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青春のバレンタインデー

  • 2015/02/01 00:14

2月と言えば、物心ついたくいらいからおかしな風習が起きていました。
バレンタインデー・・・・・。
 
モテない、あるいは女子から人気のない男子ほど、こんなにも”むごい”
仕打ちはありません。(笑)
 
今でも「あんな”むごい”日なんか無けりゃイイのに」と思うのはトラウマでも
何でもなく、単に「チョコレートなんてアポロチョコかチョコボールで充分だよ」
と思っているからだと思います。
 
今ではチョコレートではなく品物を渡すようですが、それもお金の無駄。
とかなんとか言っているようじゃ、年なんですね、きっと。(笑)
 
そんな私にも学生時代には2度程、バレンタインデーでチョコを頂きました。
中2の時と高3の時です。(これだけ)
 
高3ともなれば「まぁ、こんな日もあってイイかもね」と、生意気にも余裕な
感じでしたが、まだいたいけな中2の時には嬉しさ全開でした。
 
しかも、頂いたの人が一つ上のソフト部の丸山先輩だったからで、
嬉しさもひとしおでした!!
 
あれは朝だったか、帰りだったか・・・・・?
西芦の旧三北商事側の駅前通りで、ちょうど伊藤商店の前辺りを
私は一人で歩いていたら、丸山先輩が友人と二人で歩いていたので挨拶を
すると、すれ違いざまに「サル、余ったから」とソフト部らしくアンダースローで
私の胸元へ友人と笑顔で会話しながら小さな袋をパスをしながら通り過ぎて行きました。
(本当に、物のついで感が満載でした)
 
一瞬の出来事で「?」と。
4、5秒して「これはもしや!!」と。(笑)
 
多分、その場ではなく、大切にプーマーもどきのカバンに入れて家に持ち帰って
部屋で一人包みを開けたと思います。
 
どんなチョコレートだったかは憶えていませんが、嬉しくて、嬉しくて
しばらく眺めていたのは間違いありません。
 
もちろん、勿体無いので直ぐには食べることはしないで、本棚の下の養命酒の
入った扉を開けて(一応、そこは私の宝物入れです)、何となくこっそりとしまいました。
 
余ったチョコだろうが、ついでだろうが憧れの丸山先輩からのバレンタインデーの
チョコレートです。(しかも、人生初の)
 
大事に大事に養命酒と一緒にしまって、たまにこっそりと見てはニヤニヤするのでした。
結局、そのチョコレートを食べたのは高2で芦別市へ引っ越すことになった、約3年後。
 
全然、大丈夫でした。(いまこうして生きているので)
まぁ、今から思えば改めて防腐剤?保存剤?の威力が分かりますね・・・・・。
 
あれから35年、その間には何度かバレンタインデーなるものの恩恵にあずかりましたが、
やっぱり、一番最初でしかも丸山先輩からのバレンタインデーは今も忘れられません。。。。。
 
追記 中学生のころは剣道部で2年生までスポーツ刈りだったのもあり、
丸山先輩からは「サル!」と呼ばれておりました。今から思えば、これも親しみのあったから
なのかも?と、今は勝手に思っている幸せな者です。。。。。

ぼっこ手袋と・・・・・。

  • 2015/01/01 00:13
冬でも特に雪の多くなる時期ですが、年々寒さが身にしみて来ます。
ですので、グランドや公園なんかで頭から雪だらけになりながら遊びまくって
いる子供たちを見ると、微笑ましくも逞しさを感じます。
 
まぁ、そういうあたくしも負けず劣らず雪の中で遊びまくっていました。
手袋もびしゃびしゃだし、長靴の中にも雪の塊が入って溶けてびしゃびしゃ。
帽子だって凍っているんだか何だか分からない状態・・・・・。
 
そうそう、小学校に上がる前までは両手袋が紐で繋がっている
”ぼっこ手袋”をはいていました。(”はく”って方言?)
 
