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「生き筋」に見るリーダー。(家康編)最終回。

どうも、マグロを釣り上げた”弘樹(松方)”です。

さぁ、いよいよ「その時、リーダーは”生き筋”を見た!」の
最終回です。歴史に興味のない人には苦痛な日でしたが
それも今日で最後ですので、しばしお付き合いを。

徳川家康と言う人は、
「信長・秀吉・家康」では、どうもイマイチ三番目になりますね。

でも、あの戦乱の世の中を260年近くも平和にして、しかも
文化も発達させたのは、本当に凄いと思うのです。

よく、経営者は”信長”に憧れますが、それは多分派手なことを
したからでしょう。その点、家康公は地味なイメージがあります。

しかし、「渡部氏」が言うには、”家康”の「生き筋」は”勇猛”なこと。
だったからだと言います。確かに”家康”と言うのは「狸親爺」のような
イメージがありますが、それは晩年になってからです。

時は元亀元(1570)年、家康と信長は浅井・朝倉軍と戦い
これを破りました。「姉川の合戦」です。

この時は、生半可な激戦ではなかった。しかし、この時に躊躇することなく
突破口を開いたのは家康です。

次に戦国最強と言われた「武田軍」と三方ヶ原で戦ったときです。
この時、武田軍は京都を目指していて最終的に戦うのは”信長”です。
しかし、”家康”の領地を通るので”信長”への義理からぶつかることになりました。
(信長とは”兄弟分”なので)

戦国最強の騎馬軍団を持ち、しかも兵の数の上でも「武田軍」が上です。
明らかに不利で、味方からも「”義理”や”意地”なんかよして、
そのまま通せばいい」と。でも、”家康”は打って出た。まさに激戦でした。
(ちなみに武田軍2,7000千、徳川軍1,1000千)

命からがら”家康”は浜松城へ逃げ帰ります。(脱糞までして)
結局負けるけど、負けても力の限り戦う。ここで、見せないとこの先一生
”信長”に貸しを作ることになるし、他の大名にも「家康、”あなどれない”」
との印象を与える。だから、命がけで”生き筋”を通した。


次は”秀吉”との戦い。
これは戦わなくてもいいのだけれど、死んだ信長の息子が家康を頼ってきたので
家康はここでも立ち上がる。一旦戦うと決めたら戦う事に躊躇しないんですね、
家康と言う人は。それを家臣達はずーっと見てきている。

武士の本業は戦争で、家康はその本業が好きで、とことん戦う勇気を
備えている。だから若き日の家康には勇猛な姿が家来たちには焼きついている。
それが説得力なり、家康は強固な家臣団を持つことで「徳川幕府」を開いたのです。

実は”家康”の「生き筋」は若い時の”勇猛”さだったんですね。

それは”織田””今川”に18歳まで人質にとられていたからこそ、
なお更に”勇猛さ”が必要だったのだとも思います。

冒頭でも述べましたが、戦国武将の憧れはには、その最後が華々しかったり
するので(例えば、信長、真田幸村)、”秀吉”や”家康”のように長生き
して、戦場で死ななかった武将にはイマイチなところがあります。
(家康は満73歳まで生きました、今で言う95歳くらいです。多分)

確かに歴史上の”マロン”じゃなくて”ロマン”は、かき立てられないかも
知れないですが、リーダー的素質、経営者的素質では”家康”が
結局一番なのでは?と思う次第です。(きっとO型です)

破壊と創造の”信長”
全国統一をなしとげた”秀吉”
戦国の世を約260年にわたり、守り通した”家康”と、

今回は「信長・秀吉・家康」の「人生を変えた”生き筋”」でしたが、
振り返ってみると、皆さんにも「あの時かも!?」と思う”生き筋”があると思います。

人生には何度か転機があります。
その中でも「ここ!」と言うのを逃さないようにしていきたいと思います。
(でも、それってあとから分るんですよね)

それでは、ま~ったく興味のない人には退屈な四日間でしたが、
単に歴史オタクのあたくしに付き合っていただき、ありがとうございました。

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あたくしの「甲冑ストラップ」です。
加藤清正の”蛇の目”です。ただの○じゃありませんよ。

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