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真っ白けっけ。

  • 2015/12/01 00:25

朝起きると、いきなり外は真っ白けっけ。
小学生の時に見た12月の光景です。
 
夏熱く、冬は寒い盆地なので、風だけよりも雪が降れば暖かいなどと
言いますが、ここ西芦別ではそんなことを言うと「非常識な奴」です。(笑)
家は、11月の中旬から下旬にかけて窓にはビニールを貼っているので
窓から入ってくる風はバッチリなのですが、いかんせん木造なので隙間から
入ってきます、冷たい風が。
 
でも、子供達はこの真っ白けっけの雪景色の前では寒さなんて意味もなく、
学校へ行きながら、朝っぱらから雪合戦を始めながらの通学になります。(笑)
 
けど、これが間違って上級生にあたったり、その近くへ落下すると大変なんです。
「だれよ!今投げたの!!」 「シーン」 ばれると雪山に埋められますからね。
まぁ、スリルがあって面白いんですけどね。
 
慣れたもんで、みんな防寒着や靴などは冬仕様に切り替えが早いので、私なんかは
気が早くて、口と目が開いた”たこ帽子”をすっぽりと被り覆面レスラーになった気分で
ウキウキしながら通学したもんです。

 
これから長い雪のシーズンの始まりです。
けど、この真っ白けっけの雪の降り始めは何とも言えないワクワク感が忘れられません。。。。。

二条通りの想い出・・・・・

  • 2015/11/01 12:59
西芦は道道・頼城(らいじょう)芦別線が幹線道路になっており、
それが一条通、それから炭住のある東一条通から東二条通の間が
小学生の通学路でもある、二条通で東二条から東三条の間が三条通で
そこから縦の道路があり十字路で出来ていたのでとても住所が分り
易くできていました。
 
先日、一つ上の高山先輩の店でいつもながら西芦の話になり、
先輩が「二条通、懐かしいな~」と言う話になり、それぞれの想い出話で
盛り上がりました。
 
小学生の頃なので、昭和40年代後半から50年代前半。
それから十数年後には三井芦別炭鉱が閉山になり、過疎化が徐々に
進んでいくのですが、私が小学生の頃は全盛期に比べれば全然ですが
それでも子供の目からすれば人も居ましたし活気もありました。
 
小学1年生から6年生までの炭住に住んでいる生徒たちが朝7時代から
8時くらいまでの間で通学するのですから、それはそれは様々な光景を
目にしました。
 
朝っぱらから親子喧嘩をしている家、親に叱られて泣きながら家から
出てくる子、上級生から叱責されている下級生、じゃんけんで負けてかばんを
両肩、両手、背中、胸、それに頭で持たされている子、これまたじゃんけんで
チョキで勝ったら「チヨコレエート」と7歩前に進み、パーで勝つと「パイナツプル」
と6歩進めて、グーで勝つと「グリコ」と3歩進めるというゲームをやりながら
通学している子もおりました。
 
冬は冬で、かばんを投げて滑らせながら通学したり(たまに、中身が飛び出る)、
ツララでチャンバラごっこや鉄砲ごっこをやりながら通学します。
 
一条通よりも上に住んでいる生徒は、そのまま一条通なのですが
断然、二条通の方が多いので面白い。たまに三条通を歩いて来る生徒も
いましたが、それはごく少数。(いじめっ子に合わないようにとか)
 
朝の通学路と学校帰りの通学路は、勉強が終わった解放感からか
子供たちの笑い声も、大人たちの怒鳴り声も大きくてとても賑やかでしたね。
 
途中で、それぞれの家に帰るので6丁目、7丁目、泉町や東頼城と学校から
遠くに住んでいる生徒は徐々に少なくなっていきます。で、帰る時に男子は
「バイ!」と言ったら、相手も「バイ!」と返し、それは離れて行ってもどちらかが
言い終わるか、家に入るまで続いていました。(笑)
 
本当に懐かしい想い出です。。。。。
 

「想い出話は尽きなく、そして、痛かった」

  • 2015/10/01 00:36

西芦の先輩がやっている店に行くと、同級生も働いているので昔話や
共通の知人の最近の情報には事欠きません。
 
一人の記憶では忘れていることも3人集まれば出るわ出るわ。
なんともまぁ恥ずかしい話から、初めて聞く話まで・・・・・
 
先輩「かー、そしたらこの話知っている?」
私「何の話ですか?」
となったら、大概は誰と誰が付き合っていたとか、
誰がこんな事をして00先生にぶん殴られた。と言う、
中々笑えるエピソード持ち出します。
 
