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どれも新鮮でした・・・・・。

  • 2014/04/01 12:45

あれ、入学式って4月1日じゃなかったんでしたか?
大体、6日~8日にやるみたいですね。
在校生の新学期が始まるのが1日でしたか?(記憶が・・・・・)

あの~、西中の学校指定ジャージはジェレンクの紺色でした。
ファスナーが付いているやつではなくて、
胸の所がV字になっていて頭からすっぽりと被るジャージです。
 
袖には白く細い線が2本と、襟元にも線が二本入っていて中々気に行っておりました。
で、中学に入ると”短パン”なる存在が出て来て、
それまでブリーフだったあたくしは”短パン”という代物をどのように扱って良いのか?分からずにました。
 
未だに、なぜ?”短パン”なのかな?とも思いますが、
きっと中学に入ると部活があり、
それぞれのユニフォームを着る時にブリーフではなく”短パン”をはくためのものだったのでしょうね。
 
何だかそれだけでも「中学って、大人だな~」と思ったものです。
 
で、あたくし何を勘違いしたのか?ブリーフの上に”短パン”をはいていたので、
しばらくごわごわ感と股間が蒸していた記憶が残っています。
 
途中で「違う!これはそのままはくものだ!」と気づきましたが、
恥ずかしくて周りには言えませんでした。
唯一の相談相手は同じ剣道部の”むら”に「むら、短パンの下にパンツはく?」と聞くと、
「俺もはいてる!」との答え。
 
「きっと、俺たち違う見たいだぞ。そのままはくんじゃないのか?」
「俺も何となくそう思っていた」
 
良かったー!こんなの同級生ならまだ笑えますが、
先輩に見つかりでもしたら、かなりの笑い者にされますからね。
特に部室やもっと油断ならないのは風呂です。
あの共同の風呂でおしゃべりで意地悪な先輩に見つかったら次の日から格好の餌食ですからね。(泣)
 
”むら”と確認し合えたお陰で、それまで自信が無いまま風呂へ行く時には誰も見て
いないのを見計らって短パンと一緒にブリーフを素早く脱ぐことも無くなりましたし、
それより10倍難しかったパンツと短パンを上手く重ねてはく緊張感をしなくてよく
なったことは本当に助かりました!(笑)
 
学生服、学帽、徽章、学校ジャージ、そして短パンと、どれも新鮮でしたね。。。。。
 
その後、活躍した”短パン”はあたくしの自家製の覆面と化しました。

チビとの想い出

  • 2014/03/01 00:14

もう三月ですね~。

52-2-7
これ、私が小学5年の時に東一条5丁目9号4舎から7丁目の
改良住宅に引っ越しした時の番号です。
 
昭和52年に出来たんですね。
2-7の意味を忘れました。普通に考えたら52年の2月に出来た感じですが、
引っ越ししたのが秋口(11月くらい)だったので、
2棟目の7号と言う意味なのか52年の2番目に7丁目に出来た意味なのかは定かではありません。
 
この時には引っ越し時期が重なっていたので、
どこもかしこも引っ越しの車があって賑やかな光景でした。
きっと、師走前に済ましたかったんでしょうね。
 
実は、あたくし犬を飼っていまして(因みにチビ)という雑種でしたが、
またこの犬がうるさく吠えるんですよね。
 
学校へ行くと「連れて行け!」と言わんばかりに吠えまくる。
その鳴き声は7丁目から5丁目辺りまで聞こえていたくらいですから、
かなり大きな声でしぶとく吠えておりました。
 
では仲が良かったかと言うと・・・・・。
よく、手袋の上から噛まれていましたから。(笑)
 
きっと、遊び相手でもあり宿敵でもあったんだと思いますよ。
なぜか?って。
 
改良住宅の裏には少しばかりの庭のようなスペースがあるのですが、
冬になるとそこは格好のリング場なんです。
 
ザ・カトウVSチビの。
 
普通にバックドロップやブレーンバスターを決めていました。(笑)
ヘッドロックを掛けている写真があるのですが、
その時のチビの顔は牙をむき出したまるでオオカミのような顔でした。
 
