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たっぷり、泣き笑いの5年間でした。

今日は形式上、「丸か加藤商店」の”5周年”です。
(おめでとうございます!多分、誰も言ってくれないので自分で言いました)

なんでしょうか?たかが5周年、されど5周年です。
会社的には「たかが」ですが、そこにたずさわった人たちの
ことを思い出すと「されど」になります。うん。

本日話す内容は、多分、一緒にタスコからも現在の丸かのスタッフもほとんど
知らない話だと思います。

しかも長いので、携帯の人は少し休みながらの方がいいと思いますよ。
(って、なにオメェが仕切ってんだ!って感じですよね)

それでは始めますよ。
前にも書きましたが、あたくしには”独立”して自分で飲食をやる考えはなく、
単に仕事を「やるか」、「やめるか」でした。

飲食店に従事している人のほとんどの人は、あまり深く
考えているわけでも、成功するという根拠もなく「将来は独立をして・・・・・」と言います。
まぁ、そのくらい無謀で自己が強いからこそ、人に頼らないで自分の才覚で
勝負できる道を選ぶのでしょうね、きっと。

では、なぜ”独立”したのか。
うん、単純です。居づらくなったんです。と言うか自分で居づらくしたんです。

要は不器用なだけですね。いや、「不器用なヤツですから(高倉健さん)」なんていう言葉は
格好つけすぎですね。単に力がなかっただけです。

実はあたくし辞めようと思ったのは以前にもあり、三度目の正直で辞めたんです。
過去2度はまったくの私的なことです・・・・・。

最後に辞めようと思ったのは、「自分の居場所はもうないな」という事。それは、
「自分がいることによって、会社の妨げになっているな」と思ったからです。

あたくしのような人間が古株で幅を利かせているとダメなんですね。
例えば、豊臣秀吉や徳川家康も全国制覇をする過程では”武断派"と言う
敵と直接”槍”を合わせていく、いわば「槍働き」の人間が重宝されますが、
平和な世の中になると、それしか脳のない人間は必要なくなるのです。

その代り”文治派”と言う、インフラ整備をする人材能力が必要となるのです。
あたくしなんて典型的な”武断派”でしたから「俺みたいのがいると、邪魔になるだろうな?
ある程度メドが付いたら去ろう」と。

皆はどうか知りませんが、あたくしはF・C展開も全国展開も株式上場も当然会ったことも
見たこともない株主にも、あまり関心はなくそのような話を聞く度にどこか冷めていた自分が
いたんですね。

なので、東京とあたくしがいた札幌ではかなり温度差がありました。と言うより、
その温度差を作ってしまったのも、あたくしなんだと思います。

でも、これは会社への否定ではなく考え方や思想の違いなんです。
何百人、何千人ものスタッフとその関係者を抱える企業です。札幌のしかも”ススキノ”で
やっていた頃の経営とは違います。「社員を幸福にしたい、お客様を喜ばせたい、
世の中に認められ貢献したい。」との思いは同じですが、ちょっとだけ考えと手法が違ったんです。

なので、自分に言い聞かせるように「俺たちは聖地でもある発祥の地を守るんだ!もし、
万が一東京がダメで再起を図る時の為にも、俺たちが何としてでも札幌を守る。」と。
それは、あたくしと東京との温度差を埋めるには十分な『大義名分』でした。いえ、はずでした。

では、『守る』とはどういうことかと言いますと、大きく別けて2つあります。
一つは業績です、どんなに良いことをいっても企業は赤字では話になりません。
しっかりと目標を達成すること。
二つ目には、『原点』です、どんなに流行の内装だろうが、華美な商品だろうが、
やはり”タスコ”の原点で一番の強みでもある”人間力”は決して失ってはいけないのです。

しかし、一つ目の”業績”も、二つ目の”原点”も自分が考えるようにはいかない。
なぜか?あたくしたちの強みでもある『原点』を無視した、いや追いつかないくらいの出店です。
出店に対してそれに対応する人も育っていないので、当然のように「店肌が荒れる」。となると、
業績が落ちる、落ちた業績をカバーする為にまた出店を繰り返すといった一連の”負の連鎖”です。

と言うより、出店が決して悪いわけではないけど、そのような仕組みもなく、またそのような
文化ではなかったんだと思います。色々なやり方考え方がありますが、少なくてもあたくしの
中では『効率』と『モチベーション』は両立できなかったのです。