そうなんですよね、紐が無いと必ず片方の手袋がどこかへ行ってしまうのが
私の中での”七不思議”なんですよね。
 
でも、あの”ぼっこ手袋”なら安心。
手袋が脱げてもちゃんと紐にぶらさがっていますからね。(笑)
 
けど、そのように脱げた状態で「あっ」と気が付いて手を入れると、これが
結構冷たくなっているんですよね。(笑)
 
しかし、あの”ぼっこ手袋”を考えた人は凄いな。と思いますよ。
きっと、考えに考えた末のアイディアではなく単純に「紐でも付けて置くか」的な
ごくごく普通にやったんだと確信しています。(笑)
 
それと、外で「鼻水、何するものぞ!!」と、
湯気を出しながら遊んで家に帰るんですが、そこで最大の難関が待ち受けています。
それは、長靴の中に入っている雪の塊が入っていて脱ぐのにかなり一苦労します。
 
どんなに足をキックのように振り払っても、玄関に手を付いて四つん這いになりながら、
今度は足を後ろに蹴り上げるようにしても脱げない。また、手を使い長靴を脱ごうにも
手かかじかんでいるのでいるので、これまた上手く逃げない。
 
そうなると、もう焦るわ頭に来るわで切なくなるで、半べそ状態。(笑)
 
ようやくの思いで長靴を脱ぐと、やはり結構デカイ雪の塊がボロッと。
楽しく遊んだ代償かと今にして思えば、致(いた)し方が無いのですが、
あの頃は悪戦苦闘過ぎました。
 
けれども、人生は山あり谷ありで、苦さの後にはちゃんと甘さがあるんですね。
遊ぶ前に背中に入れたタオルを引き抜かれた瞬間が、たまらなく気持ちいい!
 
で、”婆ば”の作った甘酒を飲んで身も心も温まるのです。。。。。

冬の夜と温もりと・・・・・。

  • 2014/12/01 00:49
早いですね~、もう12月師走の時期です。
それでなくとも冬は暗くなるのが早いのですが、炭鉱町は山間
だからなのか?暗さが早い気がします。
 
都会のように電灯も沢山ある訳でもなく、ネオン看板なんてのもなく、
橙色っぽい電灯と家々の窓から漏れて来る灯り、それと月明り。
 
雪が深々(しんしん)と降り積もり、風呂へ行く時には良いのですが
帰りは雪だるまのようにして帰って来ます。炭鉱風呂なのでドライヤー
などという気の利いた物はなく(あったら、直ぐに無くなってますが)、
髪の毛を濡らしたまんま帰るのですが、不思議と風邪を意識したことも
引いたこともありません。
 
それどころか、雪合戦をしながら帰るので何時もより遅くなる程です。
まだ、雪が深々と降っている時はいいのですが、雪の降らない日は
寒風が痛い。寒いとかではなく痛いんですよね。
 
このような日は髪の毛がコチコチに固まるので、家に帰って速効で
石炭ストーブに頭を近づけて乾かしたものです。しかも、近づけ過ぎて
頭がもの凄く熱くなることもしばしば。(笑)
 
でも、その様な日はもの凄く透き通った星空と空気、そして月明りが
キレイな日でもあるんですよね。
 
冬の日の炭鉱風呂もすこぶる暖かかったですが、家族の待っている
石炭ストーブの焚かれていた炭住はとても安心感のある温もりでした。。。。。

思えば遠くに来たもんだ・・・・・。

  • 2014/11/01 04:25
先日、西芦の夢を見ました。
意識は今のままなのに風景などは昔です。
 
朝起きてベットでしばし思い起こしながら考えました。
「あれから何年が経ったんだろう・・・・・」
 
以前、”青春の輝き”というお店をやりました。
そのお店のコンセプトは1970年代~80年代半ば。
 
”欽ちゃん”は17年前にオヤジが癌で入院した時にパチンコ台の前で
ボーッとしながら「炭住」を再現できないかな~?と思った店です。
店自体は、6年前に作りましたが。
 