今なら動物虐待だとかいって通報されるのでしょうが、
昭和50年代のしかも炭鉱住宅。
まったく関心を持つ人はいませんでした。
 
そんなことばかりしていたので、チビを離すと(勝手に離れる)人を嚙むようになり、
ある時にお婆ちゃんを噛んで保健所へ連れて行かれました。
 
あたくしが小学校へ行っている時。
帰ってくるとチビはいなく、チビの犬小屋だけがポツンとありました。
 
確か、それが今時期だったと記憶していたもので・・・・・。
 
七丁目から六丁目を見た光景。
 
 

蒸発皿とスキーの歌

  • 2014/02/01 21:09
この時期は一番風邪などが流行り出して、
最悪(生徒にっては最良)学級閉鎖になることもあります。
 
石炭の町らしく、家も学校も石炭ストーブでした。
特に学校では教室を温める為に大きめの”ダルマストーブ”が教室の後か前の方にありました。
 
前の方にあると、
ストーブの目の前の生徒は暑過ぎて顔を真っ赤にして机の上に突っ伏していたりしまたね。(笑)
 
乾燥を防ぐために蒸発皿を乗せているのですが、
これが中々の優れもので乾燥を防ぐだけではなく、
給食の牛乳を温める時にそこに牛乳瓶を入れるとホット牛乳が出来あがります。
が、入れ過ぎれ蒸発皿の中で破裂してしまう時もあり、
蒸発皿が白く濁り、教室中何とも言えない臭いになったりします。
 
また、時折焦げくさい異臭を放つ時があり、
それは蒸発皿の水分が無くなって焦げてしまっている時です。
最悪、穴が開いてしまったりしています。
 
その様な時には授業中でも蒸発皿の中に水を入れて来てもOKでした。
あの学校中が授業中で静まり返った中、ひとり水飲み場で蒸発皿に入れている時間が好きでした。(笑)
 

 
話は変わりますが、小学校1年か2年生の時にクラスで何かの催しものがあり、
個人やグループで歌やちょっとした話をするのですが、
運動も歌も上手い”進藤孝弘君”が一人だったか、
二人だったかで「スキー」と言う歌を歌ったのですが、
それがもの凄く上手くて、アンコール?なのか、
進藤君はそのスキーを3回か4回ほど歌っておりました、得意げに。(笑)
 
や~まは白銀~♪ 朝日をあ~び~て~♪ す~べ~るー スキーの~風切る速さ~♪
 と~ぶは~ 粉雪か舞立つ霧か~♪ おーおーおーこの身も~駆けるよー駆~ける~♪
って感じを3,4回歌っていました。(笑)
 
因みにあたくしは演技付きで”ふみちゃん”ともう一人を入れて3人で、
そのもう一人が「中条きよしのうそ」と言う歌いながら、
それに合わせて小芝居なんかをやっていました。
 
折れた、た~ばこの吸殻に~ あなたのうそが分かるのよ~♪という歌なのですが、
紙でタバコを作り、そのタバコを折って投げつけて踏み付けた完全にオーバーリアクションで
恥ずかしさとあまりうけていない現状を乗り切ろうとしていました。(笑)
 
でも、しろう君(進藤君)の「スキー」は上手かったな~。。。。。

冬休みと年賀状

  • 2014/01/01 00:00
楽しみなクリスマスも過ぎて、大人達の慌ただしさを尻目に年末特番やら総集編やらを手をみかん色に染めて過ごし、
正月は正月で親戚やらが来て”お年玉”をもらっては直ぐに中身を見て叱られながらも過ぎて行きます。
 
また、正月の楽しみの一つに友人から来る年賀状を見る楽しみがあります。
 
が・・・・・。
 
あれは小学校の5年生だと思いますが、初めて年賀状なるものを送りました。
クラス全員に。
 
で、正月楽しみに郵便受けを開けて確認すると、
なんと・・・・・1枚!!
 
