欽ちゃん本店
欽ちゃん支店

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15分ほどのひと山越えただけで・・・・・。

  • 2019/02/01 00:00

やはり、芦別市や上芦別と西芦~頼城方面の地区は違います。
同じ芦別市だけど生活環境が違う。そう、炭住だからかも知れないけど
独特の雰囲気を持っています。
 
僕ら西芦~頼城方面の人間たちが芦別げ行くのは普通に行きますが、
芦別や上芦方面からは西芦~頼城方面へ来る人は少なく、来たとしても
「あっ、違う所から来たな!」と直ぐにわかりました。(何となく違和感を感じます)
 
また、西芦~頼城方面から芦別へ行くのはちょっとした都会へ足を運ぶ
感じで、親などはお洒落などをして行くし、子供たちはワクワクして妙に
はしゃいでいましたね。
 
ひと山、と言っても道路(昔は鉄道も)が整備されているので、西芦は
啓南経由でなければ15分ほどで行きますから、半日とか一晩かけて行く
ような場所でもないのですが、見事にひと山越えるか越えないかで生活圏が
異なるんですから、今にして思えば本当に不思議です。
 
そして、中学まではその地区ですが高校になると芦別か上芦へと行動範囲が拡がり、
同時に生活圏も広がります。それから、高校を卒業し都会へ行きさらに生活圏が
広がって来ました。その度に少しずつ大人になって来たのだと。
 
一時、都会へ出て専門学校や大学等で違う地方の生活圏の友人ができ、
恋愛もし、就職をし、結婚をし、子供に恵まれたりと、いつしか地元のことなんか
すっかり忘れてしまっている自分がいたりと。
 
で、50歳を過ぎて、段々と親や親戚や友人たちが寿命を終えることが増え来て
ふと、生まれたり、育った郷里を懐かしく思えてきます。
 
年老いて記憶が薄れていき子供のようになっていく親を見て、複雑な思いと
同時に自分を育ててくれた親と郷里に感謝し、懐かしくも遠い過去へ思いを馳せます。
 
そう、帰るべきあの場所へ、海を知らない鉱山の町へ・・・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=dcEjdTMdZiA&index=1&list=RDdcEjdTMdZiA


年賀状の想い出

  • 2019/01/01 00:07

クリスマス、冬休み、大晦日、元旦と何だかんだとイベントが目白押しな
12月から元旦。正月になると今度はお年玉と郵便が待ち遠しい。
そう、友達からの年賀状。
 
まだ、冬休みに入って一週間ほどなのに一週間に6日も会っていたクラスの
皆が懐かしく感じます。それに、あまりウィンタースポーツが得意でない自分と
しては外に出ることが殆どなく、出たとしても家の前で雪で一人で基地を作ったり、
ミニスキーで一条通から炭住へ下がってくる坂を滑るくらい。
 
なので、皆から来る年賀状が待ち遠しい。
初めて年賀状を出したのは小学2年か3年生?いや、4年生かな。
クラス全員に出しました。なので、皆からどんなことが書かれた年賀状が
来るのかな?ととても待ち遠しいかったです。
 
結果、来たのは一枚・・・・・。
それも担任の”佐藤妙子先生”一人。(笑)
 
ガ~ン!!
小学生でもこれはショックでしたね。
ちょうど、釧路から親戚のおねーちゃんが来ていて大笑いされた記憶があります。
私も照れ笑い。
 
で、始業式の日に「俺、年賀状出したのに、誰からも来てなかったぞ!!」と。
担任の先生からしか年賀状が来ていない自体恥ずかしいのですが、それを
逆ギレして言ってしまうのも恥ずかしい行為ですよね。
 
でも、言ってみるもんですね、翌年の正月からはクラスと隣のクラスからも
年賀状が沢山来ました!!(笑)
 
そんなこともありながらも楽しい炭住生活でした。。。。。

一年の締めくくりに思うこと・・・・・

  • 2018/12/01 00:24

今年に入り、地元芦別の同級生が死んじゃっています。

哀しいと言うよりも、非常に残念です。と同時に、「そうか~、俺もそんな歳に

なったんだな~」と思います。

 

まだ、10代で子供のくせにいっぱしの言葉を口にして、大人に反抗なんかしてね。

でも、その時に反抗していた大人よりも年上になってしまっている現実があります。

 

