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”ぺリリュー島”

先頃、「天皇皇后両陛下」がパラオの”ぺリリュー島”へ慰霊へ行かれました。
パラオはドイツが第一次世界大戦に負けて「パリ講和会議」によって、
日本の委任統治領になりました。1919年のことです。

それまで欧米の植民地政策では、ほとんど奴隷扱いと搾取が中心で、下手に教育を
施すと知恵が付いて反乱されたら困るので教育をしない政策とは違い、
日本の統治では学校や病院、道路などのインフラを整備して、その土地と人を発展させて
豊かにし、日本人と変わらない教育を育んで来ました。

それは東南アジア諸国や台湾・韓国も同じなのですが、なぜか?韓国だけが
「日本人に侵略され、酷い事をされた!!」と、言っているので理解に苦しみます・・・・・。

まぁ、そんな訳でパラオでもそのように産業を育てインフラを整備し、差別なく教育を行いました。
また、それまでの白人による植民地への土人扱いとは違い、日本人の正義正しさ、
節度・道徳心・勤勉さ、他人を思いやる心などから、パラオの人から愛されたのです。

そんな平和な時代も戦争で暗雲が垂れこめます。
それがこの度「天皇皇后両陛下」が慰霊された”ぺリリュー島”になるのです。

ぺリリュー島はパラオにある島ですが、そこを舞台に日米両軍が実に73日にも巡り
死闘が繰り返された場所です。

1944年(昭和19年)9月15日から同年11月25日にかけて行われた
日本軍守備隊11,000名、対する米軍は48,740名、実に兵員だけで4倍、
その他の航空戦力や海軍などの艦砲射撃を合わせると6倍近い敵と対峙することになるのです。

当初、米軍の上陸指揮官は「こんな小さな島は、2、3日で片づく。諸君に頼みがある、
私への土産に日本軍守備隊指揮官の”サムライ・サーベル”を持って帰ってもらいたい。」
と、かなりの余裕といいますか、欧米人特有の有色人種を見下す発言をしておりました。

ところが、それまでの日本軍の突撃主体の攻撃ではなく、守備隊長の”中川州男(くにお)”
隊長は持久戦を選び、洞窟などに籠って闘う戦法で奮戦した結果、
2,3日どころか二ヶ月半にも渡って6倍近い米軍と死闘を繰り広げたのです!

「2,3日で片が付くと」豪語していた上陸指揮官は解任され
、まさに泥沼の戦いです。

しかし、多勢に無勢。
健闘むなしく、11月24日には司令部陣地の兵力や弾薬はほとんど底をつき
司令部は”玉砕”を決意し、”中川州男”隊長以下数名の将校が自決をし、
”玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文を本土へ送った翌朝、残存兵力55名で「万歳突撃」を
敢行し、ここで組織的抵抗は終わり、11月27日ついに米軍が”ぺリリュー島”を
占領することになりました。

日本側の損害は戦死10,695名 捕虜202名 生存34名 米軍側の損害は
戦死1,794名 負傷8,010名 その他に、米兵士の中にはあまりの激戦ゆえに
気が狂った兵士が数百名・・・・・。

また、組織的な戦いは終わりましたが、洞窟を転々として戦い、なんと終戦後の
1947年4月22日に投降した34人の兵士もいました。
生存34名というのがその数です。

米軍側の”ニミッツ提督”は、あまりの日本軍の勇戦に敬意を称し、このような詩文を残しました。
「諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心を
もって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官C.W.ニミッツ」と。


遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と
共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。

「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、
みな悔し涙を流した・・・。船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った
日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・・・。
ファイル 2128-1.jpg今でも日本語を話す人も居ますし、日本語の挨拶が使われております。。。。。