それも担任の”佐藤妙子先生”から来た1枚きり!!(涙)
 
家族や親戚からは冷やかされるは、情けないはで
あたくしの正月のウキウキ心は一気に冷めてしまいました。
 
ん~まったくの想定外でした!
 
三学期が始まりそのことを言ったのか、どうなのかは覚えていませんが
6年生の正月にはクラスだけではなく、隣のクラスの人からも年賀状が
来てかなり安心しました。(嬉しかった!)
 
子供心にでも案外と傷つくものです。
それが基で人間不信にもならず、
良くもまぁ道を外さなかったと我ながら感心しますよ。(笑)
 
あたくしは兄貴と違いスキーなどが苦手で、
家でプラモデルを作るか一条通りから降りてくる坂道でミニスキーやボブスレーをしていました。
ほとんど1人で。(笑)
 
また、家の前は雪はねで出来た雪山があるので、
そこで基地なんぞを作り1人戦争ごっこをしていました。
 
ん~、夏は家の前でビニールプールで1人遊び。
冬は冬で家でプラモ作りで、外では1人ミニスキー&ボブスレーか
基地で1人戦争ごっこ・・・・・。
 
あれ?これってかなり孤独じゃないですか!?
 
でも、私はまったく気にしていませんでしたね。
1人で遊ぶ方が気楽だったんだと思います。
 
それか!?年賀状が担任の先生から1枚という現実は!!(笑)
 
あと、冬休みは小・中と釧路のおばさんの家に2週間以上行っていたので、
冬・夏休みにあまり同級生と遊ぶという考えがなかったんですよね。
 
そう考えると、ちょっと変ですかね?
 
まぁ、小中、高校とそれなりに正月も冬休みも楽しんでいたので
よし!とします。
 
って言うか、「お年玉」は何に使ったんだろうか?
スポーツとかしなかったしましてや勉強なんかしなかったので、
そのようなグッズにお年玉を使った記憶はありません。
 
あっ、プラモデルだ!伊藤商店やプラカラーも買う時には芦別の
松田さんでお年玉がプラモデルに変わっていたんだった。。。。。
 
コンバットが好きだったのでプラモデルは↓
一気に興奮でした!!
 
松田さんでは誰か上手な人の作品があり、いつも憧れていました。
 
色を塗るのに、こんなに上手くは絶対に行きませんでした。
 
コンバットはヨーロッパ戦線なので米軍VSドイツ軍でしたが、
やっぱり日本人としてはね・・・・・。
 
おふくろが掃除をするのにはたきを掛けるのですが、たまに腕が取れていたり兵隊の位置が違っていると、
あたくし猛烈に怒っていましたが、
おふくろはしらを切っていましたけど、絶対に分かっていました。。。。。(笑)

クリスマスは何処へ。

  • 2013/12/01 00:59

師走はどこも慌ただしい季節です。
が、学生だった私達には「ふ・ゆ・や・す・み~!」と
正月の「お・と・し・だ・ま」が楽しみな季節です。
 
また、もう一つ忘れてはいけないのが「く・り・す・ま・す」です。
芦別の町には唯一の『まついのおもちゃ屋さん』があり、クリスマス
近くになると必ず裏表にびっしりと写真の付いたチラシが来るのです!
(まついさんは子供たちにとっての聖域でした)
 
そのチラシを見て、「一番はこれと、二番はこれ、三番がこれ・・・・・」
と言うように、結局は一つしか買ってもらえないのですが、想像の中で
欲しい物リストを五つくらい思い浮かべては、何度も何度もチラシを
見ながらニヤニヤしているのでした。
 
今から思うと、田舎のくせに「まつい玩具店」は中々の商売上手で、
クリスマスの一週間前くらいに一度チラシで子供の購買意欲を
掻き立てて、クリスマス当日にも「とどめの一発」のようにチラシが
入っています。親としては「おのれ~!」と言う心境なんだったと思うのです。(笑)
 
たまにチラシが見あたらない時があったのですが、そのような時は
おふくろがチラシだけを抜いて石炭ストーブにくべていた時です。
(おのれ~!)
 
