先日、メーカーの担当者が事務所へ来て「社長、旭川支店の女性と社長の
”トップギア!!”のやりとりをしているんです!一度、社長とお会いして見たい
と言っています。”トップギア!!”はバイブルだと言っています。」と。
先日のhttp://www.katoshoten.jp/www/blog/index.cgi?no=3300も早々に送って
やりとりを下と言っていました。こんなつたない駄文をバイブルなんて言ってもらい
照れ臭いです。なので、前回の続きの様な感じになりますが、その辺に触れてみたい
と思います。
昭和63年、波乱万丈の昭和も最後の1988年の3月に面接へ行き、4月の初旬から
働き始めました。
・水商売からサービス業(飲食業)へ。
・嫁が自分の旦那の仕事を誇れるように。
・結婚の挨拶で、相手の実家へ行った時に水商売と言う理由で反対されないように。
その為には、水商売=だらしない、時間にルーズなどを止める。
嫁が主婦同士で給料の話になって、自分の旦那の方が高くて誇りを持て安心して
生活を送れるように。相手の家族(重に父親)から結婚を反対されないようにする。
今なら、「なに、それ?(笑)」とネタにされますが、当時はそのくらい飲食業は
水商売=怪しく、信用の低い世界でした。(そこに遊びに来るくせに)
世直しとかそんな正義感とか格好良いものではなく、プライドとか意地ですね。
思えば、そのために夜から朝まで二十歳そこらの若者がスーツにネクタイ締めて
一緒懸命に働いていました。若いのばかりだったので、私服ならどうしてもだらしなく
なるから男は全員スーツにネクタイでした。まぁ、その辺でも水商売から飲食業へと
意識して行ったんだと思います。
あたくし自身、この商売を本格的にやる上で決めたことがあります。
それは、当時ススキノで働くと言うことは一種独特な世界に足を踏み入れると言うことで、
やるからには半端な気持ちではやらないと。
なので、高校を卒業し建設・建築業へ入り2年で辞めて、それからバイトを転々として、
「よし!夜働くか!!」と思った時に「一年、昼間の仕事を一所懸命に働いて、
汗を掻くのはもういい!となるまでやり切ってから夜の世界で働こう!!」と決めました。
そして、約一年間働いてからこの世界へ。
聞いていなかったし、言わなかったので改めてこの”トップギア!!”で書きはじめるまでは、
「親はどう思っていたんだろう?」などとは考えてもみなかったのですが、
この仕事について一年経ったか立たない時に、知り合いのおばさんに「孝司ちゃんは、
何やってるの?」と聞かれ、あたくしが返事をする前に”おふくろ”が違う職業を言いました。(笑)
別にその時はちょっとだけ「あれ?違うのにな~。」と思いましたが、「まぁ、息子が
ススキノで働いているって言いにくいんだろうな~」程度で気にしませんでしたね。
今にして思えば、やはり息子がススキノで働いていることに対して、不安や後ろめたい
気持ちがあったのかも知れませんね。もしくは、どのように説明していいのか?分らなかった
んだと思います。当のあたくしはススキノと言うか、その会社で働いていて充実していました。
今思うと、確かに夕方18時から朝の3時や5時まで働いて、そこから飲みに行って
いたので、ある意味「ザ・ススキノマン!!」まっしぐらだったのに、不思議と周りが
見ているようなダークな世界にいる気がしませんでしたね。当時は夜の世界、それも
北日本一の繁華街ススキノで働くと言うことは、ボーダーライン(境界線)を超えたみたいな
感じでしたからね。けど、一緒に働いていた会社の仲間もあまり気にしてなかったです。
やはり、それは最初にも書いていたように「俺たちで水商売を、ススキノを変えるんだ!!」
と言う志があったからだと思うのです。なので、あたくしは未だに同業者の人との交流は少なく
店にもあまり行って交流を広げようとも思いません。30年も飲食業に居るのに。
(まぁ、それが良い悪いは別にしてね)
設立当初の会議で”社長”が「一年で店舗を10店舗にする!」と宣言して、皆で
どんな店を作りたいか発表したり、あたくしは休みなんていらないので働きたいと言えば、
”西やん(歳は一つ上だけど同期)”は「俺は、しっかり働いてまとまった休みを取りますよ」と、
真逆な意見を言い合ったり、会議一つとっても熱気もあり、皆、目が輝いていましたね。
約束通り1年で10店舗達成しましたね。(笑)
”タスコ(当時は(有)タカダ・インダストリー)”って、何もあたくしのようなモチベーション
バカばかりではなく、上下左右、斜め、表裏と色々な人間のエネルギーの集合体
だったんです。それを”社長”が上手く統率し、それぞれやり方は違えど、目的は
同じな集団に作り上げていたから、数々の困難を乗り越えられたんですね。
まぁ、同業者からは良くは思われなかったですけどね。(笑)
やはり、新興勢力で今までのススキノと言うか水商売の常識を覆していたので、
そりゃあ面白くはないと思います。でも、そういう人だって自分の会社を成長させる
時には同じように常識を破ったりして周りから批判されて来たんですけどね。(笑)
「歴史は繰り返す」です。
あたくしたちは同業者の噂や批評なんて全く意識していなかったんですね。
だって、あたくしたちが一番意識しなければいけないのは、周りが何と言おうと
目の前にいるお客さんを楽しませることだったから。なので、お客さんがお客さんを
呼び、お店は繁盛し、また店を作り、仲間もお客さんも増えて・・・・・。
会社設立当時は3店舗だったのが、気が付けばススキノや周辺で二十数店舗に。
そして、あの拓銀の破たんが起きてそこから、会社の方針と言うか”社長”の
人生にも社員の人生にも関わる運命が待ち受けておりました。。。。。
追記 誰よりも社員のことを考え、愛し、守ってくれてました。また、常に「お客さんに
楽しんでもらうには?」と、どんな時でもそんな話ばかりでしたね。
その根底にあるのは”社長”の幼少期からの環境があり、挫折した青年期、
そして運命的に巡り合えた仲間たち。だからこそ、冒頭に書いたことで社員と
その家族を幸せにしたいとね。その、思いや思想に共感してあたくしたちは
周りの声なんかはものともせずに一丸となって我武者羅に働きました。
今現在、12月”丸か”では皆がいつも以上に寝る時間を惜しんで働いています。
本当にありがたいことですが、身体がとても心配です。しかし、ふと自分たちの頃を
振り返ったら「おんなじことしてたよな~」と。(笑)
あたくしも歳を取った(重ねた)と言うことです。。。。。
今年も残すところあと半月になりましたたね。
最近ご無沙汰な皆さん!年内には顔を出して下さいよ!!