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スタッフとの出会い(規夫編)。

あたくしが規夫(欽ちゃん、徳太郎担当)と初めて
会ったのは、「しゃかりき屋メトロ店」です。

当時、そこの店長で「荒城堅治(あらきけんじ)」と
いう人物がいまして、規夫はその堅治の調理師学校の
同級生ということもあり、お客さんとしてお店に来ていたのです。

その当時、規夫は「ケーオープラザホテル」で洋食のコック
をしていました、あたくしはと言うと事業部で「大東京、
クラック、ハリーズ・ベイ、しゃかりき屋メトロ店」の責任者
だったこともあり、「しゃかりき屋メトロ店」へ行った時に二言
、三言声を掛ける程度でした。

その後、規夫の親友でもある「堅治」が1号店でもある
「しゃかりき屋ニュー北星店」を統括することになり、触発
されたのか、

それとも居酒屋の方が「女性と知り合う機会」
が増えると思ったのかは知りませんが、規夫も入社することになり、
そのまま「ニュー北星店」で働くようになったのです。

当時の規夫の印象は、仕事が終わったり、飲んだ後には
コンビニに寄って夜食ならぬ朝食を買い、必ずレジ脇にある「Wシュー」
をまるでマックの「ポテトはいかがですか?」のような付録のように
買っていたことです。(やはり元洋食の人間としてデザートはつき物ですから)

ん!?、いやこれだけなら、ただの「食いしん坊万歳」の太った梅宮辰夫さん
になってしまいますので、まじめに規夫との一番の思いでは「あれはー、忘れもしない
、えっと・・・・・」(忘れてるジャン!!)

そうでした、「しゃかりき屋」を無くし新しく「暖中」を立ち上げる時に、
規夫が「俺、この店買って独立します」と言ったことです。
(当時、規夫はメトロ店で繁盛していました)

あたくし、思わずお店のテーブルをひっくり返して、朝青龍ばりに
武蔵丸のような規夫に張り手をしてしまいました。(のりゴメン)

悔しさと、寂しさが込み上げてきたんです、堅治と規夫含め「しゃかりき屋」
3店舗のスタッフたちは本当に「しゃかりき屋」が好きでした、でもいくら好き
でも、会社としては業績と今後の方向性を考えての判断です。

今まで愛着を込めて信じてやってきたことが、いくら会社の方針と
はいえ、そこで働いているスタッフから見ると辛いことです。いつもは
そんな規夫を叱る堅治も二人のやりとりを黙っているしかなかったのでした。

それは、規夫の気持ちは「堅治」の気持ちでもあったからです。あたくしも
辛かったし責任を感じていました、だから何とか「しゃかりき屋」を残そうと
色々とやりました、

当時、「高田屋」が調子が良く、「なんだよ、ランチからやる業態がそんな
にいいのかよ、何がそば居酒屋だ、なぁ、みんな、よし!それじゃ、そば
居酒屋に対抗して、うどん居酒屋しゃかりき屋っていうのはどうだ!」

とか、何とか残そうと本気で考えていました。今から思うと「そんな問題じゃ
なかったんです」。当時は「マンパワー」だけではなく「業態」として運営が
できる「安定」した業態に移行していった時期でもありました。

だから、悔しかった、みんなの思いを考えたら余計に辛かった。でも、心のどこ
かで「確かに、このままだったら先細りだよな」と自分自身先が見えていなかった
のも事実です。それでも、必死であがいていました。

社長の言葉で「かとう、それはお前の意地か?その意地で可愛い部下達
をこれ以上、辛い思いをさせて不幸にするのか?」と言われ、無性に腹が
立ち「俺たちだって、ランチからできる店をやらせて下さいよ、高田屋のような
1Fの路面店でやらせて下さいよ、そうなったら俺たちは絶対に負けませんから」

と、いま思えば「高田屋」に対抗心を出すことで自分達を正当化してたのです、
どっちみち今の現状でダメ店が「あそこの立地なら」とか「時間帯が」とかの話をする
時点で、ただの「意地」だったんですね。(本当は社長の言葉だけではなく、自分
に一番腹が立っていたんです)

それでも、「メトロ店」だけ残して「しゃかりき屋」スタッフは新しい業態の「暖中」
を立ち上げることになりました、この時点では、と言うか、これを書いていて改めて、
まさか周りからも当の本人達も期待してなかった業態があのように繁盛店になる
なんて今でも不思議な思いです。

その後、規夫は東京で「暖中」を展開するということで東京へ行き、
何だかんだと約5年ほど「Wシュー」を食べる暇もないくらいの忙しさで、東京で
活躍をすることになりました。

2003年、11月5日に堅治が「くも膜下」で倒れ、17日に「永眠」し、
その辺りから何かが終わった気がしたあたくしは辞めることを考え始めたのでした。

それで翌年、最初は創業なんて考えてもいなく、誰も知らない場所でひっそりと
一人で「喫茶店」をやろうと考えていました。辞める日が近づいて現実感が増して
来て「ん?多分一人でやっても最初はいいけど、半年もするとダラケてくるし、寂しいよな」
と思い、

「焼き鳥屋かホルモン屋でもやろうかな?でも、料理できないし、憶えるのも
面倒だし、あっ、そうだ!規夫を呼ぼう!!」となり、何とも自分勝手な考えで
、しかも資金もあてもない中で規夫のいる東京へ会いに行ったのです。

規夫本人も、あたくしから電話で「話がある」と言われて、なんの話か大体
分かっていたと言っていました。それで二人でホルモン屋でも・・・・・、「待てよ、
のり、多分俺たち二人だけでやっていたら、十分過ぎるほど意志の弱い二人な
んだからダラケるし、寂しいよな」、

と言うこととなり、あたくしが当時兼務していた「上海月、暖中サイバー店、
上海月伏見邸、青春の輝き」で創業することになったのです。

だから、規夫があの時「本部長(当時)、俺は東京でモデルと出会い
結婚するために残ります!」なんてことになっていたら、(有)丸か加藤商店
はなかったのです。

そうだ!、いま改めて気がついた!「規夫をありがとう!!」、感謝。
これが規夫との出会いと思い出と、こんにちです。。。。。

それでは皆様に、ここで規夫からのプレゼントです。

規夫の「Wシュー」の所で思わず笑った人には、もれなく規夫から
「欽ちゃん」「徳太郎」に行って「思わず笑ったよ!」と言ってもらえれば、
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思わず笑った人や最近、あまり調子がよろしくないと思う方は願ってもない
チャンスですよ、しかも「Wチャンス!」ぜひこの機会にどうぞ!
(期間、9月20(土)~9月30日(火)まで)
*「徳太郎」の場合は「えびちゃん」になります。
*何度も書きますが「赤い文字」は「Aクリック(Aクイックにかけてみました)」ですよ。(ヤバッ)

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