それは19997年秋の北海道拓殖銀行(拓銀)破たんから始まりました・・・・・。
1997年秋、北海道経済を支えていた拓銀が都銀としては戦後初となる破たんで
北海道経済に暗い影を落としました。当時、”タスコ”のメインバンクが拓銀だったので
連鎖倒産も十分にあり得ました。好むと好まざるとは関係なく”タスコ”、また社員のため
にも経営者としては決断をしなければいけませんでした。
札幌の中心地で飲食チェーンを二十数店舗(一部、東京)を展開していたタスコは
本格的に東京進出及びFC展開、そしてその後の一部上場を目指しました。
当初は担当者を東京に置いていましたが、”高田社長”が東京へ行くことにより
後戻りのできない、いえ、してはならない”タスコ”の本当の戦いが始まったのです。
創業の地、札幌本社と東京本社の二本社制にして引き続き札幌でもスクラップ&
ビルドやM&Aを繰り返しながら店舗を増やして行き、東京は東京で本州と言う
大きな市場で直営店とFCを増やして行きました。この辺のことを詳しく書くと
本一冊が出来るくらいになるので、そこはその内、然るべき人に任せます。(笑)
そして、拓銀の破たんからの倒産ギリギリを乗り越えて確実に”タスコ”は強くなって行ったのです。
上場へ向けて社外から色々な分野の専門家や大手外食チェーンから人材が集まって来ました。
その頃、会社の株の積み立てが始まっており、当初あたくしもしていましたが、
毎日飲み歩いていたので解約しました。(笑)
で、いよいよ上場の準備段階に入ると積立金のある人はいいけど、あたくしは
「積み立てるくらいなら、そのお金で”一休”(朝までやってる居酒屋)で飲むよ!」と
相変わらずのアホだったのです。
また、この頃になると上場でかなりの値が付くと言う話があり、親や親戚から
借りて株を買う社員も増えて来ました。別に悪い訳ではないですが、
そんなのを目にしていたのもあり、あたくしは余計に意固地になり「俺は株なんていらない!
お金は自分で稼いだお金で十分だろ」的な甘い考えでした。(笑)
2001年、10時過ぎ頃に昨夜(正確には朝方)の深酒で寝ていると
ベッド脇に置いてある携帯電話が鳴り、まどろみながら出ると社長室の”橘室長”
からでした。「加藤部長!やりました!!〇*△$!#・・・・・」
まだ寝ぼけているあたくしは「はい・・・・・」 まぁ要はジャスダックで一部上場を果して、
”タスコ”の前までの企業の株価はとても悪かったのに”タスコ”は予想以上の株価が付いて
会場が大盛り上がりになってるといった感じだったと思います。
「これも加藤部長のお蔭です!!」「は、はい・・・・・」妙に冷静に聞いていました。
”橘室長”も「あれ?あまり響いてない?」とあたくしとの温度差を感じたのか、
「それでは、また連絡します」 「はい」と言って電話を置いて「なんか、これから
大変になるな~・・・・・、もう少し寝よっと」と、殆ど他人事でした。(笑)
正直言って、あたくしはFC展開も上場も反対の立場でした。なぜ?今で充分だから。
会社の理念も思想も伝わらない人や企業に”タスコ”の精神なんて分るはずもないし
ましてや上場したら一度も店に来たこともない株主とやらに株価でしか判断され
ないのは納得が行かなかったからです。しかし、上場するとこれまで以上に沢山の
資金と優秀なスタッフが入って来ましたし、何よりも設立メンバーの目標でもあった
「家族に誇れる会社にする!!」と言うのが叶いました。いくら札幌中心部で飲食店を
沢山やっていても「所詮は飲み屋だろ」的な目から、一部上場となると「立派な会社に
勤めてるんだね~」となりますからね。また、同業者(一部を除く)や業者さんも一目も二目も
置くようになるし、家(マンション)、車を買うにもローンが通り易くなり、
「同じ飲食でも上場ともなると違うんだな~」と実感しました。(笑)
しかし、何事もコインの表裏のように常に表だけではありません。
世間の目(期待)、株主・投資家の目、証券会社の目、銀行の目、競合店の目と
それらを納得させるには、時には説き伏せたり力技でねじ伏せたりと、その分現場に負担が
掛かって来るし、現場に負担が掛かるとお客さんへのサービスが行き届かなくなり、
そうなると業績にも響き、それをカバーするために出店と・・・・・。
それでも、社長はじめ社員は皆本当に頑張りました。確かに、色々とキツかった
ことはありますが、それ以上に良い経験をしたし、仲間が出来ました。(サークル活動かよ)
会社がなくなって色々なことを言う人がいますが、そのような人にあたくしが
言うのは「あのね、例え甲子園で1回戦、2回戦で負けたとしても全国まで行って戦ったのと、