そして、あたくし自身冷静な判断が出来なくなり、いつもイライラして人や物にあたる。
そうなると人心が離れていく、離れていくと猜疑心に陥り人間不信になる。といった、
まさに筋書き通りの展開ですね。(笑)

自分の出身母体の事業部や店とか昔からいるメンバーの店は、まだいいのですが、
そうではない店にたまに行くと、「おい、おい、なんでこんなヤツが働いているの?」
とか、「おめぇ、どうみても飲食店で働いちゃダメだろ?」と言うよな場面に出くわす度に、
「俺たち、こんな店を作るためにやってきたんじゃないよな。」と思うと、

自分に対しても情けないけど、まだ10店舗足らずの時から一緒に喜怒哀楽を共にして、
タスコで学んだことを、まるで「勲章」でも貰ったかのように『誇り』を持ち育っていった元スタッフたちや、
その時から応援してくれ、あたくしたちの成長や成功していく姿がまるで自分のことのように喜んで
くれているお客さん達が離れていく現状と、それでも我慢して通ってくれていることに本当に申し訳なくて、
情けなくて・・・・・。

『あんなにタスコでやっていた事に対して、自信とプライドを持ち、就職してからもその他でも
何かつらい事があった時には、必ず「あの時の経験が今こうして活かされています。本当に
ありがとうございます。俺(私)にとっては、一生の宝物です。」なんて、言っている元部下達が
今の店舗を見た時に、どう思うのだろうか。

ましてや、一緒に行った人たちが「なに、ここ最低の店だね」なんて知らないで言われたら、
どんなに切なく悲しい思いをするのだろう。と。

確かに「昔、バイトしていた会社が上場したんだよ!」と言うのは、この上もない自慢で喜びにもなりますが、
その代わりに無くしたモノの大きさに気付いた時には、「これは、俺(私)の知っているタスコじゃないよ」と
悲しくなるのは容易に想像できました。

そんなこんなで1、2年の後、「よし!こうなったら自分が店に出て、自分の思うような、
そしてもう一度”原点”の店を作ろう!」と、よせばいいのに作ったのです。
それが”青春の輝き”です。

結果は惨憺(さんたん)たるモノです。(笑) ざまぁないですよね、普段からうるさく「業績」のことを
言っておいて、トップである自分が出ている店が「しょぼい」のですから。
店に出る時にある人からこう言われました、「本部長、店に出るのは辞めた方がいいです。
もし、うまくいかなかったら・・・・・」と。

はからずもその人の言ったことが当ってしまいました。
そして、その矢先に東京から「高田専務」が帰ってくることになりました。
何て言うのでしょうか、調度良いタイミングですね。

(でも、実は自分でもこうなるんじゃないかと予想はついていました。)

あたくしのように、F・C展開?全国展開?株主?IR?嫌いだよ。
のくせに足元から火が付いていて、人間不信から自分でやった店は「あら?」と。

その内に、「北海道は”聖地”なのでF・Cはしない」となっていましたが、
株価の前では、そんな奇麗事は通用しなくなっていました。

なぜかそのことを、あたくしは何も聞いていませんでした。それが全てです。

「もう、自分自身この辺が潮時かなと考え、あとはいつの時期にしようか。
それまでに、自分が出来ることを精一杯しよう。」と。その矢先に、札幌時代に
苦楽を共にした「荒城堅治(あらきけんじ)」が残念ながら逝ってしまいました。享年 34歳。

元来、独立なんて考えたことのない17年でしたから、「どうするかな?」と。
「ラーメン屋?焼鳥屋?いや、喫茶店にしよう」なんてね。

生活のあてもあるわけでもないし、何も考えていないので当然一人でやろうと。
多分、言葉や表情には出さないけど(実感がなかったのかな?)、その時の
部下(後の丸か立ち上げメンバー)たちは心配していたんだと思います。

定例の”部門会”があり、いつもどおりそれに出席をしようと思ったら、
高田専務に「加藤、今日から”部門会”には出なくていいぞ」と。

その時は”ショック”でした。しかも、会議室からは時折「笑い声も聞こえてきます」
「あぁ、こんなもんだよな~」。そして、途中で休憩や終った時に会議室から
出てくる”元”部下達は、あたくしに気兼ねして気まずそうな雰囲気です。
(会議室では笑い声、でも一歩出ると、どのような表情でいようかと。)

