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始球式

  • 2016/10/01 00:16
通常の休み時間は10分、昼休みが50分~60分。
で、その間に勉強していた子供はほとんどいませんでしたね。(笑)
 
何をして遊んでいたかと言うと、それは様々で「かくれんぼ」「鬼ごっこ」
「じゅうじかポン!」「手打ち野球」「リリアン」「パイ!(牛乳瓶のふたをひっくり
返したら勝ち)」「プロレスごっこ」・・・・・ets
 
10分の休みなのに授業が始まるころには汗だくになってていたり、
遊びに夢中になり過ぎて授業に間に合わなくて思いっきり先生に叱られたり。(笑)
また、10分なので次の休み時間にはその続きもして遊んでいましたね。
 
で、男子で結構人気だったのが「始球式」と言うアンパンボールの遊び。
数人、時にはクラスの子供たち殆どの時もありました。
 
ルールはいたって簡単で、親と言う子供(子供なのに親ですけど)が
広場や体育館の真ん中で「天下、あ~げた!!」と言いながら持っている
アンパンボールを真上に上げて、その落ちたアンパンボールをぶつけて、
ぶつけられた人は退場し、最後まで残っていた人が「天下を取った」と言う
遊びで、もの凄くシンプルなんですが、けどシンプルなだけに誰でも出来る
ので燃えるんですよね。
 
色々な特徴の子供たちがいて。投げたり当てるのは下手だけど、
ボールをかわしたり逃げるのは上手いので、最後まで生き残ってるとか。
運動神経の良いのは投げても、かわすのも、ボールを受けるのも上手で
いつも最後まで残っているのとか。
逆にもの凄くどんくさいのでいつも真っ先にと言うか、
数人の集団でいる所にボールを投げると必ずそいつに当たって
やられてしまうのとか。(笑)
 
なぜ?「始球式」と言うのかは定かではありませんが、きっとボールを真上に
上げてそこから遊びが始まるので「始球式」なんじゃないのか?と。
 
って言うか、その遊びって他の地域でもあったのでしょうかね。。。。。

お地蔵さん

  • 2016/09/01 00:12
西芦の二条通を真っ直ぐに南へ降りて行くと、川端町や泉町を経て
私たちが言っていた”炭山橋”を超えて東頼城へ行くのですが、その途中の
七丁目の所に”お地蔵さん”があります。
 
小さい頃、ばあさんにおぶってもらってお参りに行ったもんです。
「昔、台風が来て洪水になって沢山の人が死んで、それでこのお地蔵さんが
出来たんだ」とばあさんから聞きながら一緒に手を合わせていました。
 
確かに、”炭山橋”から下を見るとコンクリートで出来たでっかいのが横たわって
いて、小さい時にはそこにのっかって釣りをしたもんですが、少し大きくなって
見るとそれは橋の橋脚の部分で、きっと台風なのか暴風雨なのかは分り
ませんが、そんなので倒れたんでしょうね。
 
その時の被害者の鎮魂のために七丁目のお地蔵さんが建立され、
そのお地蔵さんの方向が東南で川端町、泉町、東頼城の方角を向いて
お地蔵さんが手を合せているんですよね。
 
で、ばあさんが「このお地蔵さんの頭は違うんだ」と言っていたのですが、
子供心に意味が分らなかったんですが、ある時そのお地蔵さんのすぐ下に
今のお地蔵さんの頭よりも大きなお地蔵さんの頭だけが置いてありました。
 
きっと、最初に作った時のお地蔵さんの頭が無くなり、違うのにして
誰かが元々のお地蔵さんの頭を見つけたんだと思います。
 
一年に一度は芦別へ行くのですが、必ずそのお地蔵さんへ行き手を合わせて
来ます。。。。。

夏休みは遊びの宝庫&西芦別商店街

  • 2016/08/01 00:05
今の子供たちはスマホを自由に操作し、大人も子供がゲームをしていると
大人しくしているのでそのままにしていますね。
 
まぁ、遊びが違っただけで、子供は遊んでいる時が一番集中して静かです。(笑)
しかも、今時期は夏休みなので、プール、釣り、クワガタ取り、野球、自転車、
ビー玉、パッチなどと遊びには事欠きませんでした。
 
また、西芦別商店街へ行くと葛西商店さんへ行くか、伊藤商店へ行っていましたね。
どちらかと言うと、葛西商店さんの方が優しかったのでそちらの方が多くて、
プラモデルやくじで何かを貰うのなら伊藤商店さんでしたね。
 