あの頃、大人になるなんて言うのは現実感がなく、「まぁ、その内、大人になるん

だろうな~」くらいの、どこか他人事でした。そんなことなので『死』なんて思いも

よばなかったです。それは自分の親もそうで「まぁ、いつかは死ぬんだろうな~」

などと思っていても、それも現実的ではなかった。

 

死ぬなんて一生に一度の経験なので、経験した瞬間でしまいです。

なので、現実感がない。

 

でも、一緒に語り、遊んだ友だちが、あの時はあんなに元気だった友だちが

今はもういません。一生に一度の経験をしてしまいました。

 

学校指定のジャージを着て通学していた頃。

真新しい学生服を着てと言うか、学生服に着られていた頃。

色気づいて、親や先生に生意気な言動をしていた頃。

 

一緒に経験してきた友だちが、一人、また一人と死んでいきます。

 

中央バスターミナルが溜まり場。

まずは、そこへ行き何をするか?どこへ行くかのか?を決める。

また、そこから西芦・頼城方面へ帰る学生たち。

啓南経由で西芦・頼城へ帰る学生たち。

上芦・野花南方面に帰る学生たち。

平岸・茂尻・赤平・滝川方面へ帰る学生たち。

常磐、途中から黄金・新城・旭川方面へ帰る学生たち。

あちこちから来ていた友だち達・・・・・。

 

永遠はないのは分ってるけど、出来ることなら少しでも皆が元気でいてもらいたいと

心より思います。。。。。

41年か・・・・・。

  • 2018/11/01 00:10

炭鉱町は、西芦~中の丘~緑線~頼城と続くのですが、西芦と中の丘は
幼稚園が一緒で小学校は別々で中学からまた一緒になります。
けど、6年間も会っていないと殆どわかりませんし、途中から中の丘へ来てる
人もいるので尚更です。
 
そんな中、西芦ではあたくしが小学生の4年生くらいから木造の炭住から徐々に
改良住宅といって、文字通り改良された現代風の建物に変って来ました。
まぁ、とは言っても風呂は相変わらず共同風呂でしたが。(笑)
 
で、私が小学校五年生の頃に東一条五丁目から東七丁目に新しく出来た
改良住宅へ引っ越すことになりました。それまで東五丁目の町内には、茂尻から
来た人たちと一緒でしたが、ここで別々になりました。隣に住んでいた親戚の
叔父さん夫婦は定年で旭川の息子さん夫婦の所へ行き、それ以外の茂尻から
の人達は、その後に出来る改良住宅へ。
 
私が引っ越した七丁目の改良住宅の上の道路淵には「青葉公園」なんぞと言う
のが出来て、そこには鉄のパイプで出来た飛行機なんかがあり「ここは俺の
縄張りだ!」みたいにはしゃいでいたもんです。それまではバスに乗る停留所は
外勤前からでしたが、西芦6丁目に変わりました。
 
でも、風呂は下の風呂で変わりはなく、いつも通りに行くと同じ改良住宅から出て来て
風呂桶を持って歩く姿の同じくらいの少年が。風呂場へ付いて服を脱ぐ途中も
何となくお互い気にしている感じ。(しかも通常よりも色黒の顔)浴場へ入り少しだけ
離れた所に座っていましたが、どんな声を掛けたのか忘れましたが、私の方から声を
掛けると「待ってました!」とばかりに返事が返ってきました。
名前を聞くと私と同じ「たかし」で、私は「孝司」で向こうは「孝」。しかも、お互いの二つ上の
兄貴の名前が、これまた「こういいち」で私の兄貴は「孝一」で、向こうは「幸一」。(笑)
子供のコミニュケーション能力は凄くて、直ぐに仲良くなりました。しかも、お互いに
戦争関係のプラモデルが趣味だと言うことで、風呂の帰りに寄ってプラモデルを
見せてもらい、更に仲良くなりました。
 
少し経つと、中の丘小学校から西小へ転校して来ました。
隣のクラスでしたが、それから41年になりますが今でもたまに会います。
 
”外山孝”、とてもいい奴なんですね・・・・・。
41年か・・・・・。

芦別「旨いもの列伝!!」

  • 2018/10/01 00:08

一般的には食欲の秋と言いますけれども、内陸部の中の内陸部の
芦別地方にはこの時期は「かぼちゃ」「じゃがいも」くらいしか地物で
取れるのはほとんどありません!(笑)
新城の「いも」はもの凄く美味しい記憶はありますね。
 