”青春の輝き”は11年前に1970年代、80年代の青春の思い出の
流行や歌、当時の背景と私の部屋を思い作った店です。
 
どちらも”オヤジ”の余生を聞いて、急に寂しくなったと同時に懐かし記憶に
浸りたかったのです。
 
その”青春の輝き”の最初のメニューに載せた詩です。
 
『いつの頃からだろう
 
急に不安になったり寂しくなることが多くなったのは
 
また、いつの頃からだろう
 
小さい頃の家や、まだ元気だった両親の夢を見て胸がキュンとなってしまう
自分が泣き出しそうになるのは
 
何故なのだろう・・・。
 
そして、朝日より夕陽が好きになりました。
 
ただ、皆に会いたかったのではなく
 
あの頃の皆に会いたかったのです・・・。』

目映くも・・・・・。

  • 2014/10/01 00:05

早いもので、この”想いでの後に”を書き始めて三年の月日が過ぎました。
特に中学三年生までの”西芦別”の想い出を中心に書いて来ました。
何気ない日常のことで、しかも歳を追うごとに記憶も曖昧な所もあります。
それでも、あの当時の目映く輝いて見える当時を思い出すたびに自然と
笑みがこぼれて来ます。

今の私よりも若かった両親が信じられません。
たまに西芦へ行くのですが、木造の炭住はありませんけど、私が小学5年生
から高校2年まで過ごした七丁目の改良住宅52-2-7はまだ在ります。

行く度に「あ~、ここで過ごしていたんだよな~」と、高校を卒業してから現在に
至るまでの基礎が詰まっている光景を目にして、少しだけ誇らしい気持ちにもなります。
小さい頃から”ばあば”に連れられて七丁目から東頼城へ下る坂道の所にある
”お地蔵さん”にお参りに行っていたのもあり、今でも必ずその”お地蔵さん”へ行き
お参りをします。そこから、友人の住んでいた東頼城や釣りをした炭山川が一望できます。
「昔、大洪水があって沢山の人たちが死んだんだ。その供養のためにこのお地蔵さんが
あるんだ」と”ばあば”が言っていました。

それからゆっくりと西芦の町を車で通る。
「この辺には外山が、この下の方にはめっちゃんや西後マンが、朝学校へ行く時に
この辺で工藤の家が家族喧嘩していたよな~。誠の家はこの辺だったよな?
と言うことは、ちくんの家はこの辺り・・・・・」

あんなに家から学校まで遠く感じた道のり、広く感じた町並みが大人になった
目から見ると・・・・・。

今ではほとんどが野地となってしまい町と呼べるほどではない西芦。
当時とはかけ離れた光景だけど、記憶の中の”西芦”は今でも全力で自転車を漕いで
いた想い出なのです。

いつの頃からか、急に不安になったり寂しくなりました。

いつの頃からでしょうか、まだ元気だった両親が懐かしくなったのは・・・・・。

あの頃に帰れない事実を認めつつも、なぜか夢の中ではあの日のままなのです。

遠い、遠い、目映くも少し切なく、それでいて懐かしい想い出と西芦をあとにして日常の現実に戻るのです。。。。。

また、一つ想い出の味が消えて行く・・・・・

  • 2014/09/01 00:30

 

先日、”パーラー赤シャツ”の社長さんがお亡くなられました。
私自身は”赤シャツ”へ行った時に顔を見るくらいでしたが、私の同級生の
お母さんが長年に渡り”赤シャツ”で働いていたので知りました。
(息子さんも同じ高校の一つ上の先輩です)
 
”赤シャツ”と言えばラーメンです!
旭川の麺屋さんで働いているおばさんが西芦に来て帰る際には
時間が合えば必ず”赤シャツ”を食べて「美味しい」と言っていました。
 
当時の私は喫茶店自体が大人の憩いの場のようで行きづらかったのですが、
それでもラーメンは食べに行きましたし、中学時代には”おもちゃのまつ井”さんへ
プラモデルやモデルガンを見に行った帰りに、同級生と緊張しながら入って
フルーツパフェなんぞ食べた思い出があります。
 
