欽ちゃん本店
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入学祝い

  • 2020/04/01 00:00

高校の入学祝いだったのか、社会人になった時かは定かでありませんが、
入学祝いに従兄のお兄さんにボールペンとシャープペンシルがセットになった
ものをもらいました。
 
何とも昭和を感じますが、贈る側としては「大人になったんだぞ」と言う意味で、
もらう側は「少し大人になる準備」の気持になったものです。今はパソコンや
スマホが主流になり、紙に書くなんて言うアナログではないのでボールペンや
シャープペンシル、ましてや万年筆なんて贈る人も少ないと思います。
 
しかし、贈る側ともらう側の情緒を感じるやりとりがなくなり寂しさも感じますが、
これも時代の流れなのでしょうね・・・・・。

芦別を離れ35年、色々とあるけど皆頑張ってるな~。

  • 2020/03/01 00:00

今年の1月に一つ上の地元芦別の先輩の奥さんが亡くなりました。

で、先日地元の一つ上と私と同じ年で集まり「激励会」なるものを

行いました。同じ芦別ですが、それぞれ地域が違い一度も同じ学校では

なかった人や、地元では(と言っても、も35年にもなりますが)特に親しかった

訳ではなくても、『芦別』と言う絆が時を経てもこうして集まり仲間を思い

やれるんだな~と思うと感慨深いものを感じた次第です。

 

当時は皆10代で若く意地や見栄を張ってツッパッテいたのに、今では

50代と言う「いいおっさん」です。(笑) その昔は集まりは集まりでも

結婚式などと、どちらかと言ったら祝いの席でしたがこの歳になると今回の

ように見送る方の集まりが圧倒的に多くなりましたね。

 

『炭鉱』と言う産業の栄枯盛衰の中で生まれ育ち、今はそんな所で育った

ことなんか素知らぬ顔で札幌の街で生きています。しかし、こうして地元の

人間が集まると『郷愁』に慕っている自分がいました。

 

1984年(昭和59年)に芦別を離れ、こうして今でも芦別の絆を保ち

会えること、会えるようになったことにある意味つくづく年月の重みを

感じます。きっと、それはいくつになってもあの頃に見た街並みや山や川、

三角山や駅前通り、中央バスやバスターミナルなどと言った郷土の景色たちが

それぞれのまぶたの奥に共有されているからなのでしょうね。。。。。

 

https://www.youtube.com/watch?v=dcEjdTMdZiA

たった一度の想い出・・・・・。

  • 2020/02/01 00:35

大人になると1月は新年会、3月は送別会などの行事がありますが、
2月は比較的何もありません。でも、子供の頃は単純にミニスキーで
ジャンプを作って遊んだり、三角山や中の丘スキー場へ行ったりと。
中学生頃からはバレンタインデーなどがあり、それなりに楽しんで
いたと思います。「いたと思います」と言うのもバレンタインデーなどと言う
類のまんまとチョコレートメーカーに騙されまくった行事は中2の義理チョコが一個、
高校三年生で一個でした。(笑)
 
札幌は「雪まつり」がありますが、地方は何もありません。
だからなのか?何を勘違いしたのかは分りませんが、小学校5年生頃に
突如として「各学年、各クラスで雪像を作ります。」と言うことになりました。
クラスで何を作るか話し合い、5年2組佐藤学級は「白くま」を作ることになりました。
 
今でも覚えていますが、豊富にあり過ぎる雪で土台を作り白くまを作って行くと言う
自衛隊でもなかなか難しいのをやろうとよく考え付いたと今でも感心します。
因み1組や他の学年やクラスが何に挑戦したのかはまったく覚えていません!!(笑)
 
一回、二回、三回目と作り続けて行く内に途中から「これは無理だ」と言うことになり、
土台の上に「白くま」を作るために大きな雪の塊を丸くして、その丸くした塊から
何本かの足なのか手なのか判別できないのを作り、結局「たこの八ちゃん」作りに
なっていましたね。一応、目や口や鉢巻も作って、まぁ、どうにか”らしく”なりました。
土台もなくなっていました。
 
一体、誰が何のために「雪像つくり」を考えたのか?また、「白くま」は誰が提案して
そしてどのような経緯で「たこの八ちゃん」になったのか、あたくしの人生の七不思議に
入っています。。。。。

石炭ストーブと蒸発皿

  • 2020/01/01 00:17

炭住は炭鉱の町だけあって冬の暖を取るのは石炭です。

昔は馬が運んできましたが、文明の発達によって車が石炭を積んで来て、

各住居の前に山盛りに降ろして行きます。それを今度は石炭小屋に入れる

作業を子供の頃からやっていました。

 

石炭小屋に入った石炭はしばれる日が続くと固まるので、それをつるはしで

叩いたり削ったりして砕く時もありますが、これが中々大変でした。また、何度か

悪さをして石炭小屋に閉じ込められたこともありましたね。(笑)

