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“神主”さん

  • 2013/06/01 08:45
私の”オヤジ”は元々は茂尻の雄別(ゆうべつ)炭鉱の坑夫でした。
”じいさん”の代からです。

で、私が3歳の頃に閉山で三井芦別炭鉱へ来て西芦別の炭住に住みました。

当時、炭住にはどこの家にも神棚があり、月に一度”神主”さんが来てお祓いをしてくれたものです。
私の家は茂尻の頃からの”神主”さんが来てくれておりました。

白くて長いあごひげを蓄えた、これぞ”神主”さん!!と言わんばかりの風貌で、
家に来るとお祓い用の格好に着替えて帽子を被り、
手には棒のような物を持ち、家族が神棚の前に正座してお祓いが始まるのです。

まずは神棚に向かって”神主”さんが何やら呪文のような言葉で始まり、
次に正座をしているあたくしたち家族に向かってお祓い用の紙の付いた棒で頭の上を左右に祓ったり、
一人一人の肩口の所をお祓いするんですよね。

もうその時は”あにき”と二人でクスクスして笑いをこらえるので精一杯でした。(笑)
その度に、”おふくろ”に「シッ!」と言われるのですが、
何故か”おふくろ”の顔もあたくしたち兄弟につられてニヤけていたように思います。

また、部屋の中も”神主”さんはお払いの棒を持って
何やら呪文のような言葉で歩きまわったりもしていた記憶があります。

確か「長男次男、剣の・・・・・」って聞こえて、
最後に「かしこみ、かしこみ、まおす~」と言った後に、
決まって”神主”さんが一つ咳払いをして終わるんです。

終わると、着替えてお茶を飲みながらちょっとした世間話なんかをして、
ちょうど良い頃合いで封筒に入ったお礼金を渡しておりました。

何時の頃から来なくなったのかな~?
きっと、東1条5丁目から改良住宅に移った頃位から姿を見なくなりました。

体を壊したのか?それとも加藤家の経済的な事情からなのか?は
小学生の私には知る由もございませんでした。

今度、実家に行ったら聞いてみます。。。。。

 

この季節はやっぱり。

  • 2013/05/01 00:00
以前にも書きましたが、5月は「炭山まつり」の季節で,
子供にとってこの前夜祭・本祭り・後祭りの3日間はとてもワクワク・ウキウキする時期です。

あの「バン!バン!バン!」と、お祭りを告げる花火の音が鳴り響くと、
居ても立っても居られないんですよね。

お祭りは山の神様のお祭りなので、
何処からともなく神輿やらのぼりやらを引っ提げて、
神主さんのような格好をした人や、
大人も子供も半被(はっぴ)のようなのを来て、
男女の子供問わず白塗りの化粧などをして1~2、3条通りなどを練り歩くのです。

でも、そんなのには全く興味もなく、
いの一番に出店に行っておりました。
今から考えると、
あのような格好をしていた人達は何を根拠に選ばれたのでしょうか?

ただ一つ言えるのは、
何かの間違いで私の所へ来ても全力で断っていたと言うことです。

やっぱり、お祭りは出店ですからね!

しかし、子供の頃は純粋に楽しんでいましたが、
中学・高校になると、「この人たちはヤクザ(的屋ですけどね)?」と
色々と考え深いものになっておりました。
(高校生になると西芦のには行っている暇は無かったですけどね)

まぁ、それはそれなりに悪いこと柄なども教えてもらったりで
楽しいには楽しかったんでけどね。(笑)

でも、今になってつくづく思うのはお祭りって子供のものですよね。
札幌へ来てからは、仕事もあるしさんざん行っていたからなのか?
子供が居ないからなのか?「今さら感」がありました。

がしかし、
北海道神宮で時折出ている出店や数年前から行っている裏参道まつりへ行くようになり、
やはり血が騒ぎます。
(一人でも行きます)

私のばあさんがお祭り好きだったので、
きっとその遺伝子が確実に伝わっているのだと思います。

それにしても小学生の頃はGWの連休なんかよりも、
「炭山まつり」の事でこの時期は頭がいっぱいでしたもんね。

5月と言えば、「炭鉱まつり」想い出が強烈なので今でも
「あ~、そういえば”炭鉱まつり”はそろそろだったな~」と、
責任のなかった時代を思い、
今の事や親の事などを思い複雑な心境になるのでした。

近々、中学までの同級生達と会うので
「炭山まつり」の想い出話しでもして盛り上がろうと思います。
きっと、忘れているエピソードや大爆笑する話も出てくるのでしょうね。。。。。