なので、私も「そういえば・・・・・」
先輩「何よ!それ!?真面目に!?」などと食いついて来るのですが、
負けず嫌いな先輩は「じゃあ、この話知ってる?」とネタを持ち出します。
 
私もお店をやっていますが、私の場合は店に直接出ていなくて、対して
先輩は毎日店に出ていますので、芦別関連の人たちも行きやすいんですよね。
なので、自然とネタが集まるのがちょっと悔しいです。(笑)
 
先輩「かー、そしたらね、とっておきのネタを教えちゃるか!?」
私「なんですか?」
先輩「俺とガミ(大上さん)と大島のトシ坊と三人で石炭を乗せて走っている
汽車に掴まって乗っていたら、見つかって大目玉さ。そしたら、俺の親父労働組合
の委員長だっただけに、めっちゃくちゃ怒ってね。俺はぶん殴られるは、ガミやトシ坊
も拳骨されるはね。で、オヤジ一升瓶もって関係している部署に誤りに行ったんだわ」
 
私「って言うか、それって普通に危ないですよね!?」
先輩「いや~、ほらそこまで早くないんだ。時速で言えば3、40キロかな」
私「いや、いや、子供がそんなのに飛び乗るなんてやっぱり危険が危ないですよ!」
先輩「まぁね。でも、なんまら痛かったな~。」
と、言っては見ましたが、危ないと痛いもそうだけど、普通にそんな遊びをしゃちゃ
行けないですよね。良い子の皆さんは、決してマネをしないように。。。。。



先輩の店「BUNJI」→https://www.facebook.com/asakababunji
右が高山先輩、左が同級生で中の丘の友ちゃん。

芦別ターミナルの想い出

  • 2015/09/01 00:22
その昔、芦別バスターミナルの上に食堂があり、
小学生の時には同級生の”むら”と二人で行きました。
 
トーストセットとレモンスカッシュなんぞ生意気にも頼んで、
ちょっと大人を真似しておりました。
従姉のおねーちゃんと一度、喫茶店にいった時にレモンスカッシュを
「レスカ」と頼んでいたのが、妙に格好良くて私も「レスカ」と子供が言っても
通じるかどうかドキドキしながら頼みました。
 
それ以来、「レスカ!」と言う言葉は私の中でその部分だけは大人の
仲間入りした気分になり優越感に浸っておりました。特に、同級生なんか
が居るとコーラやメロンソーダーなんかを頼む友人をしり目に「レスカ下さい!」
と言うと、同級生は「おーっ!」と一様に驚き羨望の眼差しで見られました。(笑)
 
あの食堂、何時から行かなくなったんだろう?って言うか、何時?なくなっちゃた
んだろうか?私の中では、あまりお客さんは入って居なくバスの運転手さんや
事務職の方たちがたまにいるくらいで、あとは買い物帰りの主婦がちらほらと。
 
芦別ターミナルと言えば、隣に「三つ丸」と言うデパートと言うか百貨店のような
店舗と隣接していてバスターミナルから直接行けます。また、忘れてはいけないのは
バスターミナルと三つ丸を隔てる薄暗く小便臭い通路があり、いつもじめじめとして
いるのですが、学生(特に工業生)はそこを好んで通っていました。
 
そんな薄暗くお世辞にもキレイな通路ではないので、普通の人はあまり通りません。
通らないから、工業生はそこで喫煙などをしていました。また、そこの薄暗い通路を
通ってバスターミナルに登場するのが、ちょっとスティタスと言いますか何て言うか
格好いい感じだったのです。通路が臭いのは、その通路を通って外に出る辺りに
男女兼用のトイレがあり、そのトイレが何と言えない臭さがあったのでそこの臭い
かも知れません。現に、実家が芦別にあった時にそこのトイレや通路の臭いを嗅ぐと
「芦別に着いたな~」と、良いのか悪いのか?帰ってきた実感が湧きましたから。(笑)
 
もう、そのバスターミナルもありません。
産業もなく過疎化が進む郷里は寂しいものですね。。。。。

ポータブルラジオと”夏の少女”

  • 2015/08/01 10:04
私の同級生にボケとあだ名の付いた”坂田君”という人がいました。
ボケん家は「坂田洋品店」と言うお店をやっていて、小学校6年生の時の夏ごろに
その坂田洋品店が学生服をセールスに来ます。
 
「あっ、ボケのおじさん!」
まぁ、”おっかー”も同級生の親なので無下にはしません。
 
ボケん家は”富士ヨット学生服”が指定なのか?そのセールスでした。
何を話したのか覚えていませんが、”おっかー”と私はひとどおり話を聞いていました。
きっと、二人ともほとんど分っていなかったと思います。(笑)
 
私が一番気になったのが、学生服を買うと付いてくるマイク付きのポータブルラジオで
ボケのおじさんがそのマイクで「アー、アー、アー」とやっているデモンストレーションを見て、
そのポータブルラジオが欲しくて富士ヨット学私服に決めました!
 
