今はほとんど使われなくなりましたが、日本には「奉公」と言う
制度がありました。
そして、「滅私奉公」なることばは、ある人から言わせると
”ファシズム”だとか”超国家主義”を連想させる言葉として
嫌悪される時もあります。
あたくしの4年前に亡くなった”おじさん”は、東京の足立区で
「テーラー」を永年営んでおりました。
文部大臣か、何か忘れましたが表彰されたくらいなので
身内が言うのもなんですが、それなりに頑張ったのだと思います。
母方なので、生まれ育ちは「阿寒町」。
昔なので普通に貧乏人の子沢山の家庭で、早くから
働きに出ていました。
「手に職をつければ、食いっぱぐれがない」との事で、
縫製の仕事につきました。
何年か「奉公」をつとめて、厳しい修行を経て親方から
「奉公明け」をもらいました。
今なら、「独立していいぞ」とお墨付きを頂いた感じです。
しかし、普通はそれで独立が出来るのではなく、
そこの店の状況にもよりますが、おじさんはそこから三年間
無給でそこの店に勤めて、今まで受けた”義理や恩”を返してから
そこで初めて、本当の奉公があけました。
その三年間はまさに「滅私奉公」です。
滅私奉公とは「私心を捨てて公のために尽くすこと」を言います。
それから”おじさん”は東京へ行き、そこの就職先の娘さんと
結婚しました。
下町の職人堅気(かたぎ)の家で、そこには息子さんもいたので、
色々と苦労したようです。
ましてや、花の都東京の人たちから見ると、北海道と言うだけでも
最果ての地なのに、そのまた田舎から出てきた人間ですからね。
なので、結婚する時にも「どこの馬の骨か分からない奴」と
陰口を叩かれたので、おじさんは戸籍を取り寄せたり、
自分のルーツを調べて父親が”岩手県出身”だという証明書などで
「馬の骨」じゃないことを必死に証明しました。
実はあたくしが”おじさん”に会ったのは30歳位になった頃でした。
それも”おじさん”の兄弟の葬式で。(そなもんだよね)
あまり自分の苦労話はしない人でしたが、”おじさん”の葬式で
初めて”おじさん”の家族やら向うの親戚に会いましたが、
ぶっちゃけ「よく、こんな人たちの環境でやってこれたな~」と
今更ながら辛抱強い”おじさん”に感心しました。
やはり、それも若い時から厳しい修行をして「奉公」をしてきたから
”忍耐”がついたのでしょうね、そう考えると「奉公」とは単に厳しい
修行の中で仕事を覚えるだけでなく、人間としても成長させる
ものだったんですね。
最近は、何をやっても食べて行けます。
変な話し、働かなくても国が面倒をみてもくれます。
(税金で、しかもネコババまでされて)
仕事も嫌ならすぐに辞めれますし、情報誌にも沢山の職種が
載っています。
あまりにも”私”を大切にしてきて、そしてまたそれを助勢してきた
雰囲気も手伝ってか、フリーターとかいう自分的にも会社的にも都合の良い
風来坊が社会では認知されてもいます。
いま、昔のように「奉公制度」などをやれば、よっぽど憧れた
職種で無い限り、ほとんどは勤まらないでしょう。ましてや、
最後の三年間を無給で「滅私奉公」するなんて言ったら、
ここぞとばかりに、どこぞの”組合”やら”団体”が乗り込んできます。
なぜ、あたくしが本日このようなことを書いたかと言うと、
最近、丸かでも「鈴木徳太郎商店」が独立をしました。
そこのオーナーでもある”規夫”は、既に三年ほど前には
充分に独立できる状態でしたが、彼はあたくしや会社の為に
三年間辛抱しました。
辛抱しただけでなく、その間に”欽ちゃん”と言う業態を立ち上げ
”尚吾”と言う、次の担い手を育成させてもくれました。
もうそこまでやってもらえたら、充分すぎるほどです。
なので、4月1日に独立を晴れやかな気持ちで応援することが出来たのです。
時代が違うので色々と方法はありますが、
やはり、お世話になった会社や人にはしっかりと返すものは返して
何の憂いも無く新しい人生を踏み出して欲しいですね。
あなたは何を返しますか?