また、葛西商店さんは角地にあったので、どっちの方向からも行けたし
一応、西芦別商店街の中心地あり、お菓子類も豊富だったし、一応パックマンと
ギャラクシーと言うゲーム機も置いてあり、暇しなかったですね。
 
葛西商店でミリンダなどを買って、自転車を乗りながらその買ったミリンダを飲み
飲み終えたら葛西商店へ返しに行っていました。今から思うと、なぜ?自転車に
乗りながら飲んでいたのかな?と考えると、座る場所がなかったので皆自転車に
またがりながらか、乗りながら飲んでいたんですね。
 
ツワモノになると、飲み物とベビースターラーメンを持ちながら手放し運転や
器用に物を持ちながら自転車を操作していましたね。
 
今は見る影もない商店街ですが、と言うか、きっとあの頃もそんなに沢山あった
訳ではないのですが、子供心には目映く映っていましたね。。。。。

祭りのあとには。。。。。

  • 2016/07/01 00:20
三井炭鉱のレクレーションや福利厚生は時々あって、町内対抗運動会や
ソフトボール大会、また海水浴なんかもありました。
 
ソフトボール大会に一度出たことがありますが、小学校のグランドの四隅を使い
それぞれの町内が盛大に競っておりました。確か、小学生が中心だったような
気がします。(私が小3か4だったので)
 
また、海水浴は小さい時は玉川の川へ一度行きました。
その次は、留萌方面の海へ。ここは、空知や旭川方面の人達が行く場所です。
 
そう思えば、芸能人もたまに来てもいました。
一度、頼城の小学校だか中学校の体育館に”東京ぼん太”が来た時に家族で
観に行きましたし、西芦の小学校の体育館に国際プロレスが来た時にも観に
行きました。
 
炭鉱町らしく、大体このようなレクレーションやイベント時には必ずお酒を飲んで
大人たちが喧嘩が始まるのが常でして、まぁ、それも込みでの行事だったんでしょうね。
今では、そんな元気な大人たちは見なくなりましたけどね。(笑)
 
そうだ、クラブローンの下のグランドに巨人と大洋の二軍の試合もありました。
まだ、定岡が入団したばかりで、甲子園で大人気だった”定岡”も来ていました。
捕手で、笠間と言うそこそこ有名な人も来ていまして、試合が終わり芦山荘(ろざんそう)
に宿泊していたのかな?それとも、クラブローンの職員宿舎に泊まっていたのか
定かではありませんが(きっと、巨人と大洋の選手のどちらかかも)、そこへ
徒歩で帰る時に話していた内容が、「昨日の花札(か、マージャン)で肩が」と言うような
ことを言っておりました。
 
何だかんだと、会社の方も色々と考えていたんだと思います。
けど、その辺がピークでその後はこのようなレクレーションやイベントごとがめっきり
と減って行きました。今にして思えば、その頃はもう斜陽産業だったし、比例して
炭鉱住宅に空き家も目立つようになりました。決定的だったのは、1977年、昭和
52年のガス爆発事故だったのかも知れないですね。。。。。

外勤前のグランド

  • 2016/06/01 00:27
一条通りに面して、ちょうど4丁目の上に外勤がありよく親父が二日酔いのなのか?
行きたくないのか?有給を貰いに行く時や給料を取りに行く場所の隣に
小さなグランドありました。
 
幼稚園の運動会や夏は盆踊りなんかをやるのですが、その他はよく近所の
子供たちが草野球をしていましたね。小学校のグランドは「ブラックスネーク」と言う
リトルリーグが占拠?しているので、それに属さない子供たちは公園の広場や
外勤前のグランドなんかで野球をしておりました。
 
野球と言っても正確に言うと「ソフトボール」ですが。
大体、野球の苦手な子供たちなのでリトルリーグには入らないのですが、
それでも、やっぱりテレビ中継や漫画で野球をやっているのでやりたいんですよね。
今の様に一人でも出来るゲームなんてなく、ゲームと言えば野球盤や人生ゲーム
のような感じでしたし、野球以外でスポーツと言えばサッカーでしたが、ほとんどは
スポーツ=野球でしたからね。
 
ここで面白いのは、外野に暖房と言うか蒸気を送る筒が横一直線に通っているのですが
また、外野の方は傾斜が付いていて、なだらかに上に上がっておりその暖房と
地上が1メートルちょっとの位置にあるので、その暖房を超えたらホームランという
感じになっていました。
 
