら俯いていると、光山が、

「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」

 と切り出した。トメは思わずこう答えた。

「まあ、光山さん、あんたが唄うの」

トメには光山の言葉が意外だった。それまでの光山は、他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時でも、一緒に声を合わせるようなことは殆どなかったのである。

「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」
「いいわよ、どうぞ、どうぞ」

薄暗い座敷の中で、光山が言う。

「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」

光山は床柱を背にしてあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直した。

トメと二人の娘は、正座をして光山が唄い出すのを待った。光山はしばらく目を閉じていたが、やがて室内に大きな歌声が響き始めた。それは、朝鮮の民謡である「アリラン」であった。

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は
十里も行けず足が痛む
アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
晴々とした空には星も多く
我々の胸には夢も多い

彼の声の震えや鼓動、胸中に灯った心模様を想う。哀調を帯びたその節回しが意味する歴史の重層性を、我々は真に理解できるだろうか。

この歌を知っていたトメは、光山と一緒になって声を揃えた。トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。

それから、光山は形見として、トメに自らの財布を手渡した。

「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」

その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、「これ、持ってって」

と差し出した。光山は、「そうかい、おばちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」

と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら去って行ったという。

翌11日、第七次航空総攻撃の実施により、光山は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。知覧飛行場の滑走路から勢いよく出撃した。

光山の搭乗機は、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。

やがて、航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。

この戦闘において、光山も散華。享年24でした。

光山少尉は、遺書も書かずに出撃されました。

光山文博(卓 庚鉉)陸軍大尉

昭和二十年五月十一日 享年二十四

陸軍特別攻撃隊 第五十一振武隊 沖縄周辺洋上にて散華 二階級特進大尉任官

追記 きっと、差別はあったと思います。日本人同士だってあるんですから。しかし、冒頭に書かれていた、”死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」”とあるように、決して強制ではなく”お国に”と言う一文でも分かると思います。

この話もまた、「丸かの今夜もひとりバックドロップ!!」でも触れております。

きっと、今回の2つの話を読んで「右翼だ」とか「軍国主義者だ」とか「戦争を正当化している」などと、トンチンカンなことを思う人が居ることでしょうが、それこそ戦後教育の間違いの真相なんですね。また、あたくしを「差別主義者」と思ってる方もいますが、それでしたら朝鮮人の「光山(卓 庚鉉(たく・こうげん)少尉(大尉)」のことをわざわざ取り上げませんよね。
PAGE TOP