クラスのほとんどの生徒は富士ヨット学生服で、兄弟からのお下がりを除いて
”たっか”という同級生が”トンボ学生服”を着ていたくらいです。
 
富士ヨット学生服はサラサラとしていて、いかにもその当時の現代的なポリエステル
素材なのでゴミも付きにくいんですよね。(その内、テカテカと光りますが)
対して、”トンボ学生服”はいかにも昔ながらの学生服!と言う感じで、真っ黒で
素材が綿が主なのでさわり心地はザラザラとしていて、ゴミも付きやすいんです。
(もちろん、今は違うと思いますが)
 
どちらが良いとかではなく好みの問題で、”富士ヨット学生服”はスマートな感じ
”トンボ学生服”は無骨な男らしい感じの学生服でした。
 
って言うか、別に学生服がどうのの話ではなく、その夏に”富士ヨット学生服”に付いて
来たポータブルラジオを掛けながら寝ていたら、”南こうせつさん”の「夏の少女」という
局が流れて来て、「いい曲だな~」と思い関口楽器店へ行きシングルレコードを買いました。
 
家に帰って来て、歌詞を見ながら歌を聴いていると夏の砂浜で好きな子と幸せなひと時を
過ごしている自分を想像しては、ひとりニヤケていました。そして、夏が終わる頃には
その楽しかった思い出にも終わりが・・・・・。
12,3歳の子供がセンチメンタルになりながら聴いた想い出があるんですよね。。。。。
 
良い曲と言うのは、子供がが聴いてもわかるのですね。
今でも覚えていますよ、南こうせつさんが上半身裸のレコードジャッケットを。
 

ロケットの想い出・・・・・。

  • 2015/07/01 16:00
あれは確か、小学生の1年生か2年生(幼稚園かも)の頃なのですが、
東1条5丁目の9号4舎から東1条4丁目に向かう炭住の横道を
走っていたら、私の目に映った光景が今でも忘れられません。
 
なんと!私の目に映ったの「ロケット」だったのです・・・・・。
そう、ロケットです。決してロケットペンシルなどではなく、空を飛び
大気圏を超えて宇宙にまで届く「ロケット」です。
 
いや~、び・っ・く・りしましたよ~!!
私、一瞬足が止まりしばらく呆然と見ていました。
で、そのロケットが見えなくなり、我に返って怖くなってキレイな回れ右を
して一目散に家に帰って行きました。
 
家には、三番方だったのか?休みだったのか?思い出せませんか
オヤジが居て、「ロケットが飛んでいたわ!!」と言うと、「ふん」と鼻で
笑い「たっち、あまりよそで言うなよ」と・・・・・。
 
でも、私本当に見たんです「ロケット」を。
あれは正真正目、紛れのない「ロケット」です。
こんな感じの↓
 
同じ西芦別の友人に聞いても「見てない」「知らない」と言います。
中には「ロケット花火の見間違いじゃないの~!」などと信じてもらえません。
 
ネットでその頃にロケット実験をした記事がないかどうかを調べても
出て来ません。
 
どこかの高校で実験でもしたのか?どこかの企業なのか?
まさか、NASAが芦別で実験をやっているわけがないし。
いや、ちょっと待てよ!?時は米ソ冷戦の真っ只中だったし、
芦別のような場所ならソビエトもノーマークなので、もしや・・・・・?
 
ないね。
 
いや~、なんだったのだろうか?
本当に見間違いでも、ましてや嘘なんかでもなく正真正銘のロケットだったんです!!
 
今、隣町の赤平で植松電機さんという所がロケットの開発・研究をしているそうですが、
元々は芦別にあった会社なので、もしかして・・・・・。
 
この謎を解明したいので、もし皆さん!何か情報があれば教えてくださいね!!
 