でも、子供は本能的に学習していますので、クリスマス当日には
誰よりも早く起きて新聞の中に挟まっている、それも”まつい玩具店”の
チラシだけを抜いているんですね。(どうだ!)
 
私が最も興味を持っていたのが、小学校の2年生くらいまでは
回転したり、歩きながら胸からマシンガンを撃つロボットやポリで出来た
マジンガ-ゼットの人形ロボ。少し経ってからの主流は「泣く子も黙る!
超合金ロボ!」。それからはもっぱら「てっぽう」でした。
(今でも銃関連は好きで、昨年から17年ぶりにサバゲーで”てっぽう”
を撃ちまくってます。笑)


こんなの


最近のは

めちゃめちゃ強そうで格好いい!

こんなのもありました。



 
まぁ、中学生くらいになるとクリスマスよりも、「冬休みは何して遊ぼうかな~」
が主でした。部活は剣道部で顧問の”村上直定(通称グジュ)”先生は
定年間近だったのもあり冬休みの練習はあまり多くはなかったので、
あの真冬の冷たい体育館での裸足の練習は少ない方でした。
 
 
あれ?何時ごろからクリマスをやらなくなったんだろ・・・・・?
何時から興味を持たなくなったんだろうか。。。。。
 

油谷温泉の想い出

  • 2013/11/01 00:01
今月、11月24日で「西芦別小学校閉校記念事業」が行われます。
その後にスターライトホテルで「惜別の会」を行い、私たち第四十回
卒業生(昭和54年3月卒業)の十数人は皆で宿泊します。
 
昔は油谷(ゆうや)温泉と言っていましたが、何時からスターライトと言う
名前になったのか?は分かりませんが、20年は過ぎていると思います。
 
当時の私の家での娯楽施設は”芦別レジャーランド”か”油谷温泉”
くらいで、あとは冬はスキー場、食べに行くとしたら”恵久ちゃん”位でした。
 
まぁ、一応西芦別にも”ボーリング場”はありましたが、あまり長くは
やっていませんでしたから。
 
油谷温泉は山の奥の方にあり、左右にカーブする舗装のされていない
山道を行くのですが、時間が長く感じたのを思い出します。
また、帰り道は夜中なので電灯もほとんどなく、車のヘッドライトを頼りに
走るのですが、たまにすれ違う車があると何故か安心したものです。
 
スターライトホテルになってから行ってないのかな?
いや、16,7年前に高校の応援団の先輩の結婚式がスターライトで
行ったので一度だけ行きました。
 
けれど、式に出てとんぼ帰りで札幌に帰って来たので、まったく記憶が
ありません。
 
やっぱり私の記憶の中では、あの薄暗いような色合いの体育館で
卓球をやった”油谷温泉”なんですね。
 
小学校の時と、中1の時に一泊で宿泊研修がありました。
高校1年か2年の時には写生会?だか、単に遠足なのかは覚えていませんが
その時に行ったのが最後です。
 
一番の想い出は中1の宿泊研修の時に、ご飯を食べてから体育館で
催しものをするのですが、同級生の女子の”ルッチ”が当時流行っていた
ジュディー・オングの「魅せられて」を、レースのカーテンだかシーツを羽織って
ステージで振つけ付きで歌っていたことです。
 
強烈に覚えています。
恥ずかしがり屋の私としては人前で、しかも一人で振つけ付きで歌うなんて
絶対に出来ないことなので。(笑)
 
あと、小学校の時にも先生達が「早く寝ろ!」と言って見周りに来て
再三催促するのですが、夜中の10時過ぎくらいにおしっこへ行く時に
”阿倍先生”が、皿にこんもり盛られてアルミホイルで覆った焼き鳥を
何処からか(ランドか街の焼き鳥やさん)持ってきて部屋に行くの所に
偶然出くわしました。
 
