24年前の1990年5月24日は、ぐる~とススキノビル7F(松前ビル)で
「ウィスキーバー大・東・京オリエンタルフード」(後に新感覚中国料理
大東京)がオープンした日です。
あれから24年が経っちまいました。(笑)
あたくしも23歳の好青年でしたね・・・・・。
時は日本経済はバブル。
特に札幌は2年ほど遅れたバブル真っ最中!!
当初、オープンは18時からでしたが工事が遅れて、その時間帯はまだ
ソファーなどは運搬されていて、結局20時からオープンすることに。
まだ、ススキノは平日でも遅い時間に人が歩いていたので、平日・金土は
朝の5時まで、日・祭日は17時~1時まで営業しておりました。
(皆、元気でした!)
あたくしこのビルには少なからずご縁がありまして、度々この”トップギア!!”
でも書いていますが、高校を卒業して就職した建築業の時にこのビルで
働いていたんですよね。(19歳頃)
この”大東京”は後にサイバーシティービル1Fに出来る”上海月”の
親のような存在で、この店が無ければ”上海月”も出来ていませんでした。
(因みに大東京の場所の前が違うオーナーさんがエスニック料理をやっていて、
その名前が”上海月”でした。いわばパクリってやつですね。笑)
このお店は入って右側のソファーはガラス張りでススキノの夜景が見えました。
まぁ、夜景と言っても向かいのオークラビルの「月の法善寺横丁」というネオンと、
下を走っているタクシーくらいでしたけどね。(笑)
それでもビルの上の階で外の景色が見えたり、光が入ってくるのは
一種独特の色気がありましたね。
当初の料理はアジアンティストで、羊の腸で作った「自家製ベトナムソーセージ」
とか、「海老チリピザ」や「蟹とレタスの炒飯」といった、アジアン創作料理でした。
その後、試食会で社長が大反対した、後にロングセラーとなる卵とチャーハンを
ドーナツ型にして、真ん中に蟹のあんかけを入れた「蟹玉チャーハン」が出ることに
なります。
その後、紆余曲折はありましたが大東京は順調に発展して行きましたが、
2001年の1月?2月?をもちまして、惜しまれつつもクローズしました。
当時、会社はFC展開が主で業態を絞り始めていた時なので、大東京、
上海月、暖中があり、暖中がFC展開を行っており、また上海月も南1条店を
出していて、今後の出店を見込んでいたので、大東京をクローズすることに。
今でもお客さんに「大東京、やらないの?」と言われます。
13年経ってもそのような言葉を掛けられるのは本当に嬉しいし、ありがたいことです。
現在の丸かの店舗もそのように慣れればいいのですけどね。。。。。
左から、山田専務(当時は常務)、あたくし、西垂水(にしたるみず)チーフ。(若ッ!)
追記 大東京という名前は、友人の”藤田”が名古屋へ出稼ぎに行っていた時に
通っていた床屋さんが「barber大東京」と、名古屋なのに大東京という響きがイイよね。
と言っていって、社長に「大東京はどうですか?」と言うと「いいな!」となったのです。
それまでには、「バットマン」とか「アジアン」とか言うのが候補だったんです。(笑)
この”大東京”のお陰で色々な出会いがありました。。。。。