あたくし”高橋真梨子”さんの歌が好きで、今年もコンサートへ行くつもりです。(過去2回)
元々は高校を卒業して就職先の上司の車で東北自動車道で何時間も助手席に
座っていた時に聴いたのが始まりです。
今さらながらに”高橋真梨子さん”の「フレンズ」を最近”ユーチューブ”で聴いています。
この曲は”高橋真梨子さん”の確執があったお母さんのことを歌ったそうで、それを聴いて
尚更、感慨深く聴いています。こんな感じのストーリーです↓
「父・森岡月夫は広島鉄道局、母・髙橋千鶴子は広島市内の銀行に、それぞれ勤務時の
1945年8月6日、米軍の原子爆弾投下により被爆。戦後、国鉄を辞めてプロの
ジャズクラリネット奏者を目指した父は、朝鮮戦争下で米軍基地が多くジャズが盛んで
あった福岡に移り、まもなく当時1歳だった真梨子も母に連れられて博多に転居した。
。5歳の時に両親は別居、真梨子は母と博多に残る。小学校3年10歳の時に
父母の離婚成立で、母親の「髙橋」姓となる。真梨子はこの時不倫をした母が許せず
長い間に渡って恨み続けた。中高生時代には母が自分に触れることすら許せなかったという。
父は広島に戻り、広島市内のクラブでジャズプレイヤーとして働いたが入市被爆が原因で長らく後遺症に苦しんだのち37歳で亡くなった。
この時も母は真梨子に泣きながら抱きついたらしいがそれをも振り切ったという。
そして福岡市立高宮中学校を卒業。
音楽を目指した父の影響を受け芸能界に憧れ、自らもジャズボーカルの勉強を始める。
16歳になるとプロ歌手を目指して九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)
より駒沢学園女子高等学校へ転入のため上京。渡辺プロのもとで本格的なレッスンを
受けた後、1966年に「スクールメイツ」の一員として芸能界デビュー。
しかし自身の求めているアーティスト路線でなかったこともあり、高校を卒業すると
渡辺プロを脱退し、博多に戻りディスコやクラブでの活動を始めた。 (ウィキペディアより)
追記 この曲を説明しながら”すーさん”と”瀬口”に「命までかけた愛ってあるか?」と
聞くと、案の定”すーさん”はスルーでしたが、”瀬口”は一瞬考えて
「海成(瀬口の息子のかいせい)ですかね。」と言う言葉を聞いた時には
「なるほど~」と妙に納得して、不覚にも「瀬口、いい奴だな。」と思いました。(笑)
本日、”欽ちゃんの炭山祭り”に伴い、同級生で芦別の
スーパースター「後藤ジャック章宏」のセックスじゃなく、サックスワンマンライブを行います!!
19:30”欽ちゃん支店”、次に”まるふじ”その次に”満福や”最後に”欽ちゃん本店”です!!
各15~20分位で回りますので、この機会に是非とも自称芦別のスパースター
後藤ジャック章宏”を見(聴き)に来て下さいね!!(笑)
投げ銭ライブですが、お金を本人に投げるのでなく箱か何かでまわるので、その時に
心付けをお願いします。150円程度。(笑)