"フィールドワーク" の想いで

  • 2015/06/01 00:49

あの大嫌いな運動会が終わると、一転して待ち遠しい"フィールドワーク"です。
当日は朝からワクワクと緊張でいっぱいでした。
学校へ着くといちいち教室へ入らないで校舎の前に集合していて、近くにはバスが着いています。

もう、先に来ている友達も満面の笑顔ではしゃいでいます。はしゃぎすぎて朝っぱらから先生にげんこつされているのもいます。(笑)
必ず、「乗り物酔いするので一番前に座らせて下さい」って言う人がいましたが、一度私も一番前に座りたくて「先生、乗り物酔いするので一番前に座らせて下さい」
と言ってもスルーされました。あれは女子や日頃から真面目だったり体の弱い生徒はその通りになりますが、
私のような生徒は「お前、なに言ってんだ?黙って後ろに座ってろ」って感じなんですよね。

やっぱり、先生は見抜いてます。(笑)

小学校低学年は近隣で、高学年は少し遠い所へ。

勉強をしなくて良いのと、皆でバスに乗って行けるのも楽しみ、また、バスガイドさんと会うのも小学生ながら
楽しみの一つでもありました。

バスガイドさんが色々と話してくれるんですよね。でまた、調子に乗った男子がうるさくして先生に名指しで叱られる構図。(笑)

本当に具合が悪くなって、さっきまで騒いでいた友達が急に顔が真っ青になって吐いちゃったりしてね。
吐いた本人も最悪だけど、隣で見てしまった生徒ももらいゲロしてしまい、こちらも最悪。(笑→涙)


それでも"フィールドワーク"は楽しみなんですよね。

小学5年生に野幌まで来て、そこで欧米系外国人グループを見るや否や
テレビや雑誌でしか外人を見たことがない炭鉱町の子供達は、一斉にその外国人の周りに集まりなぜか?サイン攻め。(爆)

あの外人さんたちは、一般人なのに「なぜ、サイン!?」と、思ったでしょうね。きっと、子供達は、外人=有名人=サインの公式だったのでしょうね。外人さんも、笑顔でサインをしてくれました。


本当にたのしい想いででした。

あとがき 小さい時から知っていたお兄ちゃんが、"フィールドワーク"で行った施設で元気にトランポリンで跳ねていました。

「あっ、三○山のお兄ちゃん!」
「おぅ!たっち!」

少し大人になってから分かりました。
三○山のお兄ちゃん、ちょっと悪いことしてしまったんだと。


そう、当時は良い時代だったのさ!

  • 2015/05/01 00:23
1992年に三井芦別炭鉱が閉山して、早23年。
私が芦別を離れて8年後のことです。
 
まぁ、私も西芦の炭住は高校2年生の途中までで、
その後は本町のすみれ第二団地へ引っ越しをしました。
親父が”じん肺”だったので、何かの理由で炭住には住めなくなったのでしょうね。
 
今の西芦は面影なんかほとんどなく、記憶の中の想い出だけの町になっていますが、
同郷の人と話す時は「今とは違って、西芦は賑わっていたよね」と話しをします。
けど、「芦別物語」さんなどで、当時の光景を見ると「・・・・・?こんなにさびれてたっけ?」
結構ショックな感じです。
 
でも、ほとんど芦別から出たことがなく、それ以外の地域に出るのは
見学旅行や修学旅行、親戚のいた釧路くらいだったので、札幌生活が31年目に
なった私の物差しで測ってはいけないのかも知れません。
 
確かに丙午生まれの私たちから、小学から中学卒業まで二クラスになりました。
今にして思えば、炭鉱住宅にも空き屋が結構ありましたね。
 
そんな中でも、子供たちは親の苦労も知らず、ましてや将来に対する不安なんか
これっぽっちもなく遊んでいたのですからね。
 
クラブローンという、三井芦別の方(多分、偉い人)の保養施設みたいな所があり、
小学校から真直ぐに下って行くと、池が何ヶ所かあり、「ここから自転車は入れません」
的な鉄柱が何本かあり、子供たちはそこで自転車を下りて、緑いっぱいの野原みたいな
所で遊ぶのです。(池でもタニシやトンボを捕りました、ギンヤンマ狙いで。)
何をして遊んだのか?分かりませんが、何もなくても子供たちは遊びの天才なので
それなりに楽しんでいました。
 
小学1年生の頃だったか(いや、幼稚園かな?遠足でクラブローンへ行ったのですが、
その時に男子は”仮面ライダー”ごっこをするのですが、同級生の”しんどう君”が
ライダーベルトなんぞを持ってきていたので、必然的に”しんどう君”が仮面ライダーで
その他、私たちはショッカーの役割でした。(何度かベルトを貸してもらいましたけど)
 