市内大会や地方大会で勝った、負けたと言って満足してるのとではどちらがやりがい
ありますか?どちらのスタッフが成長しますか?」と。それだけの価値は十二分にありました。
何時の頃からでしょうか?「これも会社のため、飲食業のため、一緒に働く仲間のため、
沢山お店が出来ることは、その分大勢のお客さんに喜んでもらえる。」と、自分自身に
言い聞かせて納得させようとしていました。いや、それも事実なんですね。
しかし、このようなこともしばしば考えるようになっていました「俺の様な会社の方向性に
異を唱える者が居ると、この先会社としてもそれらをけん引している人達から見ると、
とても煙たく邪魔な存在なんだろうな。」と。
で、「俺が居たら迷惑になるよな~、辞めるべきだよな~。」と頭を過(よぎ)るように
なって来たんですね。自分でも矛盾していました、会社が好きなのに辞める選択が。
きっと、設立時の思いが強く理想論で凝り固まり悲観することで自分自身を慰めて
いたんだと思います。
また、どこかで「俺が辞めて犠牲になれば会社も少しは分ってくれるんじゃないか?」なんて
完全に思いあがってもおりました。組織なんて一人、二人辞めても何とかなるんですよね。
ましてや大きな企業だと尚更です。(笑)
まぁ、”井の中の蛙”だったと言うこと。
よく、”社長”から「加藤は清原(元野球選手)みたいだな」とか「西郷隆盛だよ」と
言われました。「加藤は一見格好いいことを言ってるけど理想ばかりだよな?」的な感じですね。
自分でも「中々、痛い所を突くな~」と変に感心しましたね。(笑)
2004年3月末で退社し、4月21日に(有)丸か加藤商店を旗揚げしました。
今年で15周年になります、22歳から働き人生において「仕事様」と「生き様」を育んだ
”タスコ”に居たのが16年。ほとんど変わらない年月になっていたのには我ながら
驚いています。また、”タスコ”とほぼ同じ年月の会社運営をして来て改めて
”高田社長”と比べると(比べるんかい!)、まったくあまちゃん(じぇじぇじぇ。古ッ!)
だと痛感しています。(ここギャグにするか?)
あたくしが辞めることを”社長”に言いに行くと「3回目だもんな~。」
実はあたくし「辞めようと思います」と言ったのが過去に2回ありまして、
一度目は落合信彦の本に感化されて東西冷戦の終結をヨーロッパへ行ってこの目で
見てみたいと。(現実逃避)二度目は女に振られて(ダサッ!)。
で、三回目はお荷物になりたくないので身を引こうと。(おセンチ野郎です)
で、”社長”に言いに行くと「三回目だもんな~。タスコの精神は加藤が引き継いで行け」と。
って言われました。けど、冷静に考えると現状は目の前に居る”高田社長”が”タスコシステム”
の社長(会長)なんですけどね。しかし、その意味も十分に分かっていました。
”タスコ”から一緒に働いて来たスタッフに「社長(あたくし)、もうタスコじゃないんですよ!」
と、こだわるあたくしに言い寄る者も居ましたが、「タスコの精神は加藤が引き継いで行け」
この重い(思い)言葉を直接引き受けた者としてはそうはいきません。(笑)
だって、今でも入った当初に感じた背中(背骨)に電気が走った衝撃、
そして感動は今でも忘れられないし、その後の「仕事様」「生き様」になった体験、
経験を少しでも一緒に働く人に伝えないと、今までやって来たことが全て無になりますから。
(有)丸か加藤商店 突っ走れるところまで突っ走ります。。。。。
追記 この仕事以上に楽しいもの、やりがいのあるものが今のところ見つかりません。
ただ、楽しいけれど将来の不安もあってそれを探して来てもいました。
もし、それが見つかればそっちに行ったのかな?と。でも、この仕事以上に熱くなれて
感動するものには中々出会えないでしょうね。
最後の全体会議で退職の挨拶のあと。(”チーフ”・・・・・。)
”タスコ”の隣を間借りした新事務所で。
真面目すぎると言うことで。(笑)
”社長室”で最後の記念写真。
10周年の時の記念撮影。(一応、指が10)
なら、15周年もと言うことで。(一応、指が15)
辞めてから独立するまでの間に一度”青春の輝き”で飲んでいた時に”社長”が
「加藤の独立はめちゃめちゃ嬉しい~!けど、めちゃめちゃ寂しい~!」と言ってくれましたね。
何とかここまで来れました、ありがとうございます。
本当に何もなかった。地位も名誉もお金も信用も。ただ、あったのは、決して世間一般では
優秀ではない仲間たちと、「飲食業で働いていることを認めさせたい!」って言う誇りと
強烈な反骨精神だったのかも知れません。。。。。