 

当然、炭鉱町の学校だけありバッチリと石炭ストーブで、教室を温めるので

家のストーブよりもデカくてゴツイやつです。石炭自体も炭住のは砂利のような

小さ目のですが、学校のは二回り以上も多い石炭で、一度くべると長持ちします。

乾燥防止用にたらいの様な蒸発皿を乗せていました。その、蒸発皿に給食で出て来る

牛乳瓶を入れて飲むのも一つの楽しみでしたね。

石炭ストーブ

 

たまに牛乳を取り出すのを忘れてしまい、蒸発皿の中で底が抜けたり割れてしまい

蒸発皿が白く濁ってしまい、そうなると教室中に牛乳のにおいが充満したりと。

 

昼休みで遊んだり、雪中サッカーなどの授業ではズボンが濡れるのでストーブに

ギリギリまで近づけて乾かすのですが、近づけすぎて煙が出てきて「アチチチ!」と

なることもしばしばでしたね。小学校の時に外で遊び仮病を使って保健室へ行って

具合の悪い振りをしてベットで寝ていて、先生が濡れたズボンを乾かしてくれたのですが

おしっこを少し漏らしていたので、乾き始めるとアンモニアのにおいが立ち込めて来たので

慌ててベットから「さっき、水に濡れました!」と言いましたが、もう1人の先生とクスクス

笑っていて完全にバレてしまってとても恥ずかしい想い出もありました。(笑)

 

そんな石炭ストーブと蒸発皿の想い出のあとでした。。。。。


何時までも元気でいような!!

  • 2019/12/01 00:03

先日、西中の同級生と忘年会をしました。

札幌、石狩、旭川、芦別からと三々五々に集まりました。

 何でしょうか?長く生きてきた中でも僅かな時を過ごしただけなのに

今でも一瞬でその当時に戻り、懐かしい話で盛り上がれます。

きっと、今では言われない当時のあだ名や旧姓や名前で呼ばれるから

なのでしょうか?結婚して苗字が変わった月日の方が長く、そっちの方が

呼ばれ慣れているはずなのに。

 そう、あの頃は今から比べれば将来に対する不安や家庭や仕事に

責任なんてなく、無邪気に毎日を過ごしていただけでした。

 それからこれまでに皆、それぞれに色々なことを経験して来て

今があります。本当に大切な掛け替えのない友人たちです。

 何時までも元気で会って、同じ話をしていますがその度に笑い合って

行きたいと思います・・・・・。


ラジオ生放送中時の写真


同窓会参加全員集合の写真

https://www.youtube.com/watch?v=VQpzHUH42Js

晩秋と友

  • 2019/11/01 00:22

あれは忘れもしない、高校二年生の時に電気科の伊田

木枯らしの舞い散る秋に身体を丸めてトボトボと帰って行ったのを授業中の

教室の窓から見ていました。

 

伊田は赤平から芦別工業へ通っていまして、中学も工業での科も

違いますが、気が合ったのでよく話をしていました。しかし、ご多分に

漏れず赤平も炭鉱町で、またわざわざ隣町から芦別工業へ来るくらいなので、

まぁまぁなやんちゃな奴でして・・・・・。

 

では、なぜ?授業中にもかかわらず木枯らしの舞い散る通学路を身体を丸めて

トボトボと帰って行ったかと言うと、その少し前に教室でタバコを吸っていて

見つかってしまい停学になったからです。もちろん伊田は今回の停学は

初めてではなく、過去に何度も停学なっております。ただの停学ならば二週間ほど

自宅謹慎をし課題をすれば元のように楽しい学校生活が待っているのですが、

今回ばかりはどうにもこうにも単位が足りなく、「オレ、今回停学になったら単位が

足りないから留年か退学だわ。」とこぼしていたので、担任の優しい宮崎先生でも

学業?復帰は難しいかと・・・・・。

 

もちろん、私たちも大切な仲間である友だちが退学になるのはとても残念です。

しかし、事ここに至っては見守るしかありません。で、午後の授業中に窓の外を

見ると伊田がトボトボと歩いていたんです。

 

あれから36年になりますが、この季節になると何時もあの伊田の身体を丸めて

トボトボと歩いて帰る光景が思い出されるのです。。。。。

夕焼けを見つめて

  • 2019/10/01 01:13

よく小学生の頃に夕焼けを見つめていました。
別に何を思うとかではなく、ただ夕焼けを見つめていました。
 
自転車にまたがりハンドルの所にアゴを付けるようにして
陽が沈むのを見ていました。ハンドルの鉄くささが今でも鼻先に
残っています。何処へ行くのか?カラスの群れを見ながら、学校帰りの
中学生を見ていました。
 