「あっ、やきとりだ!」と言うと”阿倍先生”は「違う!」と言いましたが、
ランドやおみやげで買ってくる焼き鳥を何度も見ていたので、どう考えても
120%焼き鳥でしたが、催促して寝かせようとした手前「そうだよ、一本
食うか?」と言えるはずもないですよね。(笑)
 
もう十分すぎるほど大人になり、お酒の味も覚え過ぎるほど覚えて
しまった身ですので、11月24日は堂々と焼き鳥をつまみにお酒を飲み
夜更かしでもします。。。。。

自転車と雪虫

  • 2013/10/01 04:34
夏が暑ければ暑いほど秋が目映い位の黄金色になり、
それが過ぎるころにはもう冬の足音が近づいて来ます。
 
昭和40年代、50年代初頭の炭住に住んでいる人達の移動手段はほとんど自転車が活躍していました。
 
あたくしも小学3年生くらいに幼稚園から乗っていた
”ピノキオ(他の同じくらいの子供達はピーターパンを乗っていました)”
とかいう自転車から切り替えの付いた自転車を買ってもらいました。
 
キ・リ・カ・エですよ!切り替え!!
 
しかもハンドルの所に切り替えがあり、親指で出来るやつです。
どうしてか?中途半端な数の4段切り替えでしたけど。(笑)
 
あたくしが買う自転車屋さんは7丁目の奥にある泉町の「三由自転車」です。
因みに大きな犬がいつも吠えていました。
 
どうして自転車屋さんってワクワクするのでしょうかね?
しかも、置いてあるだけでは飽き足らずに壁や天井から吊っていますもんね。
 
その三由さんで買うので、
空気を入れる時もパンクを直す時もちょっとした油を注す時にも、
三由さんでやってもらっておりました。
 
また、何を勘違いしたのかドライバーズ手袋(1100円で指先が無いやつ)なんかを買ったりもしていました。
革製の手袋は2000円位して「何時かは革手袋」とささやかな夢を見たものです。(笑)
 
また、遠出やサイクリングなんかしないくせに(行っても桂町公園や東頼城経由で啓南橋を回るコース)、
「何かあった時のためにパンクセットやサイクリングセットなども買わなきゃ!」と、
三由さんにパンクを直しに行く度に想像を膨らませるのでした。
 
で、熱い夏→目映い黄金色の季節を自転車を乗り回して来た日もそろそろしまいの時期が来ます。
その時期を知らせるのが「雪虫」です。
 
こやつ目は急に大量に出て来て、
自転車を颯爽と漕いでいるあたくしの目や鼻の穴や口と言う、
穴と言う穴めがけて突入して来るのです。
 
でも、この「雪虫」が出ると言うことはもうすぐ冬の訪れを知らせる合図なので、
「あ~、今年の初雪は早いな~」などと大人びた会話なんぞを子供同士で話し合ったものです。
 
雪虫って毛皮を着ている感じしませんか?
小さいぬいぐるみのようでもあります。
 
何でも、「雪虫」を調べると、そう呼ぶのは北海道くらいで他にも正式名が乗っていましたが、
全く親しみがなかったので「雪虫」でこれからも通しておきますね。
 
さぁ、今年は何時ごろ「雪虫」が現れるのでしょうか?
 
