11年前の今日、1997年7月1日、サイバーシティービルに
「上海月」と「暖中」がオープンしました。上海月はレストランと
して、暖中はチェーンを考えた中華居酒屋として。
上海月は大東京のワンランクアップのお店として、暖中は「しゃ
かりき屋」の部隊が次の展開を目指して。中華事業部として
同時2店舗のオープンでした。
当初、私と細川マネージャー(現部長)、山田主任(やまちゃん)
、経田チーフとで期待と理想だけはパンパンに上海月を担当して、
きっとうまく行くだろうと思っていましたが、あまり気にしていなかった
荒城堅治(あらきけんじ)の「アパッチ・しゃかりき屋部隊暖中」の方
が勢い良く、その後も皆さんご存知の通り一時代を築くまでに成長
しました。
対する、上司の私が直接陣頭指揮に当たった「上海月」は鳴かず
飛ばずの業績を約2年間送りました。予算がないので自腹で東京
から「コンサルタント」を読んだり、勢いのある「暖中部隊」を事業部か
ら切り離して自立させたり。本当は暖中が同じ事業部にいた方が
事業部合計の業績としては良かったのですが、これからという人達を
巻き添えにしたくはなかったのと、部下のお荷物になりたくない、と言う
意地もありました。
結局、暖中が離れてからジリビン事業部になりました。(笑) それでも
私達のやっていることは間違っていない!とおもいやり続けました。
途中何度も色々なことを考えました。ダメな店を買って責任をとり一生
借金人生を送るしかないと、部下皆をタスコに残して。
その当時は、いつそうなってもおかしくない状況でした。
要は生きるための独立ではなく、上海月と心中するための独立です。
それでも細川部長含めて皆、ついて来てくれました。(でも、まだ会社
だからよかった。これが自分で経営をしていたら、3ヶ月で倒産です)
上海月が調子良くなって来たのが1999年の5月頃からです。あいにく
私はその年の2月~6月まで会社にもお店にも顔を出しませんでした。
手術やら入院もあったのですが、それは後付のようなものです。本当は
色々と精神的にまいっていたからなのです。(途中から電話では指示を
出していましたが)
そろそろ、大通り公園での日向ぼっこや、豊平川でのジョギングや本当に
何も考えないでいる、考えたくない日々にも飽きてきて(笑)、会社に出て
気ましたが、それでも店には1ヶ月くらい顔を出しませんでした。結局、
店に復帰したのは7月からです。その間細川部長はじめスタッフのお蔭で、
物凄い勢いで上海月が成長して来たんです。
それからは、上海月は会社でも常に「モデル店舗」として君臨していきました。
オープンから11年、存在を示すようになってから9年。場所は変わりましたが
、「上海月」は今日も生きています。
上海MOON
中央区南南6条西2丁目 フォレストビル2F
011-520-2371
人間たまには、な~んにも考えないで、ぐうたらになるものいいもんです。
自分がどこから来て、どこへ行くのかを知るし、腹が据わります。
今日から丸か「餃子とハイボールフェア」ですよ!