入学シーズン

  • 2013/04/01 00:00

 

すっかり土や草むらが見えて、小汚いすすの被った雪を尻目に真新しい学生服と西中の帽子を被り、
通学路を二条通りから一条通りに変更。

いざ中学へ入ってみると、
中の丘や頼城からの新しい仲間が一気に10人以上も増えて、もの凄く楽しい。

あれだけ離れがたかった西小のことなんかまったく気にしなくなっており、
しかも上目線。(笑)

一番の楽しみはクラスメートが誰になるのか?と、担任の先生が誰になるのかと言うこと。

1年生は旧校舎木造造りのグランド側。
1年1組は林木久治学級で、1年2組は新任の宮腰司学級。
私は2組でムラは1組と別々になってしまいました。

ちなみに林先生は芦別の渓水町(けいすいちょう)から、
しかも自転車で通勤しており、
一度バスに乗って芦別へ行く時に自転車に乗った林先生が思いっきりクラクションを鳴らされていた光景を目撃した時には、「あちゃ~」
と思ったものです。(きっと子供が芦中だったんでしょうね)

この林先生は生徒の間では名前の「きくじ」と呼ばれていて、
確か理科の担当で生徒に質問を出しては廊下側から順に当て、
直ぐに回答できなかったら「お座り!」と言って、イスの上に誰かが答えるまで正座させられました。

今なら、一歩間違えば頭のおかしい親や蛙の子はカエルのアホガキなどが「体罰」だとかと騒ぎだしかねないのですが、
当時はみんな楽しんでおりました。
当然、あたくしは一度も回答(正解)なんかしたことはありません。(笑)

担任でもある新任の宮腰先生は2年生まで一緒でしたが、
なぜか?転勤してしまいました。
きっと独特の炭鉱町のクソガキどもに心底くたびれたのか?
先生同士で何かあったのか?は、その当時は知る由はありません。

1度、いや2度宮腰先生にこっぴどく叱られたことがあります。
1度目は先生の担当の国語テストの時に名前の欄に自家製サインで書いた時と(しかも、カンニングも同時に)、
2年生の時に皆が体育祭かなんかの練習でグランドに行っている時に、
一人クラスに忍び込んで女子のカバンからナプキンを取って教室の扉にくっ付けた時でした。

1度目は教員室に呼ばれて先生の机のすぐそばで正座をさせられ、
何時も持ち歩いているほうきの柄だけの部分で思いっきり頭を叩かれました。
何かを誰かを叩いていたお陰で少し柔らかくなっていたので、いくらかダメージは防げましたが、
それでもかなり痛痒かったのを憶えています。

2度目は泣いているその女子生徒とクラス全員の前で思いっきりビンタをもらいました。
どう考えても殴られて当然です。

次に重要になるのは部活動。

別に強制ではないけど、
周りは皆入るし自分たちだけ入らないのも何だか中学生として乗り遅れたという感じがしたので、
どの部活が良いか・・・・・。

ここでも選択肢は
①嫌な先輩が居るかいないか。
②練習が厳しいか、厳しくないか。
の二つを基準にムラと相談し合いました。

基本、二人ともあまり運動が得意ではなかったので、
スキーも泳ぎも小6からでしたから(笑)、
でも、ここで文化系に入ることは何だか女子や皆の手前どうかな?と。

帰宅部と言う手もありましたが、やはり格好悪い。

で、結局相談して入部することにしたのが”村上直定”先生が顧問を務めていた”剣道部”でした。

今から思うと小学生と中学生の一番の違いは部活動なんじゃなかったか?
と思うのです。

中学生になって部活に入部すると言うことは、
色々な意味で思春期になる第一歩であり、
また親離れをする準備段階だったのだとも思います。

今までは大人との接触は親と先生でしたが、部活という上下関係があり、
初めて経験する、また勉強以外の目標を一つにする世界が存在していて、
いくら近所の幼馴染で「00ちゃん」とちゃんずけで呼んでいた一つ上でも中学生になり部活に入れば「00さん」と敬語になる。

今まで許されてきたものが許されない。
そして今度は中学から高校へ高校から社会へと続いて行き、
そこでコミュニケーションや様々なルールなどを学びながら社会人(大人)としての自覚を持つ様になるのでしょうね。

確かに先輩も練習も厳しかったけど、
そこから逃げないで部活動を通して我慢することや根性(ちょっとのですが)、
試合前の緊張感や勝った時に嬉しさ、
負けた時の悔しさなど全てが今では良い経験で思い出です。