けれど、芦別って実はB級グルメの宝庫でしてそれはそれは中々なもので
今でも十分に通用すると思うんですね。
 
では、順不同で芦別B級「旨い物列伝!!」をば。
・ホルモン・シンタン。  ・赤シャツのラーメン。  ・志のぶ屋のたいやき。  
・たつよし?たつみ?の焼鳥。 ・芦別レジャーランドの鳥串・豚串、おでん。 
・若鳥天狗のとり半身やもも。  ・松屋のトップと醤油ラーメン。 
・三角山の醤油ラーメンも外せない。 ・知る人ぞ知り、知らない人は全くしならない
友歩嶺(ゆうふれ)のカレー。 ・どこだったかのステックパン。  ・西芦ですけど、むらやの
串団子とかき氷も旨い!
えっと、一応ガタタンが芦別の名物になっておりますが、あたくし食べた記憶がないので
何とも言えません。
年代によってあった店が違うので、まだまだ他にも旨いものがあると思いますが、
あたくしはこのくらいですね。
 
そう言えば、数年前に芦別の道の駅に言ったらデカデカと「芦別名物窯焼きピザ」と言う
看板が出ていましたけど、誰が何時から何のために「窯焼きピザ」が名物になったの
でしょうかね?どこかイタリアの地方都市と姉妹提携でもしたのでしょうか?(笑)
 
もし、皆さんもこの「想い出のあとに」を読んで「この店抜けてるぞ!」とかあると思いますが、
それは仲間同士での会話で盛り上がって下さいね!!
 
そうそう、中3の夏休みに友人と2人して松屋へ行き醤油ラーメンとダブルトップを食べに
行ったら、なんと店の方からいつものおばちゃんではなく、めっちゃくちゃ可愛い同じ年位の
女の子が出て来て、二人して急にもじもじした記憶があります・・・・・。(笑)

炭鉱町のささやかな娯楽

  • 2018/09/01 00:05

地方でしかも炭鉱町の日常はこれと言って特別に「何か」が
ある訳ではありません。しいて言えば酔っ払いのおじさんが
わめいているか、子供叱りつけるおばさんやその辺で野球などを
している子供たちの声くらいでしょうか。
 
なので、三井芦別が呼ぶ興行やプロレスやプロ野球の
二軍の試合だとかが来ると小さな町は大騒ぎになります。
まだ、巨人の定岡選手がルーキーの時に大洋の二軍と
倶楽部ローンの下にある西芦別球場へも来たのですから
会社としても頑張っていたと思います。
 
あと、いつ頃からか「アメリカンヨーヨー」とか言うコカコーラや
ファンタン、スプライトなどの柄の入った固いガラス(子供用に
プラスチックもあった)のヨーヨーのミニ大会を三北商事の広場で
やっていました。今でも不思議に思うのが「アメリカンヨーヨー」よ
言いながら来るのは「南米チャンピオン」の方でしたね。(笑)
あまりにも回転ばかりやると摩擦で紐が切れる。
 
その「アメリカンヨーヨー」は大流行して、学校の行き帰りや校内でも
子供たちがやりだして、ついには「通学路や学校でやるのは禁止」
となるほどでした。(でも、持って行っている生徒が殆どでした)
 
「イ・ヌ・ノ・サンポ!!」とか「ブーランコ」と技を繰り広げるたびに
なぜか子供たちは南米チャンピオンの片言の日本語でやるんですね。

 
で、そのアメリカンヨーヨーで気を良くしたコカ・コーラは二匹目のドジョウを
狙って「バンバンボール」なるものを流行らそうとしましたが、これは
「アメリカンヨーヨー」ほどまでは当たりませんでしたが、娯楽は少ないけど
流行には敏感な炭鉱町ではそれなりに流行りました。
ボールと紐が良く切れていました。
 
これもどこだかのチャンピオンだとかが来て片言の日本語で
「テンプラ!」とか技を繰り広げて子供たちがそのままその片言で
技を繰り出すと言う、今思えば完全にギャグですけど、当時は片言も
その技の一つと思っていたので全く違和感なくやっていましたね。(笑)

