欽ちゃん本店
欽ちゃん支店

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たった一回だけだったけど、キャンプファイヤーはワクワク・ドキドキでした。

  • 2018/08/01 00:03

暑い!マジで暑かった芦別は・・・・・。

がしかし、子供だったので暑いけど遊びの方が夢中だったので

気にしてない。(笑)

 

クワガタも暑すぎると昼は隠れているし、プールは相変わらず行くけど

意外と疲れる。少しの空き地を見つけると手打ち野球やプラスチックの

バットで三角野球。そう、釣りにも行くけど水温が高いので、ウグイも

どことなく活きが悪そう。

 

楽しみは水道水で冷やしたスイカと近所の家庭菜園からトマトなんかを

勝手に取ってきて食べるのが・・・・・。

 

まぁ、暑い中でも楽しみは沢山あったのですが、私の記憶に今でも

残っているのが、小6の時だと思うんですけど夏休みの終わりに西小のグランドで

キャンプはしてないけど、キャンプファイヤーのようにグランドの中央に枕木なんぞを

組んで火を点けて、それを囲み皆でフォークダンスなんぞ踊った事でした。

 

マイムマイムやジェンカやオクラホマ・ミキサーなかを踊りました。

なんでしょうか?運動会で踊るのと違って夜中に燃え盛る火を囲み大勢で

踊るのってとても新鮮でワクワクしました。また、あまり知らない女性(その時は

上級生の女性)と手をつなぐドキドキ感が溜まりませんでしたね。(笑)

 

最後に「燃え~ろよ、燃えろ~よ」なんか合唱して、最後は先生がまだ残って

いる枕木を壊して「オーッ!!」と歓声が上がっていましたね。

 

今度、同級生とやろうかな・・・・・。

炭鉱町の夏と笑顔。

  • 2018/07/01 00:50

いよいよ7月に入りました。
芦別は豊富な山間部なだけあって冬はスキーも盛んでしたが(因みに私は
ボブスレー以外は苦手でした)、やまはり子供たちは圧倒的に”夏”の方が
人気があったように思います。
 
盆地なので確かに暑い!
けど、子供には夏の暑さんて全く気にならなく、汗を掻きながらでも夏休みなんかは
一日中遊んでいたから、男子女子問わず健康的に日焼けしていました。
 
野球、サッカー、釣り、プール、十字架ポン、缶蹴り、手打ち野球、家のまでビニール
プールで遊んだろ、スカイを食べたり、単純に朝から夕方まで自転車を乗ってたりと・・・・・。
また、夜になると各家の前や公園では花火を楽しんでもいましたね。
 
それと何だか”夏”は大人も子供も皆、表情が明るかったような気がします。
第一売店の三北商事が西芦の駅前からボーリング場(その前は映画館)へ移転して、
じいさん、ばあさんが老人ホームの管理人をやっていて近かったのと、学校帰りの通り道
だったので、それまでほとんど第二売店だったのが利用頻度が上がりました。
 
友だちの”島田よしの”と言う子のお母さんがその第一売店に入ると右横にある
食堂で働いており(駅前の時は入って左横)、「”よしの”のお母さん!」と言いながら
醤油ラーメンを食べた記憶があります。(なぜ、叫んだのだろうか?)
 
当時、今のようにビニール袋なんかはなく、各家庭で買い物かごを持って買い物を
していました。で、売店(配給所)ではピンク色の紙をくれてそれを買い物かごの
上に乗せていました。子供心に「何を買ったか見られないようにかな?」と思って
おりました。今にして思えば、それもあるけどゴミ等などが入らないようにとか、
夏の直射日光や雪が入らないようにと言う配慮もあったのかな~と。
 
懐かしいです、お母さんたちが籐製の買い物かごを笑顔で持っていた姿。
自然にエコをしていたんですよね。

おふくろが持っていたのはこれ


 
そう、炭鉱町の短い夏は道行く人々がみんな笑顔でした。。。。。

カエル取り。

  • 2018/06/01 00:00

炭鉱町と言うけあって中々の山間部なので、それなりに動物、昆虫、川魚など。

で、子供なので狩猟に行くわけがないので、もっぱら川でウグイを釣りに行くか、

クワガタかカエルとりや、たまにチョロチョロと流れている山の沢沿いで

ニホンザリガニなんかもとりに行ったりと。

 