あっ、せっかく買ったドライバーズ手袋ですが調子に乗って
釣りの時に使い、ウグイの生臭い手袋になってしまいました。。。。。
 

夕焼けとともに・・・・・。

  • 2013/09/01 09:31
あれだけ夏休みも終わるのを残念で且つ、
学校へ行くのが憂鬱な気分も一旦学校が始まり友人達と遊ぶようになると
またいつもの日常に戻ります。
 
それにしても9月の西芦別の夕焼けはきれいでした。
赤とんぼがそこらじゅうにツーランで飛んでいます。
 
やっぱり盆地なのであれだけ暑かったら、
その分、初秋もきれいなんですよね。これまた遊ぶには絶好の季節です。
 
今ではサッカーなどは盛んですが、私の小学生の頃は
もっぱら野球が主で、「ブラックスネーク」なる少年野球団があり、
それなりに自信のある少年達は入っておりました。
 
私の同級生のお父さんが「ブラックスネーク」の監督をしていました。
子供心に「親子でやるってどんな感じなんだろう?」などと、
余計なことを考えていたものです。(笑)
 
私はどちらかというと運動が苦手な方でして、
小4の時の一年間だけやっていたと思います。
まぁ、別に少年野球団に入っていなくとも、
その辺の広場や公園では三角ソフトやプラスチックのバットとあんぱんボールでやっていたんですけどね。
(人数が少なくても出来ますから)
 
その昔、自転車のスポークに野球のボールを挟むのが流行っていましたが、
かなりの確率で盗まれるのでグランドへ行く時だけ挟んでいたりもしていました。
 
また、炭山川では相変わらずの”ウグイ”しか釣れませんですが、
いい感じでそれなりに大きいのが釣れるのです。
まぁ、それでも20cmもあれば「でけぇー!」などと騒いでいましたけどね。(笑)
 
秋って影が伸びるんですよね、何故か。
そう感じるのは私だけでしょうか?
でも、確実に西芦別の影は長く伸びていました、えぇ、確実に。
 
その長い影での影踏みも楽しいし、十字架ポンも中々のハードな戦いでしたし、
かなり燃えました!
 
一年中遊んでいましたが、そう考えると秋に沢山遊んだ記憶があります。
きっと、これから長い冬で外での遊びが制限させるので
子供心にも自然に「遊ぶんなら今しかないぞ!」と感じたのかも知れませんね。。。。。
 

泳げた!!

  • 2013/08/01 00:06
あ~、西中(上のプール)が恋しい・・・・・。
山間部にある西芦別の子供たちの夏の楽しみの一つに”プール”があります。
西小の敷地内にあるのが、小学1年生~3年生までが入る西小プールと呼ばれた、別名「しょんべんプール」
 
都会の人たちは信じられないと思いますが、
私たちの小さい頃は炭鉱風呂やプールで平気でおしっこをしていましたし、
一度炭鉱風呂で小さい子(3、4歳)の子供が”うんち”もしてしまっていました。(笑)
 
で、小4~6は上のプールと言われた中学校が管轄しているプールです。
小学校の裏の線路を越えた場所にありました。
 
中学生とは曜日で分けていましたので、
一緒に入っていじめられる事はありませんでしたので、安心して遊ぶことができました。
 
小さい頃は”玉川”へ三井のバスで町内会に分れて行ったこともありますし、
留萌なんかへも行った記憶があります。
 
でも、やっぱり西中プールの思い出が強いんですね。
それと言うのも、私は小5まで泳げなくて6年生になって初めてプールで
泳ぐことができたから余計に記憶に残っているのです。
 
私、村上、鳥居のあんこの3人は泳げませんでした。
けれども、小学校最後の年は「泳げるようになるぞ!!」と誓い合い、
で、その練習場所として選んだのが第三浴場(通称上の風呂)で
おじさんに怒られながら泳ぐ練習をしたおかげで何とか平泳ぎ2メートル!!
 
待ちに待った”夏休み!!”
私たち三人は、いざ!上のプールへ!!
 
まずは浅い所で練習、練習。
徐々に深い所へ・・・・・、でも、まだ早い。
 
二日目、三日目と段々と慣れて来て、その内に鳥居のあんこは飽きて来なくなりましたが、
私と村上はせっせっせと毎日通いました。
 
行く前は”ムラヤ”へ寄って、独特の平べったい串団子とかき氷を食べて、
帰りは耳に入った水を片足飛びでピョンピョンしながら”かさいさん”で
ペプシやミリンダ、パティオなどを飲んで王冠の裏ぶたを開けて50円や
100円を当てたり、国旗のマークを見ては「あ~」とため息を付いたりと。

 
楽しかったですね~。
その内に慣れて来て、女子とも遊ぶようになると、もう毎日がプールへ
行くのが楽しみで仕方がありませんでした!!
 