あの光景は今もあるのかな?
あの中学生の方たちは元気にしているのだろうか・・・・・。

そうして大人になって、再開する・・・・・

  • 2019/09/01 00:06

暑かった日々と遊び過ぎた夏休みも終り、始業式が始まり朝晩と肌寒くなる9月。
何でも今は「前期・後期」で分かれるるみたいですが、どうもピンときません。
誰が何のためにそんな呼び方にしたのでしょうか?ここは、一学期、二学期、三学期
が絶対にメリハリがあっていいと思います。
 
で、新入生にとっては二学期が一番充実するんじゃないか?と勝手に思っています。
一学期はまだなじめずに、あっという間に夏休み。なので、高校生の頃はこの夏休みに
学校を辞めるのが多かったですね。三学期は冬休みが終わると春休みのまでの
約2ヶ月あるかないか?ですから、そう思うと、少し慣れて友だちも出来た二学期が
新入生にとっては良い時期でした。
 
私の記憶違いなのか?いえ、そうではないと思いますので正解を前提に話しますが、
「芦別祭り」は「6月」と「9月」にもあったと思うんですね。それが、どちらも「芦別祭り」と
言う呼び方だったのかは定かではありませんが、確か2つあったような気がします。
なので、高校生での9月の楽しみは「祭り」です!!
 
何通りと言うのか?分りませんが、野口病院の前の通りにずらっと出店が両側に
並びます。西芦の炭鉱祭りの3倍?4倍は出店が出るので賑わいます。(笑)
 
高校生ともなると「お祭り」では彼女・彼氏なんかと手を繋いだり、腕を組んだりして
歩く生徒もいますが、私はそんなことからは縁遠くて・・・・・。
たまに、中学まで一緒で高校は違う友だちが異性と歩いているのを見ると、それも
女性が西芦で彼氏が他校生だと、何だかこっちの方が照れくさくて見て見ないふり
したりしましたね。向こうも余計なことを言われたくないので、気づかないふり。(笑)
 
でも、そうして幼稚園、小学、中学と同じだった同級生と少しずつ疎遠になって
行くんですよね。そして何十年かして、また昔みたいにバカ話をして集まっています。。。。。

夏休みとプールの想い出

  • 2019/08/01 00:48

西小では、小学3年生までは下のプールで、四年生以上上のプールだったと思います。 

で、下のプールは通称「ションベンプール」言われておりました。

まぁ、お察しの通り低学年は躊躇なくプールでおしっこをしますからね。()


小6まで泳ぎが得意ではなく、と言うか、泳げなかったのでプールの授業はそれまでに一度か

二度ほどの記憶しかありません。その内の一つは下のプールで、もちろんおしっこをしました!()
小さい時から風呂で頭を洗われるのがイヤで膝の上で仰向けになって頭を洗ってもらうか、

思いっきりシャンプーハットだったので、その時点で水が苦手だったんですね。

プールも家の前でビニールプールで思う存分ひとりで遊んでいましたね。()


しかし、一年奮起して小6の時に同じかなずちの「村上(むら)」と上の炭鉱風呂で炭坑マンの

オヤジたちに怒られながら練習を積んだ甲斐もあり、何とか数メートル泳げるようになったので

夏休みに満を持して上のプールにデビューしました。


毎日プールに通った結果、お陰さまで夏休みが終わる頃には25メートルも泳げるようななりました。

途中、大きなアブに刺されながら、それから非難する名目で潜水して後輩の女子のお尻にめがけて

突入して楽しんだりと、楽しく良い想い出でしたね。

 

プールに行く楽しみは「むらや」へ寄って串団子やかき氷を食べたり、葛西商店でミリンダや

ペブシなどを飲んでは王冠の裏ぶためくって世界の国旗やら金額が出たらもらえるのを楽しんで

おりました。

 

山間の炭鉱町なので海へ行けない分、子供たちはプールで思いっきり楽しんでおりましたね。

楽しい夏休みとプールの想い出でした。。。。。

https://www.youtube.com/watch?v=eTTpeERnIDI

追憶

  • 2019/07/01 00:24

何か辛いことなどがあると、ふと西芦別の原風景を思い出します。
この歳になっても懐かしい光景が頭に浮かびます。
山々の景色、整然と並んでいる炭住、一条通りの道端に生えてる草や
たんぽぽ、買い物帰りのお母さん、真っ青な空、夕暮れ時の黄金色・・・・・。
 
炭坑マン家族に生まれた宿命、炭鉱町で育った運命。
今は亡き祖父母にオヤジ、そしてだんだんと記憶がはっきりとしないおふくろを
兄貴と2人で見守っています。
 
あの時の人々は、どのくらい健在なんだろう?健在なら何をしてるのだろう?
西芦の町は殆ど面影は無くなりつつありますが、私の心には今でもはっきりと
人々の営みや自然が染みついています。。。。。

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