他にも、ハチの巣やタニシ、アゲハチョウ、オニヤンマなど主に昆虫ですが

様々なのをとりに行けます。春先はその辺に山菜なんかも採り放題でしたね。

あたくしは山菜などは採りに行ったことはなく、今にして思えば「採っておけば

良かったな~」と思いますが。

 

で、この時期位でしょうか?西小・西中の裏に職員住宅へと行く踏切が

あるのですが、そこに小川がありそこはカエルの宝庫でして私たちはそこで

ツチカエルや卵を取っていましたね。因みにカエルの卵は腸のような感じで

感触的にはスライムのようで気持ちいいんですよね。

これを最初に見た時には「マジか!!」と思いましたが、

何でもチアシードとか言うスーパーフードなんだそうです。(笑)

 

とんぼ網でもいいのですが、男らしくないと思われたくないので小川にめい一杯

股を広げてまたいでカエルを素手で素早く取るんですね。これがカエルも利口で

中々上手く行きません!水面から頭と目をちょっと出しているので、それを取るの

は10回に1回くらいの成功率。しかし、どこにでも天才と言われるが居て、

同級生の今野はとても素早く「カエルとり職人か?」と言うほど上手く取って

いましたね。なので、顔と言うか目がカエルに似ていました。(笑)

 

その今野は自分が上手い事を言いことに中々の上から目線で、「やれ、卵を

素手で持つと死んじゃうからよ!」とか「卵でも死んで白くなってる所は取らないと

伝染するから取らないとな!」だとか、「カエルは・・・・・」と同級生のくせに何かと

うるさいんですね。けど、なぜか?今野の皆従っていると言う感じでしたけど。

 

カエルは目がほとんど360度近く見えるので真正面からとるのは容易でなく、

カエルが水面から頭を出している後ろの方に上手く回って取るのが一番上手く

取れるんですよね。(笑)

おんぶカエルを取るとかなりヒーローです!!

 

それにしても、今から思うとよくカエル取りなんか必死こいてやっていたなよな?

と思いますと。家に持って帰ってきてもおふくろには「気持ち悪いから捨てて来なさい!」

と怒られるし、だって、時にはその小川に足を滑らせたり、またぐ時は勢いで行けますが、

またいだ足を戻す時はまたぐ時以上の勢いが必要で、戻しきれなくて片足がドボン!と。(笑)

 

けど、子供たち特に男子は狩猟のDNAが騒ぐのか?かなり必死になって取って

いましたね。たまに女子も来ていて、それはそれで良い所を見せようと必死でした。(笑)

夢の跡

  • 2018/05/01 00:50

今でも年に一度位は数名のスタッフと一緒に芦別の”三千里”へ行きます。
高速で滝川で降りて、赤平の裏から行った方が道も良く近いのですが、
三笠で降りて山道を通って行きます。
 
理由は頼城(今時期は頼城へ入る前に時間があれば三段滝で”山わさび”を
買う時もあります)を通って中の丘を見渡しながら西芦に入り、まだ一応ある
最後に住んでいた改良住宅7丁目52-2-7を確認し、そのまま小さい時から
お参りしている7丁目のお地蔵さんを拝み、それから桜ヶ丘の霊園へ行きおじさん
のお墓に好きだった焼酎と花を供えるのが三笠から降りて山道を通る目的です。
 
そして、”三千里”でお目当てのホルモン、シンタン、サガリをめいいっぱい堪能し、
帰りは滝川から高速へ乗るのに常磐を抜けて赤平、東滝川、滝川インターから帰路へ。
 
行く度に思うのはやはり炭鉱町の変わり果てた姿です。
頼城はほとんど住宅が無く、中の丘は草が生い茂り、西芦も一部だけに住宅が
集中していて、商店街も学校もなく本当に寂しい限りです。
 