今の世の中なら、それを聞いた親が「一人だけ、そのようなを持って来ては持って来れない
子供が可哀相じゃなですか!今後はそのようなことはさせないか、皆にベルトを用意して
下さい!!」などと、お叱りの言葉を投げかけられるのでしょうね。(笑)
 
そう考えたら、本当に良い時代に生まれ育って感謝です。。。。。
 
”しんどう君”覚えてる?これだよ。↓

4月は入学式とそれから…。

  • 2015/04/01 10:08

幼稚園は"さくら組"、"ゆり組"、"うめ組"の3クラスで、私は"ゆり組"でした。
因みに"たかはしたこ先生"で、似顔絵を書いた時にはブツブツを書いていました。
(にきび顔)

そんな楽しい幼稚園を過ごして、いよいよ小学校へ。
入学式を終え、初めての登校日。
ワクワクしながら、二条通りを歩き三井鉱業所を過ぎて小学校へ。

正面玄関で上靴に履き替え。なぜか、"ワーグツ"と呼んでいましたっけね。

で、1年生のクラスは正面玄関から右側で、途中右手に保健室を過ぎ、2階に行く
会談を過ぎて、正面にある職員室に向かって左へ行くと1年生と2年生のクラス。

1年2組"さとうたえこ学級"が私のクラス。

さぁ、初学級だ!と、期待を胸に抱いていたかは記憶が定かではありませんが、取り敢えずクラスへ。

と、廊下を歩いていると家庭科室へ行く通路で担任の"さとうたえこ先生"が。

ん?側では女の子が泣いています。
ん?もう一人、男の子も。
泣いていたのは、私が好きだった色白の"いわさきゆきえちゃん"で、
男の子は"しんどうたかひろ"君。

事情の分からない私は、元気に「おはよーございます!!」などと、全く空気を読まず・・・・・。(笑)

なんでも、"しんどう君"が"いわさきさん"のランドセルを蹴ったとか。

きっと、好きだったんですね。(笑)

"しんどう君"は、しゃがんで目線を合わせてしかる"さとうたえこ先生"をジッと見ながら、
涙が頬に伝わっておりました。

あれから、41年になります。
"しんどう君"とは、高校卒業まで一緒でしたが、"いわさきさん"は小学2年生の時に
頼城へ転校しました。

昨年の芦別地区合同クラス会て、何十年振りかに"いわさきさん"に会いました!

が、「岩崎、元気だったか!?」と、一応同級生でもあり、好きだったので声を掛けました。

そこには、ハッキリ・クッキリと何十年かの壁がありました!(泣)


炭住の石炭小屋の前で「ライダー変身!」(小学の入学式の時)

雛(ひな)祭り

  • 2015/03/01 00:48
3月3日は”ひな祭り”という、女の子の節句の行事があります。
私の家は男兄弟だったので、”ひな祭り”とは縁がなかったので
直接”ひな飾り”を見ることは滅多にありませんでした。
 
一度、誰の家か忘れましたが、五段飾り位の”ひな飾り”を見た時に、
おっちょこちょいを自任している私は、「落として壊したらどうしよう」と
思い、そこのお母さんが「かとうくんも、もっと近くで見たら?」と言われましたが、
頑なに半径1メートル以内には近づかないようにしておりました。(笑)
 
で、”ひな祭り”で一番に思いだすのは、小学校の1年?2年生?の時に教室で
全員で”ひな祭り”の歌を皆で歌っていたのですが、私と隣に座っていた”ふみちゃん”
と二人で替え歌を作って歌ったことです。
 
あかりをつけましょ ぼんぼりに~♪
お花をあげましょ 桃の花~♪
五人ばやしの 笛太鼓~♪
今日はたのしい ひな祭り~♪
 
を、
 
あかりをつけましょ 豆電球~♪
お花をあげましょ 腐れ花~♪
五人ばやしの ギャングども~♪
今日はたのしい 金庫破り~♪
 
と、替え歌にして休み時間に歌って喜んでいたことです。(笑)
 
”ふみちゃん”は女の子でしたが、とてもユーモアがあって、いつも笑わされておりました。
クラスで何か催しものをした時にも、”ふみちゃん”と三人で前に出て
折れたタバコの吸い殻で~♪と言う出だしから始まる”中条きよし”の「うそ」という歌を、
紙でタバコを作って、”ふみちゃん”と二人が歌い、私がその紙で出来たタバコを吸う真似を
するというのもやったりもしました。
 
現在、”ふみちゃん”は大阪のおばちゃんをやっていますが、来年は大きな同窓会を
行うので、会って懐かしい話をしたいと思います。
 
”ひな祭り”の替え歌、憶えてるかな~・・・・・。