剣道、またやってみたくなりました。
もちろん、遊びでですけどね。。。。。

3月は卒業シーズン。

  • 2013/03/01 00:00
今は3月1日、2日辺りが卒業シーズンですが,
私の記憶違いかも知れませんが、私たちの時には3月の10日前後が卒業式だったような気がします。

で、それが終わって在校生達の短い春休みが始まり、
今まで抑圧された物が噴き出して「これで天下だ~!」
と新3年生への期待と胸を膨らまし、
ついでにポカポカ陽気に包まれてこの段階で早くも悪いことをしてしまうんですよね。(笑)

小学校の道を挟んだ隣が中学校だったんですが、
中学生になりたくなかったし、本当に中学へ行きたくないと思っていました。

今から考えて何が一番嫌だったかと言うと、
部活に入るのが嫌だったと思うんですね。(運動音痴なので)

まぁ、直ぐ隣にあるのに何故かもの凄く人生を左右するような気がしたし、
ほぼ99.9%同じ同級生なのに何だかお互い遠くへ行くような感じがしました。

西小の校歌が
「お互いに励まし合って、良い世界 作る~研究?」
こんな感じで始まっていて、
それが体育館のステージの上の横に大きな額で飾ってあり、
「あ~、もうこの校歌は歌えないんだな~」と思いながら
小学生(12歳)なりに感傷に耽(ふけ)ったものです。

私が入学した時の校長先生が”成田校長先生”で、
卒業する時は確か”伊藤校長先生”だったと思います。

中学卒業はそのまま就職する友達、高校が違う友達と半分以上と離れ離れになりますが、
小学生の時ほど感傷的にはならなかったです。

きっと、今まで幼稚園から小中まで西芦だったのが、
バスで隣町の都会?の芦別市へ行くというちょっとしたワクワク感と、
「新しい出会いがあるかも!!」という期待があったのもあります。(笑)

もちろんこの場合の「新しい出会い」と言うのは女子ですけどね。
そう、あたくしは工業高校で99%男子ですが、
行き帰りのバスの中やバスターミナル、街の中での出会いを想像しては一人ニヤニヤしていましたが、
思いっきり男女のバランスが整っている普通高へ行く男子ばかりではなく 
女子もかなりワクワク・ドキドキしていたんでしょうね、きっと。

そうだろう!外山!!!(笑)

それでも中学は先ほども述べましたが、そのまま就職や芦別市以外の高校で街を出る友人がいるので、
これまた何とも言えない寂しさが込み上げて来たものでした。

何だか本当に別々の道を行くような・・・・・。

それにしても卒業って神聖なものですよね。
卒業って人生の中でそうそうあるもんじゃないですからね。

女性アイドルグループなどが「00はこれで卒業します!!」などと
言うのを聞くたびに「いやいや、単純に脱退だろ。」と独り突っ込みを入れている今日この頃です。(笑)

年月とともに段々と薄れて行く記憶の中で、仰げば尊しや蛍の光を涙を堪えながら小さく歌っていたのを忘れたくないです。。。。。

魚釣り

  • 2013/02/01 00:00
私は小学生の時に釣りが好きで春~秋にはよく”村上君”と炭山川へ行き 
12~13センチほどの”ウグイ”を釣っていました。

餌はミミズでもいいのですが、
西芦別商店街にある「田辺さん」へ行くとヤクルトの入れ物にさし(ウジ)がおがくずと一緒に入っていて
50円くらいで売っていたのでそれを買って炭川へゴー!

でも、この時期は魚釣りはできません。
小学生のましてや炭鉱町の人間には「ワカサギ釣り」などという発想と言うよりも、
冬に釣りなんてするのは「バカ!」と呼ばれる勢いなので、
春まで我慢するしかありません。

で、一度村上君と芦別本町で室内釣り堀を見つけて、
「よし!行こう!!」となり、川以外では常盤三角にある親戚の家の沼でじいさんが釣ったコイの竿を無理やり持たせてもらったくらいです。

で、初の室内釣り堀を行うことに。
餌は黄土色した物体の物でコイを釣るのです。

直ぐそこに見えるのに釣れない!
連れても金魚を一回り大きくした何だか良く分からない魚・・・・・。

時間だけが過ぎて行き何だか心細くなって行くのと同時に、
ただでさえ心もとない財布の中身が心細くなって来るのです。

もう止めようかな!?と考えていた矢先に周りは大人ばかりで子供は私と村ともう一人芦別本町の子供でしょうか?その同じくらいの
子供がその釣り堀の中で”主”と呼ばれている、バカでかいコイを釣り上げたのです!!