幼少期から思春期を過ごした町からは人間の営みを感じることがありません。
整然と並んでいた炭鉱住宅、グランドからは部活の掛け声、子供たちのはしゃぐ声、
商店街や三北商事で買い物をしている姿、15時前から風呂の前で並んでいるお年寄り、
祭囃子の音色、定期になるサイレン、行も帰りも無口な坑夫たちの波、とんぼ網で
虫を捕まえている子供たち・・・・・。
 
まさに「つわものどもが夢の跡」です。。。。。

大人への芽生え・・・・・。

  • 2018/04/01 00:13

新学期が始まる時期ですけど、西芦別はまだ所々に汚くなった雪の

かたまりが残っており、春の穏やかな香りとは裏腹の季節はずれな

顔をのぞかしています。

 

それまで一緒に小学校に通っていた上級生の見慣れない制服姿を目にし、

何となく違和感を感じながらも大人っぽくも見えました。

 

自分が制服を着る側になると友だちの制服姿が新鮮でしたが、

中にはお下がりでどう考えても体形に合わなくぶかぶかで、特に袖の所は

すぽっりと手が隠れていたりと可笑しかったですね。

また、女子のセーラー服姿を見て今まで特に意識をしていなかったのに、

急に女性を意識しだすようになるのもこの時期でした。(笑)

 

中一の時は木造の旧校舎側で、そこの近くに美術室がありその前で

るっちさをりまゆみの三人がクルクルッとスカートを回転させながら

ヒラヒラとさせて笑い合っていた光景を今でもしっかりと脳裏に焼き付いています。

るっちは頼城からさをりまゆみは中の丘からの三人でした。

 

あれから39年が経ち僕らは52歳になります。既に半世紀を生きました。

考えてみると、あの時の僕らや彼女たちは13歳になるかならないか。

そう、生まれてたった13年しか経っていなかったんですが、中一は紛れもなく

大人への芽生えだったんだなとしみじみと思います。。。。。

https://www.youtube.com/watch?v=n8f_A_ECAPU

それぞれの思惑の”春休み”

  • 2018/03/01 00:36

3月は卒業式以外にとっても大事な行事と言うかなんて言うか
楽しみがあります! そうです、春休みです。
夏休みや冬休みからすると休みは多くないのですが、それでも
二週間近くはありました。
 
季節的にも中途半端で別段何をするってわけではないけど、
それでもまとまった休みは嬉しい。小学生の頃はあまり気にして
居なかったけど、中学生や高校生になると一年ごとの春休みが
それぞれに思惑があって楽しかったですね。
 
1年生から2年生になる時には「あぁ、これで最下級生ではなく
後輩が出来て、ちょっとは偉くなれる!」と言う感じ。
で、今度は2年生から3年生に上がる時は「よし!これで天下だ!!」
と言う、最上級生になる昂揚感。(笑)
 
なので、小学生の頃はプラモを作ったり選抜高校野球などで殆ど家に
居ましたが、中学生からは思春期と言うのもあり、昼夜問わず外で
遊んでいましたね、友人たちと。
夜中に友達と遊ぶのに合図で2階の部屋に小石をぶつけて呼び出すのですが、
ガラッ!と勢いよく窓が開き友達のお父さんに「うるせーぞ!!」と怒鳴られて、
慌てて逃げた想い出があります。単純に部屋を間違えていたんですね。(笑)
だいたい、この頃から少しずつ脇道にそれていく人と真っ直ぐに
進んで行く人に分かれて行きますね。(笑)
 
まだ所々に雪が残って道も悪いんだけど”ふきのとう”などが
力強く芽吹いて来て、時折感じる生温かい風と匂いが好きでした。。。。。

箸が転がっても・・・・・

  • 2018/02/01 00:10

先日、街を歩いていて4、5人の女子中学生が「何がそんなにおかしいの!?」
と思うくらいに笑い合っていました。 で、直ぐに「あぁ、そう言えば俺の同級生の
女子も何の話題何かわからないけど、休み時間のクラスや廊下でよく笑い声が
聞こえて来たな~・・・・・」と思い出しました。
 