一つ難を言えば”アブ”。
こやつは天敵です、ちょっと油断をするといつの間にか背中にくっついて
いて後から腫れて来ますから。特に大きいスズメバチのような黄色いアブが
周りを旋回していると、急いでプールの中に潜って、そのまま女子のお尻などに
ぶつかっては喜んでおりました・・・・・。(笑)
 
夏休み最後の方は、なんと村上と25メートルも泳げるようになりました!!
 
こうして小6の楽しい想い出が終わったのです。。。。。

炭住のもう一つの楽しみ

  • 2013/07/01 09:44
先月は”神主さん”のことを書きましたね。
で、思い出したことがあります。

西芦の同級生と飲んでいて出てきたのが、
「なぁ、ドンのおじさん憶えてるか?」
「おー、懐かしいな!!珍味を持ってくるおじさんだろ!」
「違う!それはどんだばのおじさんだってー!」
「そうーだった~!!」と。

そうです、私が小さい時(小学5年生頃まで)には
大きなずた袋を担いで色々と行商売りの人が来ていました。

「どんどんぱっぱっのおじさんだよ~」と来るのが、茂尻から付き合いのある行商のおじさんです
。ちょっと小太りでメガネを掛けて先ほどのフレーズ「どんどんぱっぱっのおじさんだよ~」と言いながら家に入って来るのです。
(閉山の人口減で元の顧客を頼って行商をしていたんですね)

どんとは、米やオオムギなど穀物を圧力釜入れて作るのですが、
物自体は丸くてピンクや黄色、白などと色のついたオブラートで包まれており、
それを手や口の中をちょっとベタベタしながら食べる甘いお菓子です。
(味は変わらないのにピンクが人気でした)

何でも茂尻にいる頃に、
兄貴と二人して”じいさんだかばあさん”と作っている所に連れられて行き、
圧縮されていいだけ膨張すると「ド~ン!!!」と、もの凄い爆裂音がなるのですが、
あまりの大きさにビックリして泣き出したんだそうです。(笑)

また、同じように大きなずた袋を担いでお菓子も売りに来ました。
大きな袋から、
アルミだかスチールの名刺サイズほどのサンプル箱を取り出してたくさん並べ、
それを味見して気に行ったのを買うのです。

目の前に沢山のお菓子が並べられて興奮しない子供はいません。
今ほど、ガムやチョコレート、またハイカラなお菓子が数多くは無かったのでもう夢中で味見をして、
まるで何も食べさせてもらっていない家の子供のように片っ端から食べようとして何度もお袋に怒られました。(笑)

同じようにサンプル箱を持ってくる「どんだばのおじさん」は珍味を持って来ます。
あたくし子供のくせに珍味も好きで(既にのん兵衛の影が)、
必ず”氷下魚(こまい)”を買ってもらっておりました。

お菓子売りもそうですが、
大きな袋の中にはサンプルで気に行った商品がちゃんと入っていて、
子供心に「あの袋の中に一体どのくらい入ってんだろう~」と、
好奇心満載で不思議に思っていました。

珍味売りの”どんだばのおじさん”は浅黒く浜なまりで、
いかにも「珍味売り!」といった感じでした。
相撲の(それも幕内)時間に来て、
商いが終わってもお茶を飲みながら色々と解説を交えて談笑していました。

また、若島津のファンで若島津の取り組の時にはより一層の熱が入って身をよじりながら観いっていました。(笑)

今から思えば「かなり重たかったんだろうな~」との思いと、
「きっと、沢山買ってくれそうな家から最初に行き軽くしていたのかな~」
などと、大人になった私は当時の記憶を振り返るのでした。。。。。