周りの大人たちも歓声を上げていました。
私と村は同じ子供なのもあり何と言うかとても複雑な感情でいましたが、
明らかに祝福なんてする気にはなっておりませんでした。

で、バカでかいだけあって釣り上げるのに時間がかかっているので
見たくもないけど暇つぶしに近くで釣り上げるのを見ていると・・・・・

見てしまいました、私見てしまいました。
なんと、そのコイは釣り針が口に入っていなくエラの部分に針が刺さっているのを!
それを見ていた私と村はお互いに突き合いながら何故かニヤリとしていたのを憶えています。(笑)

釣り自体は大した成果がなかったのですが、”主”と呼ばれているコイを釣り上げたと思って複雑な感情が、
実は引っ掛けてズルで釣り上げたことのを発見した私と村は薄暗くなった芦別の街を
どこか勝ち誇った気持ちで中央バスに乗って帰って来た想い出の後です。。。。。

スキー

  • 2013/01/01 00:00
芦別には三角山、中の丘、国設というスキー場が3つありました。
その中でも一番人気は三角山スキー場で、ジャンプ台もあるしボブスレーで滑る所もあるし、
下手くそな私は林コースなどという人知れず友人の村上君と二人で秘密のコースなどがお気に入りで滑って(本当にお尻から滑っていた)いました。

で,またここのロッジの醤油ラーメンがむちゃくちゃ美味しくて、
重くて歩きずらいスキー靴をゴトゴトと言わせながら食券を買って食べておりました。(カレーも旨かった)

三角山は西芦ではなく芦別にあるのでスキーセットを持って中央バスに乗って行くのですが、
かなり混んでいるバスの中でのスキーセットは他の乗客たちにとってはかなりの迷惑で、
しかも終点芦別ターミナルへ着くと子供なので周りの乗客が降りてから降りるなんてことは全く考えていなく、
我先に降りようとして大人たちから怒られていました。(笑)

で、そのスキーセットを担いで芦別駅方面へ向かい線路の上を通るための陸橋を渡り、
それから今度は坂道を肩に担いで行くのですが、
これまた一苦労なのです。
しかし、どこにでもツワモノがいるもので帰る時はスキー場からスキーを履いたまま今度は下りの坂道を滑って来て陸橋もそのまま登って行く人もいました。(尊敬します)
 
国設スキー場はバス停から遠かったので2度くらいしか行っていないので省きます。(今では唯一のスキー場ですが)
で、西芦、頼城(らいじょうと読みます)方面のハナタレナックスどもがよく行くのが三井芦別炭鉱でやっていた中の丘スキー場。

ここもバスで行く人もいたけど、ほとんどの人はスキーを履いて行くか担いで行っていました。
ここのリフトが中々の代物で下手くそであまりウィンタースポーツが苦手だった私なんかはかなりドキドキものでした。
(しかも一度失敗して引きずられてしまいましたけど)

ここはロッジなどと気の利いたものなどはなく、
石炭小屋を大きくした所にストーブがあり、
そこでカップ麺(激麺を食べた思い出があります)なんかを食べるのです。

ここの良いところは福利厚生の一環で運営していたのでスキー代がタダだったということです。
コース自体は短かったのですがそれなりにギャップ(こぶ)もあり楽しかったんだと思います。

ここのリフトはストックでロープを引き寄せ股に挟んでお尻に付けるのですが、
慣れるまで中々難しい。しかもスキーは地面についたままです。
初めての時に上手くロープを掴めず引きずられてしまい、
管理人さんが慌ててリフトを止めて掛け登ってきました。(笑)
と~っても恥ずかしかったです。。。。

その中の丘のスキー場の管理人さんがある時、
西芦の第二浴場の管理人さんになっていたのにはビックリしました。

と、ここまで書いて白状しますが私はスキーが苦手で、
それこそスキー学習は運動会と同じくらい嫌で、
ほとんどボブスレーグループで横で滑っていました。
子供の頃なので女子もスキーを滑れるのに男の自分がボブスレーなのがとっても恥ずかしかったです。