”赤シャツ”の入り口は2ヶ所あって、都通りから入るのと裏?から入る所が
あり、私はなぜかいつも”関口楽器店”と”とみや靴店(ここにも同級生のお母さんが
働いていました)”の間の小路から裏の入り口から入っていました。
 
きっと、子供が行くのに後ろめたい気持ちがあったのだと思いますが、
都通りという表からよりも、飲食店へ繋がっている小路で表ほど人通りのない
裏の方から入っていたんだと思います。
 
まぁ、”まつ井”さんから最短距離なのもありますし、”関口楽器店”や”とみや靴店”は
駅前通りに面していた大通だったのもあります。
よく、夏になるとこの道路では歩行者天国などをやっておりました。
 
一度、息子さんが跡を継いでいたのですが、10数年前に閉店してしまいました。
色々な話を聞きますが、部外者の私が言うことではないけど赤シャツが継続され
なかったのは『残念!』という思いです。
 
味を守るだけでも難しいのに、後継者への伝授、そしてその味を守り続けるのは
単に『味』だけではなく、様々な葛藤があったんだと思います・・・・・。
 
現在、芦別の名物は「ガタタン」になっておりますが、正直、私としては?
と言う感じです。家族は「食べさせたでしょう」と言いますが、食べた記憶がありません。
 
それならば、恵久ちゃんや三千里のホルモンやシンタン、若鳥天狗の鳥焼、
バスターミナルの前にあった尻尾まであんこが入っていたたいやき、そして赤シャツの
ラーメン。これらは全国でも通用するご当地B級グルメだと自信があります。
 
あっ、レジャーランドの味噌おでんも美味しかったですね。
もう一つ、三角山の醤油ラーメンも美味しかったです!
 
あ~、本当に赤シャツのラーメンが食べられないんですね。。。。。
 
芦別物語さんの中に「パーラー赤シャツ」の画像があります。
もう、これを見て懐かしむしかないんですね。
 
謹んでご冥福をお祈りいたします。。。。。

只今、夏休み真っ最中!!

  • 2014/08/01 02:09

8月1日です。
もう既に夏休み真っ最中で、自転車、釣り三昧、そしてプールに
葛西商店でのペプシかパティオ!いや、まだありました!ありました!
ずる山(ずり山)、入山でのクワガタ採りです!!
 
二つくらいの上り坂にある短いトンネルを抜けるとそこがクワガタ採りの
場所で、もう少し先に行くと長い旧トンネルがあるのですが、そこは
怖くて行けなく、いつもその手前で友達と採っておりました。
 
コクワガタがほとんどですが、ノコギリクワガタを見つけれる時もあり
テンションが上がりました。お目当てはミヤマクワガタだけど、メスは
採れるのですがオスが中々難しい・・・・・。
 
これは西芦だけなのかも知れませんが、ミヤマの上にウシノコという名の
クワガタがいて、あたくしも5回ほどしか見ていません。
 
ウシノコの特徴はオスの角が文字通り牛の角のように曲線的になっている
クワガタなのですが、大人になって西芦以外の人に聞くと誰も知りません。
今はインターネットという便利なもので「ウシノコ」と調べてもありません。
 
幻だったのでしょうか・・・・・?
いや、上級生の採って来たウシノコを見たので間違いないと思いますが・・・・・。
で、最近思うのが「もしかして、あれは?ミヤマクワガタの進化系じゃないのか?」
と言うこと。どうですかね、皆さん?
 
そう考えてみると、「ウシノコのめんた捕まえた!」ってのは聞いたことが
なかったような・・・・・。
 
それと、山に囲まれているので普通に街灯の下にクワガタが集まって来ました。
まぁ、蛾やクワガタに似たアブラムシのような虫も沢山寄って来てましたけど。
 
今でもあの虫達の何とも言えない臭いは忘れません(笑)
一度、兄貴と生活館の裏にある公園に採りに言ったら「たっち、俺の肩に
クワガタ止まってるは」と言うので、見てみるとミヤマのメスが兄貴の肩に
乗っていてラッキーでした!
 