そう、これまでこの「想い出のあとに」では私のことや男の友人がほとんどでした。
まぁ、私が女子に人気が無かったので浮いた話もなかったのもありますけど。(笑)
 
で、未だになんであんなにケラケラと笑っていたんだろうか?
よく「箸が転がっても笑う年頃」と言われるからでしょうか。
そこへ行くと男子は「クックックックッ」と押し殺したような感じでした。
まぁ、それはイヤらしいことを話し合っていたからですけどね。(笑)
 
しかし、改めて思春期の女子が屈託なく笑い合っているって微笑ましく
感じるのと同時に、私も10代の頃の女子を思い出して、また、近々みんな集まって
昔話の時に「あん時、何で笑ってた?どんな話題だったのよ?」と聞いています。。。。。

あの日に…

それはそれで楽しみはありました。

  • 2018/01/01 00:28

クリスマス、大晦日、元旦と過ぎてまだまだ冬休み真っ最中です。
しかも、見渡す限りの大雪状態で遊びにも事欠きません!(笑)
唯一の弱点は夜のしばれ具合のみ!
 
どちらかと言うと夏休みの方が断然好きですが、ロングランの休みに
文句は言ってられません。ただ、私は残念ながらスキーも不得手で
スケートなんかはレジャーランドにあった室内でローラーの付いた
スケートを二度ほどやって、2秒も立っていられな状態で敢え無く脱落。
 
そうなんです、私はウィンタースポーツはボブスレーとミニスキーを
たしなむ程度なので、冬はもっぱら家の前の雪山で一人で基地を作って
遊んだり、米袋ソリで遊ぶくらいでした。(笑)
あとはもっぱら家でプラモデルかみかんを一日中食べて、苦しくなって
七転八倒しているとか。(笑)
 
小学校高学年になってようやく同級生の”むら”と三角山へ行けるように
なったのですが、それもボーゲンと言うV字で滑る専門。だいたいが
リフトに乗るのさえおぼつかなく、乗るのがおぼつかないのならばリフト
から降りるのも一苦労でした。なので、3回に一回は必ず降りてから
安定しなく転んでいました。(笑)
 
中学に入っても部活の剣道部はほとんど冬休中の練習はなく、
釧路のおばさんの家で過ごして居ましたね。結局、ウィンタースポーツ
が出来ない道産子の私は何が楽しかったのか?とも思いますが、
それはそれで中々に冬は冬で楽しかったんですよね。
 
思えば、な~んにもなく雪の量と寒さだけは半端なかったけれど、
あの真っ白な光景と晴れた日の風呂帰りの一面きれいな星空は
今でもしっかりとまぶたに焼き付いています。。。。。

老人ホーム

  • 2017/12/01 00:50

先日夢を見ました。どんな夢かと言うと、西芦の「老人ホーム」の夢です。 

私のじいさんとばあさんは、私が小学校1年か2年生の時にそれまで一緒に

住んでいた東一条五丁目から「老人ホーム」の管理人として、西区3丁目の

一番前で上の風呂の道路を挟んだすぐ目の前に住み始めました。

 

なので、小学生の頃はそこへ泊まってそこから学校へ行ったり、学校帰りに

「老人ホーム」へ寄ったりしていました。四軒長屋を1つにした建物で、

じいさんばあさんの住居兼でした。

 

常に20人弱のお年寄りたちが集まっていて、花札や碁、将棋などする人や

テレビを見たり、それぞれに話を楽しんでおりました。色々なお年寄りの

方達が来るので、中には誰とも話さないで、何時もひとりソファーで横になって

ハーモニカを吹いていたおじいさんがおりました。ほとんどは軍歌だったので

きっと戦争へ行った方なのだろうと子供心に思いました。

今から思うと息子さんが仕事へ行っていてお嫁さんと居るのが居づらくて

仕方なく「老人ホーム」来ていたのかな?とも。

 

よく、おじいさんやおざあさんたちのやる花札にまぜてもらい一緒に花札を

やって得意になっていたら、突然ばあさんに襟首を掴まれ引きずられて

仕切り一枚で繋がっている住居の方へ押し込まれました。(笑)