まぁ、それでも何人かはいるものでそれなりに和気あいあいと滑っていましたけどね。
同じくスキーが苦手な村上君(彼と私は水泳も苦手でスキーをするようになったのも、
その年の夏休みに泳げるようになったからでした)小学5、6からスキーもするようになりましたが、
お互い思いっきりボーゲン(V字型)でしか滑れなく、
それも恥ずかしいの正規のコースではなく人の来ない”林コース”へ行って滑っていました。

一度、村上君が林コースの坂を直滑降で(しかも10メートルくらい)を勢いよく滑って行きいきなり視界から消えたと思ったら次の瞬間
逆立ち状態になって雪山に頭から突っ込んでいた時は大笑いしました。

あんなに大笑いしたのは人生の中で5本の指に入る楽しい想い出です。。。。。
 
ちなみに三角山では”モトクロス”などもやっていましたし、正月には餅まきもやっており親父に連れて行ってもらい
100玉の入った餅をゲットした時には嬉しかったですね。しかも、顔面にぶつかった餅だったので尚更でした。(笑)
 
はぁ~、楽しかったな~。。。。。

12月は一大イベント!

  • 2012/12/01 00:24
娯楽が少ない12月に炭鉱町の子供たちが楽しみにしているのは冬休みとX‘masです。特にX‘masは片田舎の炭鉱町であっても子供たちにとっては一大イベントでした。

その序曲は、何の前触れもなく風呂から帰ってきた時から始まった時もありました。
兄貴と何時ものようにタオルをコチン、コチンに棒の様にシバレさせながら家に帰ると、
オヤジが自慢のよく”サム・テイラー”なんぞを効いていたビクターのステレオの上に、
青・赤・黄色・オレンジ・緑といった電球の点いたX’masツリーが登場しています!!
 

日常から非日常へ一瞬にして移った感じで、X'masツリーの前で意味も無く、はしゃぎながら転がったりしていました。
それは無条件でX’masは楽しいもの。と感じていたと思います。

X’masと言えば、やっぱりX’masプレゼントです。

私の頃は芦別に「まついおもちゃ」があり「まついさん」と呼んでいてX’masが近くなると新聞と一緒に両面おもちゃをいっぱいの写真が入った
チラシが届きます。

そのチラシもX’mas近くと当日という二段構えの念の入り様で、
子供たちからすると夢が膨らむのですが、親からすると頭痛の種のようで一度毎年来る時期になっても来ないので「変だな~」と思っていると
おふくろが近所のお茶のみ友だちと話していた内容が「子供たちに見られないように隠した」と言うような衝撃的な言葉聞いてしまいました。

で、それからは私がいの一番に新聞を取りに行くという今から思うと子供でも必死になればこれくらいの行動が出来るんですよね、自然に。(笑)

これまた暇で話好きな炭鉱の奥様達はお茶を飲みながら「チラシを隠そうとしたら、先に新聞を先にとって来ていたのさぁ」と大笑いしながら
漬物をあてにお茶を何杯も飲んでいたのを覚えております。

炭鉱町では各家庭でそのような事柄が沢山あったんですよね。。。。。
  

これからもよろしくお願いします。

  • 2012/11/01 17:16
早い物でこの「想い出の後に」を書いて1年が経ちました。
これは”欽ちゃん”の「炭鉱ホルモン」語る上で、地元でもある芦別は西芦別という炭鉱住宅で育った想い出を語る。
という主旨で始めました。

まぁ、既に郷里を離れて36年の歳月が経っていますので記憶の方が曖昧な部分もありますが、
何とか辿りながらまた分からない部分は友人などに聞いて書いて行きます。

ここ最近、「炭鉱ホルモン”欽ちゃん”」には芦別出身の方や今でも芦別にいてたまたま来た人、人から聞いて来た人が増えてきました。

大体は芦別市の方で芦別高校出身の方達なので、しかも私より年上の方なのであまり接点はないのですが、
それでも芦別というキーワードだけでも何だか懐かしい気持ちになるものです。

直接お話が出来ればどこかで必ず接点があるのはずですから。
それは人でなくとも、三つ丸やら壺や関口楽器、赤シャツのラーメンに池下商店(次男坊が一つ上の先輩でした)などの話で大いに盛り上がると思いますので。

先日芦別から仕事で来て頂いた方は、芦別ターミナルの近くの「富士家具店」の社長さんでした。(2代目かな?)

