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そうか、23年前になるか・・・・・。

先日「クライマーズ・ハイ」と言う映画を観てきました。

23年前、1985年8月12日に羽田発~大阪行き乗員
乗客524名を乗せた日航ジャンボ機123便が群馬県
の御巣鷹山に衝突して524名の内520名が死亡した
大変いたましい事故でした。

その大惨事を取材する地元の新聞記者達の熱狂と
苦悩に満ちた一週間のストーリーの映画です。

あたくし的には非常に印象に残っている事故なんです、
それは、前にも少し触れたと思いますが、あたくし高校
を卒業をして「国際技研」と言う建築業の会社に就職
しました。

札幌では主にビルの鉄筋と鉄筋を圧接する仕事で、
本州ではレールとレールを圧接する仕事をしていました。

あたくしは、レール班で一年の三分の二は本州で仕事
をしていたんです。最初の出張は大宮、それから練馬
、神奈川の金沢文庫、熊谷、入間、茨城、青函トンネル
と、行ったり来たり。

中でも一番きつかったのは、金沢文庫です。なんせ暑い。
一服の時に買った飲みかけのジュースを仕事が終わった後
に「思いっきり飲もう!」と、それだけを楽しみに暑い中「ジュース
、ジュース」と念仏のごとく唱えて「いざ、ジュース!」と言う時
「アリンコ」が沢山、あたくしの変わりに飲んでおりました。
(慎司、今こそお前の出番だ!詳しくは8月12日のトップギア!で)

本当に何かが崩れ去る時には目の前で「ダダダダダダー」って
言う感じなるんですよね。本当にあの蒸し暑さには参りました。

練馬では、昼・夜とほとんど寝ないで働きましたし、埼玉の入間
(あっ、いるまと呼びます)で仕事をしていた時に、暑すぎて弁当
がアメっていて食欲もないのでご飯に水をかけて食べていた時に、
カーラジオから「タレントのたこ八郎さんが海で溺れて死亡」という
ニュースが飛びこんで来ました。

スポーツ新聞で「タコ溺れる」と言う記事には不謹慎ですが、
笑ってしまいました。

移動は飛行機なんか使いません、トラックに荷物を積んで
室蘭や苫小牧~青森や仙台にフェリーに乗りそこから移動です。

ちょうど、あの日もお盆で大洗~苫小牧行きのフェリーの中で
日航ジャンボ機墜落という大惨事を知りました。しかも、坂本
九ちゃんも乗っていたのにはかなりショックでした。(日曜日の朝
9時からのふれあい広場・サンデー九のファンだったので)

あたくしにとって、日航ジャンボ機の事故はそのニュースと同時に、
あの暑くきつかった日々を思い出すのです。

一番、楽しかったのは青森の三厩(みんまや)村です。そこでは主に
青函トンネル内に従事して、開口部まで徒歩で5分、開口部ついてから
「リニア・モーター」に1時間程のって、津軽海峡の真ん中まで行き作業
をします。仕事中オシッコやウンチをする時はトンネルの壁側に溝があるの
で、そこで用をたすんですね、だから青函トンネルはあたくしがおしっこや
ウンチした記念すべき場所でもあるのです。エヘン!

ねぶた祭りも二回も観たし、気候もよく、一軒家を借り切って常時10名位で
いました。
毎週土曜日は三厩村から青森市内へ約2時間かけて繰り出し、トラックの中で
寝て、めいいっぱい蚊に刺されて次の日に帰ってきます。

宿舎の目の前は海で、ウニをとったり泳いだり、夜にはイカ釣り
の漁火がきれいだった。

ねぶた祭りでディスコへ行ったときに、通路の真ん中で柱にぶつか
ったと思ったら、大きな黒人の米兵でした。多分、三メートルは
あったかな~。

毎日、掃除や洗濯、食事とお世話してくれたおばさん元気かな~。
駅前に一軒だけあった「赤ちょうちん」まだあるのかな~。

楽しいことも辛いこともあったけど、物凄く凝縮された二年間だった。
ファイル 74-1.jpg
青函トンネル内にて、二十歳。(この9ヵ月後に辞めてアメリカへ行きます)