あたくしは「こんなもんか?17年も居て自分なりにやってきた自負はある。
でも、所詮こんなもんだよ。」と、それと、あたくしに気を使う”元”部下達を見て
なんだか気の毒に思えたんです。

そして、会議が終ってから高田専務の所へ行き「これは、専務の意向ですか?
それとも社長の意向ですか?」と聞くと「社長の意向」と言われたので、
「わかりました、それなら納得です。でしたら、部下達に余計な気を使わせたく
ないので、早めに辞めます」と。

あたくしは、最後の最後まで”タスコマン”としての誇りと、そして何が
大切なのかを伝えたかっただけだったんですがね。危険分子と見られたようです。(笑)

でも、会社の言い分もわかりますよね、「辞める人間にましてやあたくしのような
過激な人間に振りまわされたくない」と言うのは当然です。
あたくしでもそうします。これからのことを考えますもん。

でも、何だか急に邪魔者扱いされたので段々と怒りが込み上げて来ました。(笑)
それでかねてから、辞めた時のことを心配してくれていた方に相談して
協力をしてもらい、「それなら、タスコに負けない人、店、会社」を作ろう!となり、
部下達に声を掛けて”独立”したのです。(ハァ~、ここまでホント長っ!)

でも、あくまでも強制ではなく、家族持ちやまだ若くタスコの方が成長できる人間は
タスコに残そうと考え、実際にそのように残ったほうがいいと伝えました。
しかし、「本部長は怖いから」と言った1名を除いてみんな付いてきてくれました。(コノッ!)
(本当にありがたかったです)

社長も専務も”独立”にあたっては変な意味ではなく”複雑な心境”だったと思います。

特に社長は、東京へ挨拶に行くと「加藤、お前にタスコは任せるからな。タスコの精神を
頼むぞ。」と。社長が当時のタスコの現状を一番分っていたし、辛くもあったんだと思います。
でも、何百、何千人の生活やら将来やらを考えたら、あたくしのように自分の思いのままの
行動は出来ないんです。

それに東京で働いている仲間達もみんな必死で頑張っていました。
それに比べて、あたくしなんぞは優しい北海道のお客さんや気心の知れた仲間に
囲まれていたんですよね。

でも、あたくしに残っていた選択肢は”辞める”しかなかったのです。
自分で自分の首をしめて、もうどうにもならないくらいに自分を追い詰めていました。

”独立”をするに当っての不安は、
1、社員にちゃんと給料を払えるか。
2、業者さんにもちゃんと支払いが出来るか。
でした。

期待だとか、希望だとかはこれっぽっちもありませんでした。
不安と不安とまた不安しかありませんでした。

そんな時にテレビで音楽評論家の「湯川れい子」さんが、映画”卒業”の中で
印象に残るシーンを話しながら、その映像が流れた時に「まさしく今の自分だ!」
と思うシーンが目に飛び込んで来ました。

それは、ダスティン・ホフマンが教会から花嫁と駆け落ちをしてバスに乗り込み
一番後ろの席に座るのですが、最初は二人して嬉しさと安心でふざけ合うのですが、
次第にことの重大さと、この先のことを考えた時の不安と責任、そして本当に
これで良かったのか?という二人の表情が妙に自分と重なり合ったことを覚えています。

そんな360°不安の中での創業でしたが、
まぁ、なにはともあれ、優しいお客さんと素敵なスタッフのおかげで、こうしてかろうじてですが
(有)丸か加藤商店は泣き笑いの5周年を迎えることが出来ました。

本当にありがとうございます。そして、これからも”アパッチ”ですが、
丸かは「どこから来て、どこへ行くのか」を模索しながら、皆さんと歩んで行きたいと思います。
皆様には本当に感謝しております。

どうぞ、これからもよろしくお願いします。

平成21年4月21日(火) (有)丸か加藤商店一同より。
”卒業”最後のシーンがいい。

「加藤やつぐみ達が独立して、俺は嬉しいよ~!でも寂しい~!」と、
上海月のパーティールームで、酔って何度も言っていましたよね。。。。。
では、この曲を。

ファイル 288-1.jpg
2004年4月21日 最後の全体会議にて。