その方は私の同級生の平山のふみちゃんのお姉さんと結婚されているとのことで、本当に世間って狭いな~。
と思ったのと親近感を覚えました。(笑)

これからも「炭鉱ホルモン”欽ちゃん”」と「想い出の後に」をどうぞよろしくお願いします。


それにしても故郷っていいですね。。。。。

”黄金色”の記憶。

  • 2012/10/01 15:08
私の中のこの季節の西芦別の記憶は”黄金色”です。
そう、”黄金色”。

それ以外は、不思議なくらい記憶がないのです。

夏休みも終わり冬までの間は何をしていたのでしょうか?
カメムシはもう少し後だし・・・・・。

学校の記憶も家での記憶も残っていない。
学校行事も町内会の行事も三井芦別炭鉱の行事も思い出せない。
ただただ”黄金色”な原風景が。
それは目に焼きついているのでもないのです、感じるんです。

下の風呂(3条6丁目)へ行くのに、プラスチックの風呂桶に、ヘアトニックシャンプーもしくはエメロンのメリットと書かれたシャンプーに石鹸箱(蓋のないやつ)、それに手ぬぐいを入れてバスタタオルで覆い風呂へ行くその時の光景が”黄金色”だった。
 

他には何をしていたんだろうか・・・・・?

そうだ、カラスが異常に鳴きうるさかった。
特に夕暮れ時のカラスは物凄く沢山いて「ガーガー!」と。

どうでもいいけど「メリット」って何にメリットがあったんだろう。。。。。

想い出の炭鉱病院

  • 2012/09/01 12:25
西芦別の啓南橋(けいなんばし)の近くに「三井芦別鉱業所病院」がありました。
まぁ、地元ではそのようなまどろっこしい名前ではなく、単に「一坑病院」とか「炭鉱病院」と呼んでいました。

何色と言ったらいいいのか?濃いピンク色とでも言えばいいのでしょうか?
なんかそんな色の印象が強い病院です。(芦別物語さんに画像がアップされています
 
私は幼稚園の時に盲腸で入院したことがあります。ほぼ同時期に、”おやじ”が足の指に岩盤が落下して入院していました。きっと、”おふくろ”は一石二鳥で助かったと思いますよ。(笑)

その”おふくろ”も私が小学3年生の頃にヘルニアで一ヶ月ほど入院しておりました。
それでなくとも西芦はクソ暑いのに、何を勘違いしたのか私は”松田優作”さんと”中村雅俊”さんの刑事ドラマ「男たちの勲章」の”松田優作”さんのマネをして革ジャンの代わりにナイロン製のジャンパーを着込み、その懐にはビニール製のホルスターを肩から掛け、おもちゃの拳銃を入れて「男たちの勲章」の中でかかる音楽を口ずさみながら、三条通りをその気なって”おふくろ”見舞いに行ったら
「たかし!?どうしたの?こんなクソ暑いのにジャンパーなんか着てきて!?」
と病室の人たち全員と大笑いされました。(笑)

病院は2階建てで、1階は診察で2階は病室でした。
1階の集合待合場の後から階段を登っていき真正面にナースステーションがあり、左へ行くと主に女性や高齢者の病棟で、左へ行くと男達や女・子供たちでした。

左側の病室の奥にもう一
 
つの階段があり、そこを降りて右へ行くと、また集合待合場と表玄関へ。左へ行くとゆるいスロープになった渡り廊下になっていて、突き当たりが病院食を作っている所で、L字型のその突き当りを左へ行くと売店と床屋があり、そこを通り過ぎて行くと木造の別棟になっていて、何かの検査だか何かをするところでした。

たまに夢で見る時には、そこも病室になっているのですが、イマイチ定かではありませんが、同級生の”たっか”のお母さんと、一つ下の”羽生(うしゅう?うしう?)”のお父さん(少年野球団・ブラックスネークのコーチ)が働いてた記憶があります。

余談ですが、”羽生”
 
ってあの当時も、こうしてパソコンで変換するまで別に普通でしたが、珍しい苗字ですよね。(笑)
しかも、普通は”羽生”と書いて”はにゅう”って読みますもんね。

先ほども書きましたが、今でも夢で炭鉱病院が出てきます。
表玄関、待合室、2階のナースステーション(朝・昼・深夜と)、病室の風景、トイレに水飲み場、渡り廊下、そして病院食の臭い、フルーツ牛乳やりんご牛乳の置いてある売店、補導員でもある”あずまいのオヤジ”・・・・・。

歳を追うことに、少しずつ記憶が曖昧になってきますが、夢って不思議と
当時の記憶が多少脚色されて残っているもんですね。。。。。
【炭鉱病院1F】

【炭鉱病院2F】

【炭鉱病院 別塔】