中学校では一応剣道部に入っていましたが、顧問の"村上直定先生"が
少し歳をとっていたので夏休み期間は普通の部活よりは無かったし、時間も
2時間程でしたので、たっぷりと遊ぶ時間があったんですよね(笑)
 
でも、ブラバン(吹奏楽部)は全道の常連なので夏休み関係なく猛練習を
しておりました。クーラーなんかないのでセクションごとに別れて窓を全開にして
練習していたので「頑張ってんな~」とね。
 
それにしても、まだ8月1日!
まだまだ夏休みだー!!と言いながら、宿題は明日からと言いつつ結局は
学校が始まる2、3日前くらいになっていました。
 
いま、あんなに夏休みがあってもどう使って良いか分からないし、夏休みは
一緒に遊ぶ友達や部活がないと暇をもてあましますからね。例え、いま一緒に
遊ぶ友達が居たとしても、あの頃のように無邪気に遊べないのが寂しいですね。。。。。
 
これが憧れの"ミヤマクワガタのオス"。
ウシノコはこれよりも兜の所は平べったく、角がもっと大きいやつです!
 

あれ?これです、ウシノコ。ミヤマクワガタで調べたら出て来ました。
単にミヤマより大きかっただけなのかな・・・・・?
いや、そんはずはありません!
 
夢はそのままに。。。。。
 
水銀灯でしたね・・・・・。

目映く神々しい『夏休み』

  • 2014/07/01 05:40
7月です。
 
7月は何と言っても最大のイベントは、
いえ、ウィンタースポーツをボブスレーか家の近所の坂道でミニスキーしかやらない私にとってクリスマスと同じくらいの最大のイベントがあります。
 
『夏休み』
 
今大人になって、真夏のビールを飲んだ時に「いや~、ビールを考えた人はエライよな!!」
と生意気にも言う感じで、『夏休み』を考えた人は本当にエライ!と思いました。
 
あの体育館で聞いた校長先生の眠たい演説さえも、
夏休みを控えた終業式の校長先生のお話は「これが終われば、明日から夏休みだ!!」と思うと、
神々しさえ感じたものです。
 
そう、それから教室へ戻ると通信簿をもらうのですが、
私はほとんどが2、3。甲乙丙の時には乙と丙。
 
国語3、算数2、理科4、社会3、音楽2、体育3が私の得意技でした!!
馴染みの居酒屋で「大将、いつもの!!」と言う感じです。
 
また、先生からのコメント欄にはこれまた毎度のごとく
・集中力が足りない
・協調性も足りなく・・・・・
とありました。
 
なぜか、男子はお互いに通信簿を見せやっこして「お前、バカだな!」などと、
大した差のない者同士が、実のところ「俺と同じバカがここにも居た!」的な
安心感を味わっているのでした。(笑)
 
私は今でもハッキリと目に焼き付いているのは、
学校を出て希望と胸に膨らんだ夏休みに胸を躍らせて、
小学校の校門を出て信号を渡りクラブローンへ続く道を右手に三井芦別鉱業所の池の上をぐんぐんと飛んでいる
オニヤンマやギンヤンマ可愛らしい糸トンボの姿を見て改めて「明日から夏休みだ!!」を実感しつつ、
右に折れると二条通りに出たとたんに、辺り一面真っ青な空にはトンボの群れ!
 
クルマトンボやらツーラントンボや何やら(調べたら学術的な言葉が出て来て、
小さい時に付けていたトンボの名前ではなかったので省略)が、
もう本当に「明日から夏休みだよ~!」と私に夏休み入りを歓迎しているような光景でした!!
 
あの時ほど明日から『夏休み』を実感したことはありませんでした。。。。。
 

早く終われ!運動会!!

  • 2014/06/01 09:05
私は足が遅かったので運動会が嫌いでした。
特に徒競争は本当に大嫌いでした!!
 