きっと、孫が他のおばあさんたちと和気藹々としていたのが面白くなかった

のか?単純に「大人の邪魔をするもんじゃない!」と言う意味なのかは

知る由もないですが、引きずられる私を見ておばあさんたちは「あー」とか

「別にそこまでしなくてもいいのにね~」と言うような声も聞きました。(笑)

まぁ、気の強いばあさんだったので・・・・・。(笑)

 

秋になると菊の展覧会があるので、それを飾っていましたね。

大中小の大きさで子供私にはその価値がイマイチ(今でも)分らなかったのですが

金賞を取る様な菊もあったのでお年寄りたちも気合が入っていたんでしょう。

 

大体、夕方の4時半か5時頃に終わってカーテンを閉めるのを手伝ったり

していましたね。それからじいさんばあさんと一緒にご飯を食べて、寝る時は

大広間にしかテレビが無かったので、その前に布団を敷いて寝ました。

ばあさんが桂小金治の「それは秘密です!!」と中村梅之助主演の

「伝七捕物帳」が特に好きで、私もこの二つを見るのが好きだったので

火曜日によく泊まっていたんだと思います。ばあさんはいつも「それは秘密です!!」

を見て司会の桂小金治と一緒に泣きながら見ていましたね。(笑)

 

結局、いつまで管理人をやっていたのか?は定かでありません。

私たちは東5丁目から途中で改良住宅(7丁目)へ引越しし、おやじがじん肺

になってから少し経ち芦別へ引越ししました。私達が芦別へ引越ししたのが

高校2年の時で、それから間もなくして管理人を辞めたのか?閉鎖したのか?

は分りませんが、じいさんとばあさんも芦別で八十八か所と呼んでいた桜山

レジャーランドの下の養鶏場の近くの場所へ引っ越しました。

 

そんな「老人ホーム」で遊んでいた夢を見たのです。

今でも鮮明に「老人ホーム」のことは覚えています。。。。。

先生は怖くていいんです。

  • 2017/11/01 00:52

先日、福岡だかで生徒が先生を蹴る動画が話題になっていました。 

確かに私たちの時にも先生とちょっとしたことはありましたが、あのような

あからさまに蹴るなんてもっての外でした。

 

って言うか、先生でも気の弱い先生や生徒からからかわられる先生は

居ましたが、それが体育の先生や怖い先生に知られようものなら当然の

ようにぶん殴れていましたね。

 

今、体罰がどうのと言われ直ぐに親もマスコミも騒ぎ立てますが、

結果、あのような環境を生んだのではないのか?と思うのです。

 

中学生の頃はいつもお酒臭くて夏でも長靴を履いて、ほうきの柄を

持って、何かあるとその柄で普通に頭を引っぱたく野球部の顧問で

社会科の竹村先生

 

「学校は休んでもいいから部活には出て来い!」と、生徒の家まで行って引きずり

出して来る、通称シバセンこと”サッカー部の顧問で体育の柴田先生”。

この先生も今でいう所の体罰を絵に描いた様な正真正銘の怖い先生でしたね。(笑)

 

けど、不思議と生徒からは人気がありました。

きっと、生徒のことを考えていたし、それを生徒の方も分っていたんだと

思いたいんですけどね、その”情熱”を。(笑)

 

シバセンが中空知大会のサッカーの試合で準優勝だった時に、

その賞状を部員の前で「お前ら、こんなもんが欲しかったのか!?」と

言いながらビリビリに破いてしまったと言うエピソードが残っています。

大体、西中のサッカー部は悪い生徒が集まる傾向で、その生徒たちからも

ビビられていたのですから、筋金入りです。

 

滝川の明苑中学校へ転任したのですが、その後明苑中学校は中空知

だけでなく全道でも強豪になりました。大した指導者だったんですね。

 

確かに「あの先コー、卒業式で体育館の裏に呼んで・・・・・」などと大口を叩いては

いましたが、実際に卒業式になると感動と感謝でそんなことなんかにはなるはずもなく、

今でも先生達には感謝しかありません。。。。。

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