 
いや~、懐かしいな~・・・・・。

たった一回だけだったけど、キャンプファイヤーはワクワク・ドキドキでした。

  • 2018/08/01 00:03

暑い!マジで暑かった芦別は・・・・・。

がしかし、子供だったので暑いけど遊びの方が夢中だったので

気にしてない。(笑)

 

クワガタも暑すぎると昼は隠れているし、プールは相変わらず行くけど

意外と疲れる。少しの空き地を見つけると手打ち野球やプラスチックの

バットで三角野球。そう、釣りにも行くけど水温が高いので、ウグイも

どことなく活きが悪そう。

 

楽しみは水道水で冷やしたスイカと近所の家庭菜園からトマトなんかを

勝手に取ってきて食べるのが・・・・・。

 

まぁ、暑い中でも楽しみは沢山あったのですが、私の記憶に今でも

残っているのが、小6の時だと思うんですけど夏休みの終わりに西小のグランドで

キャンプはしてないけど、キャンプファイヤーのようにグランドの中央に枕木なんぞを

組んで火を点けて、それを囲み皆でフォークダンスなんぞ踊った事でした。

 

マイムマイムやジェンカやオクラホマ・ミキサーなかを踊りました。

なんでしょうか?運動会で踊るのと違って夜中に燃え盛る火を囲み大勢で

踊るのってとても新鮮でワクワクしました。また、あまり知らない女性(その時は

上級生の女性)と手をつなぐドキドキ感が溜まりませんでしたね。(笑)

 

最後に「燃え~ろよ、燃えろ~よ」なんか合唱して、最後は先生がまだ残って

いる枕木を壊して「オーッ!!」と歓声が上がっていましたね。

 

今度、同級生とやろうかな・・・・・。

炭鉱町の夏と笑顔。

  • 2018/07/01 00:50

いよいよ7月に入りました。
芦別は豊富な山間部なだけあって冬はスキーも盛んでしたが(因みに私は
ボブスレー以外は苦手でした)、やまはり子供たちは圧倒的に”夏”の方が
人気があったように思います。
 
盆地なので確かに暑い!
けど、子供には夏の暑さんて全く気にならなく、汗を掻きながらでも夏休みなんかは
一日中遊んでいたから、男子女子問わず健康的に日焼けしていました。
 
野球、サッカー、釣り、プール、十字架ポン、缶蹴り、手打ち野球、家のまでビニール
プールで遊んだろ、スカイを食べたり、単純に朝から夕方まで自転車を乗ってたりと・・・・・。
また、夜になると各家の前や公園では花火を楽しんでもいましたね。
 
それと何だか”夏”は大人も子供も皆、表情が明るかったような気がします。
第一売店の三北商事が西芦の駅前からボーリング場(その前は映画館)へ移転して、
じいさん、ばあさんが老人ホームの管理人をやっていて近かったのと、学校帰りの通り道
だったので、それまでほとんど第二売店だったのが利用頻度が上がりました。
 
友だちの”島田よしの”と言う子のお母さんがその第一売店に入ると右横にある
食堂で働いており(駅前の時は入って左横)、「”よしの”のお母さん!」と言いながら
醤油ラーメンを食べた記憶があります。(なぜ、叫んだのだろうか?)
 
当時、今のようにビニール袋なんかはなく、各家庭で買い物かごを持って買い物を
していました。で、売店(配給所)ではピンク色の紙をくれてそれを買い物かごの
上に乗せていました。子供心に「何を買ったか見られないようにかな?」と思って
おりました。今にして思えば、それもあるけどゴミ等などが入らないようにとか、
夏の直射日光や雪が入らないようにと言う配慮もあったのかな~と。
 
懐かしいです、お母さんたちが籐製の買い物かごを笑顔で持っていた姿。
自然にエコをしていたんですよね。

おふくろが持っていたのはこれ


 
そう、炭鉱町の短い夏は道行く人々がみんな笑顔でした。。。。。

カエル取り。

  • 2018/06/01 00:00

炭鉱町と言うけあって中々の山間部なので、それなりに動物、昆虫、川魚など。

で、子供なので狩猟に行くわけがないので、もっぱら川でウグイを釣りに行くか、

クワガタかカエルとりや、たまにチョロチョロと流れている山の沢沿いで

ニホンザリガニなんかもとりに行ったりと。

 