練習でも横6人か7人が並んで待っているのも大嫌いで、
しかももの凄く緊張するので”うんち”までしたくなる始末・・・・・。
 
運動会当日は何度「腹が痛い」と仮病を使い休もうか?と思いましたが、
結局、青ざめた表情で出てしまう律儀者・・・・・。
 
何が嫌だって、日頃から威張っているくせに徒競争では一番ケッパ。
子供心にプライドが・・・・・。
 
一度、徒競争の練習をしたことがありました。
家の人にも見られたくなかったので、家の前ではなく便所のある側の横の方です。
すると、どうでしょうか?家の前を通った車に轢かれそうになって、あの時は本当にビックリしました!!
 
とにかく、一年の内で最大の難敵が”運動会”。
きっと、根本的には争い事とか競うことが嫌いなんです。
なので、「どうせ徒競争をやるんなら、一人ずつ走らせてタイムを競わせればいいのに」と、
何度も何度も思いましたし、願いました。
 
つまり、一番ケッパが恥ずかしかったんですね。
 
大体、徒競争は一番最初の種目なのでそれが終わるといくらかは楽になります。
でも、やっぱり何らかの競技種目がある。
でも、単純に足が早い遅いで決着する徒競争とは違い、
障害物競争や二人三脚は必ずしも足の速い人が勝つとは限らないので、それらは何とか。
 
徒競争の次に嫌だったのが”リレー”。
これは自分のせいで抜かされたらすまないし、これまた恥ずかしい。
炭鉱のギャラリー(特にお母さんたち)は人一倍歓声が大きいと言うかオーバー。
 
「ア~!!!」と。
 
自転車のタイヤが付いていない車輪の溝を棒きれにあてがって走るリレー競技があるのですが、
これも心臓がドキドキでした。何時も心の中で私に来るまでに一番最後になってくれと。
そしたら、最初から最後なので私の責任でもないし抜かされて恥ずかしい思いをしなくて良いからね。
あとは、一人でも抜かせば心地良い歓声が。(と、かなり自分勝手ですが)
 
でも、そのような祈りは通じるはずもなく、
私に回ってくる頃にはかなり接戦という見ている人にとっては見せ場で、
私にとってはしっかりと地獄・・・・・。
 
その車輪のリレーは勝手に棒きれから外れて違うところを転がって行くんです。
見ている人から見ればそれが面白い、やってる本人としては超必死・・・・・。
 
けれど、学年別のフォークダンスを踊り、指に柔らかい紙で作った花を輪ゴムを
通して全校生徒で「花咲く大地」を踊って終了する頃には、やっと終わったと言う
安堵と現金なもので「もう一回、やってもいいけどさぁ」などと思っている自分がいます。
 
終わってから友達と西芦別商店街の”葛西商店”でミリンダのストロベリー味を
飲みながら、人のやっているパックマンを見ながら「終わったな~」としみじみと思う
黄昏時が一番の幸せに感じた日々でした。。。。。

こいのぼり

  • 2014/05/01 07:16

茂尻(もじり)から西芦に来た年か、翌年くらいかな?
家の前でオヤジとじいさんと二人して、長い木の棒に山から採って来た笹を
木の先に付けて”こいのぼり”を立てる作業をしていました。
 
きっと、私が4歳前後位だったと思いますが、今でもその一瞬の光景ですが
覚えています。きっと、兄貴が生まれた時に買ったんだと思いますが、
もの凄く大きくかった。
 
しかも、今思うと昨今のキレイな色ではなく、かなり色が濃くて特に黒の
お父さん”こいのぼり”なんかは「これが、黒ー!」って感じなんですよね。(笑)
 
素材も今は軽い生地で出来ていますが、当時の”こいのぼり”は思いっきり
綿で来ていたので、何だか厚ぼったい感じで「昔~」って雰囲気でした。(笑)
 
あれ?なんで先に笹を付けていたんでしょうかね?
普通、あの先に付いている「カラ、カラ、カラ~」って回るのが付いていなかったから
かな?(いや、付いていたかな)
 
”こいのぼり”の季節になると、
妙にその笹の葉と黒々としたお父さん”こいのぼり”が記憶に残っているんですよね。。。。