しかも、横幅があまりないし10人も満たないでやるので三角野球がほとんどでした。
(今の人、分るかな?)
あと、道路の側なので思いっきり引っ張ると普通に車の走っている道路を突っ切って
4丁目側まで転がって行くことも。(笑)
 
そうそう、地面もグランドよ言うよりも石炭のクズを敷いた感じの黒くてジャリジャリ
していたような記憶があります。。。。。

かばん持ち

  • 2016/05/01 00:31
最近は見なくなりましたが、私たちの小学校の頃の通学路では
よく、「かばん持ち」と言うのをやっておりました。
 
「かばん持ち」と言うだけあってかばんを持つのですが、これは二人でも
出来るのですが、出来れば人数は多ければ多いほど面白いんです。
 
まずは、「軍艦じゃんけん」、「石蹴りか缶蹴り」、そして「かばん持ち」が
男子が数人集まれば必ずやりながら帰りました。で、一番悲惨なのが
この「かばん持ち」で、2人の場合は2人分のかばんを持つのみで
いいんですが、3人、4人、5人となればかなりキツイ。
 
中にはその日の授業の教科書だけではなく、全ての教科書や笛やらを
持って来ているのもいます。また、真夏のクソ暑い日なんかは最悪。
まぁ、寒かったり暑かったりするので楽したくて「かばん持ち」をするんですが。
 
ランドセルの時は背中に一つ、胸に一つ、左右の腕に一つずつ。
まだある場合は腕に持てるだけ。まだある場合は胸のランドセルの上にもう一つ。
最終的にはおでこを使います。(笑)
 
最高で8個は持てる計算ですが、これが中々歩くのが非常にしんどくて
中には半べそをかきながら歩く子も。まぁ、大体は4~5個くらいです。
 
で、一番厄介なのがランドセルや普通のかばんの様にショルダーや取っ手が
着いているのなら体中のあちこちに引っ掛けて歩けるのですが、一度
ミドリのグルービーケースなるものが流行った時にはかなり苦戦しました!↓

 
しかも、こやつ結構ツルツルと滑るんですよね。って言うか、なぜ?
ミドリのグルービーケースと言うのか未だかつて謎です。
 
そうだ!「かばん持ちあるある」で、何度かに一度は沢山持ち過ぎたのと
重すぎて直している内にランドセルの上下が逆転してしまい、中の物が
ドバッーと全部出てしまうこともありました!(笑)
 
そして中身を出された友人は決まって「わざとだべ!」とマジ切れしてるん
ですよね。しかも、大体給食で残したパンとジャムも一緒に出ていました。(笑)
 
いや~懐かしいですね。
きっと、今なら「いじめだ!」とかなってニュースにもなる様な大問題になるんでしょうね。
 
って言うか、ならサラリーマンがやればいいのに。
面白くないですか、大の大人が飲んだ帰りとかに「かばん持ち」してるって。(笑)
 

新学期

  • 2016/04/01 00:12
新学期が始まり、何時も通って来た道、光景ですが何かが違います。
それは最上級生になったから。(笑)
 
そう、小6、中3、高3と、もう学校では怖い物はありませんからね。
(先生以外)
なので、解放感?と言うのか、安心感とでも言うのでしょうか?
そんな精神的余裕が、これまで通い慣れて見慣れた光景を美しくさせる
のでしょうね、きっと。
 
いや~、実に清々しく、且つ何という優越感なのでしょうか!?(笑)
こんなにも先輩がいるのとの居ないとのでは違うんだと。
 
がしかし、と同時に、特に工業高校生は99%が就職なので
「あと一年で学生生活も終わりか・・・・・」と思うと、一瞬寂しさを感じるのも
事実ですが、そこは真面目な学生なので「なら、後悔しないように遊びまくるぜ!!」と。
(完全にアホ思考です)
 
さぁ、これから約一年、どんな楽しいワクワク・ドキドキが待っているのか?
と思うと、一日も無駄にできない学生生活の始まりです。
 
春のにおいと少し生温かい風を感じながら、
無邪気に青春を謳歌するのです。。。。。

もう一つのお別れ

  • 2016/03/01 00:31
今月は卒業シーズンです。
小学校、中学校、高校と私は西芦と芦別でやりました。
また、お世話になった先生も転勤します。
 
高校二年生の時に、1年、2年と担任だった”斉藤先生”が滝川高校へ
転勤することになり、「じゃあ、送別会をやろう!」と言うことで、”恵久ちゃん”
でやることにしました。
 