他にも、ハチの巣やタニシ、アゲハチョウ、オニヤンマなど主に昆虫ですが

様々なのをとりに行けます。春先はその辺に山菜なんかも採り放題でしたね。

あたくしは山菜などは採りに行ったことはなく、今にして思えば「採っておけば

良かったな~」と思いますが。

 

で、この時期位でしょうか?西小・西中の裏に職員住宅へと行く踏切が

あるのですが、そこに小川がありそこはカエルの宝庫でして私たちはそこで

ツチカエルや卵を取っていましたね。因みにカエルの卵は腸のような感じで

感触的にはスライムのようで気持ちいいんですよね。

これを最初に見た時には「マジか!!」と思いましたが、

何でもチアシードとか言うスーパーフードなんだそうです。(笑)

 

とんぼ網でもいいのですが、男らしくないと思われたくないので小川にめい一杯

股を広げてまたいでカエルを素手で素早く取るんですね。これがカエルも利口で

中々上手く行きません!水面から頭と目をちょっと出しているので、それを取るの

は10回に1回くらいの成功率。しかし、どこにでも天才と言われるが居て、

同級生の今野はとても素早く「カエルとり職人か?」と言うほど上手く取って

いましたね。なので、顔と言うか目がカエルに似ていました。(笑)

 

その今野は自分が上手い事を言いことに中々の上から目線で、「やれ、卵を

素手で持つと死んじゃうからよ!」とか「卵でも死んで白くなってる所は取らないと

伝染するから取らないとな!」だとか、「カエルは・・・・・」と同級生のくせに何かと

うるさいんですね。けど、なぜか?今野の皆従っていると言う感じでしたけど。

 

カエルは目がほとんど360度近く見えるので真正面からとるのは容易でなく、

カエルが水面から頭を出している後ろの方に上手く回って取るのが一番上手く

取れるんですよね。(笑)

おんぶカエルを取るとかなりヒーローです!!

 

それにしても、今から思うとよくカエル取りなんか必死こいてやっていたなよな?

と思いますと。家に持って帰ってきてもおふくろには「気持ち悪いから捨てて来なさい!」

と怒られるし、だって、時にはその小川に足を滑らせたり、またぐ時は勢いで行けますが、

またいだ足を戻す時はまたぐ時以上の勢いが必要で、戻しきれなくて片足がドボン!と。(笑)

 

けど、子供たち特に男子は狩猟のDNAが騒ぐのか?かなり必死になって取って

いましたね。たまに女子も来ていて、それはそれで良い所を見せようと必死でした。(笑)

夢の跡

  • 2018/05/01 00:50

今でも年に一度位は数名のスタッフと一緒に芦別の”三千里”へ行きます。
高速で滝川で降りて、赤平の裏から行った方が道も良く近いのですが、
三笠で降りて山道を通って行きます。
 
理由は頼城(今時期は頼城へ入る前に時間があれば三段滝で”山わさび”を
買う時もあります)を通って中の丘を見渡しながら西芦に入り、まだ一応ある
最後に住んでいた改良住宅7丁目52-2-7を確認し、そのまま小さい時から
お参りしている7丁目のお地蔵さんを拝み、それから桜ヶ丘の霊園へ行きおじさん
のお墓に好きだった焼酎と花を供えるのが三笠から降りて山道を通る目的です。
 
そして、”三千里”でお目当てのホルモン、シンタン、サガリをめいいっぱい堪能し、
帰りは滝川から高速へ乗るのに常磐を抜けて赤平、東滝川、滝川インターから帰路へ。
 
行く度に思うのはやはり炭鉱町の変わり果てた姿です。
頼城はほとんど住宅が無く、中の丘は草が生い茂り、西芦も一部だけに住宅が
集中していて、商店街も学校もなく本当に寂しい限りです。
 
幼少期から思春期を過ごした町からは人間の営みを感じることがありません。
整然と並んでいた炭鉱住宅、グランドからは部活の掛け声、子供たちのはしゃぐ声、
商店街や三北商事で買い物をしている姿、15時前から風呂の前で並んでいるお年寄り、
祭囃子の音色、定期になるサイレン、行も帰りも無口な坑夫たちの波、とんぼ網で
虫を捕まえている子供たち・・・・・。
 
まさに「つわものどもが夢の跡」です。。。。。

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