”恵久ちゃん”の2階は大広間になっていて、クラス20数名と先生を囲み
かなり賑やかに盛り上がったのですが、今から考えると高校生がホルモン屋で
先生の送別会(もちろんアルコールは飲んでませんよ)をやるのって、どうなん
ですかね?(笑)
 
寄せ書きと最後は皆で記念写真を撮りました。
工業高校なので男子ばかりで、これが普通高なら女子もいて華があって
いいのでしょうけど、まぁ、良い感じで盛り上がりました。
 
先生にはみんな迷惑を掛けっぱなしだったので、少しは喜んで頂いたと
思います。でも、先生は工業高校の校風や生徒たちに馴染めなかったんだと
思いました。で、まったく環境の違う普通高校(偏差値の高い)を転勤先に
選んだのでしょうね。
 
けど、私たちにとって”斉藤先生”との2年間は中々に楽しい日々でした。
私も含め、生徒たちはおかしな奴らばかりでしたけど。。。。。

『スキー学習など』

  • 2016/02/01 00:09
小学生時代に嫌いだった行事が、第一位”運動会”そして第二位が”スキー学習”
でした。運動が苦手なこともあり、特に冬は家でプラモデル作りか、外で遊ぶにも
家の前で基地作りか、せいぜいミニスキーを乗るくらい。
 
スキー学習では、皆がスキーを乗っている時に、乗れない者が数人でプラスチックの
ボブスレーに乗ったり、米袋をお尻に敷きそれで滑っておりました。
 
いつもはクラスや学年で威張っているのに、スキーに乗れなくてかなり格好悪い
思いをしましたが、しかし、スキー場で乗るボブスレーは近所の坂で乗るのとは違い
距離があるし、デコボコもあるので思いしろいんですね、かなり。
 
でも、やっぱり「これではいかん!女子にモテない!!」と、同じくスキーの
苦手な”村上”と話し合い、下手な者同士でスキー場へ行き練習しました。
(その冬が来る前の夏には、これまた泳げない二人でプールへ行き特訓の結果、
25メートル平泳ぎに成功しました)
 
小6の頃には何とかV字(ボーゲン)で乗れるようになり、そこからスキーにはまり
かなり”村上”と行くようになりました。良く行っていたのが”三角山スキー場”。
最初はリフトに乗るのにも一苦労だったし、てっぺんに着いてリフトから降りるのも
かなり一苦労し、乗る時にはスキー板がリフトの鉄柱にぶつかり危うく足が折れそうに
なり、降りる時は降りるタイミングが取れなくて、リフトに乗ったまま降りて来そうになった
ことも一度や二度ではありませんでした。(笑)
 
スキー場へ行っての楽しみは何と言ってもロッヂの食堂。
三角山のロッヂで好きだったのが”醤油ラーメン”でした。
冷え切った体に、あの香ばしい鶏ガラの香りを嗅ぎながら麺をツルツルッと流し込み、
スープにしたった麩を吸うように食べると、「熱いけど旨い!」感満載で本当に美味しかった。
 
ただ、日曜日なのでバスが混んでいる時間帯に当たると、スキーが邪魔でバスの運転手が
露骨に嫌な顔をされました。
 
まぁ、それはそれで懐かしい”想い出の後”ですけどね。。。。。

遊びは自然と工夫していた。。。。。

  • 2015/12/31 14:09
一条通から下がり気味に炭鉱住宅があり、この時期はそれを利用して
ミニスキーのジャンプ場を作っていました。
 
長さにして6~7メートルですが、その途中に手製でジャンプ場を作るのです。
そんなに助走距離はないのですが、こう配が急な所もあり小学生としては
中々のジャンプ場なのです。
 
で、飛んだ距離と言っても1メートルくらいなもんですが、それでもジャンプ選手
の真似をして飛ぶときに「うっ!」と声を上げて飛ぶのです。
 
あまり柔らかいとジャンプ場の真上で壊れてしまうので、何度も叩いて頑丈な
ジャンプ場を作り、氷や雪の塊で「誰はここ、誰々はここい」と目印に置いていました。
 
たまに、いたずらでジャンプ台に急な角度をつける人が居て、そのジャンプ台を飛ぶと
前と言うよりも上に飛ぶ感じで、背中や頭から落ちてしまうんですね。
なので、ジャンプ台を作る時に「あんまり、しゃくるなよ!!」と言ったりもしていました。
 
ミニスキーさえあれば、自分たちでジャンプ場を作り何時間でも遊んでいました。
本当に良い時代でした。。。。。
 
2015年、本当にありがとうございました!
2016年も良い年でありますように!!