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あたくしも、お前さんも十分に満ち足りています。

今日は前に読んで感動した文章を書きます。
昨年でしたか?うん、昨年の11月頃です、この文章を見つけたのは。
それではどうぞ!

大石順教先生
(17歳で養父によって両腕を切断されるも、
 菩薩行に一身を捧げた尼僧)
のところには身体の不自由な女性が数人、
寝食を共にしておりました。
1日は朝5時起床、庭の草取りから始まります。

足がだめな人はゴザに座って周りをきれいにし、
手が不自由な人は足で草を抜き取ります。
その仕事を順教先生は率先してなさいます。

それが済むと千手観音様にお参りして
般若心経一巻を唱え、朝食です。
不自由を抱えた身体でも、それぞれが工夫して
日常を立派にこなしていく様子は驚くばかりでした。
それからそれぞれが仕事にかかります。

私に与えられたのは便所の掃除でした。
私は絵の修業にきたのに、
なんだか当てが外れたような気がしました。
それに、便所掃除などやったことがありません。

それまで自分では努力して日常のことは
だいたいできるつもりでしたが、
できないところは父母やきょうだいに
助けてもらっていました。
誰の力も借りず一人で便所掃除など考えられません。


「できません」


私はそう答えました。

それなら便所を使ってはならない、
というのが順教先生のお返事でした。
それは出ていけというのと同じです。
決心して京都にきたのに、それでは困ります。

順教先生は私を井戸に連れていきました。
その頃は水道ではなく、ポンプ式の井戸でした。
私の力の弱い左手では
とてもポンプを押すことはできません。

すると、順教先生は背中でポンプの柄を押し上げ、
次は腋に挟んで押し下げてみせたのです。
勢いがないから、水はぽたぽたとわずかしか出ません。
でも、確かに水は汲めるのです。

次はバケツの水を便所まで運ばなければなりません。
だが、肘から先しか動かない私の左手の弱い力では、
バケツいっぱいの水はとても運べません。

それなら、私の左手で持てる少しだけの水が
バケツの底に溜まったところで運び、
便所にもう一つバケツを用意しておいて、それにあける。
それを繰り返せば、バケツいっぱいの水が
運べることを教わりました。

それから便器を拭き、床に雑巾をかけます。
それには自由に動く足を使います。

時間はかかります。だが、工夫を凝らせば
誰の助けも借りず、確かに自分一人でできるのです。

「あなたはできないと言うが、
できないのではなくやらないだけ。
やらなくてできるはずがありません。

人間、やればできないことはない。

できないとやらないを混同してはなりませんよ」

順教先生の言葉が身に染み、
目の前がぱあっと明るくなっていったのが忘れられません。
そうなのです。
私の道はあそこからひらけていったのです。

不自由を抱える身体だからこそ、
日常生活はきちんとしなければならない。

順教先生はこの考えを徹底されていて、
それは厳しいものでした。
だが、身体の自由になる部分を使って工夫し、
身の回りをきちんと整えると気持ちが柔らかくなり、
自然と微笑みがこぼれるようになるものです。

真の優しさは厳しさの中にある。
これも順教先生にお仕えして知ったことでした。

あたくし、もう彼これ5,6年前に”石川洋”氏の「無いから出来る」
と言う本を読んで”大石順教”尼を知りました。

”順教”尼は幼少の頃にお茶屋(貸座敷)の芸妓(げいぎ)になり”妻吉”と
名乗り、そこの主人の「中川(悪い名だ)萬次郎」の養女となりました。

そこで精進していましたが、養父である「中川萬次郎」の二度目の妻が
甥と駆け落ちをして、それに逆上して酒を飲んで日本刀で一家皆殺しを
はかりその時”順教”尼も巻き込まれて両腕を切り落とされました。

これがいわゆる「堀江の6人斬事件」と呼ばれる事件です。
”順教”尼の左手は一刀のものに切り離され、わずかに繋がっていた右手は病院で
切り離されました

後に”順教”尼はその当時のことを語ったときにこのように言っておられます。
「いま私がここに申し上げたいのは、人を恨むとか憎むとかということを
すべきでない、それはその人自身を苦しめるものだということ。」

また”順教”尼はこのようにも言っておられます。
6人を切って自首した萬次郎のことを警察に取り調べられた時に
「お前は萬次郎を憎んでいるか」と聞かれ”順教”尼は「私は恨んでいない、
萬次郎の骨を拾い法事もする」と。

それには萬次郎が自分を憎んで切ったのではないと知り、それと萬次郎が死刑に
なる身であることも、自分の因縁であると思ったからだと。

ある時萬次郎から「最後の願いだ、会ってくれ」と手紙が来ました。
旅芸人をしていた”順教”尼は堀川にある監獄に面会に行きました

萬次郎はしばらく黙っていましたが、「立派な舞踏の師匠にしたいと思っていたのに、
両方の手を切り落としてしまい、すまないというだけで死んでも死ねぬ。
死後にはあんたの霊となって守り、決して不自由はさせね。」と言ったそうです。

それを聞いて”順教”尼は「お父さんが護ってくださるなら、立派な人になりましょう。」と
言って別れたのだそうです。

その後、”順教”尼は一念発起して口で筆を加えて書画に取り組みます。
そして日本画家の”山口草平”氏と結婚して長男、長女をもうけますが離婚をします。
それからは身体障害者の婦女子を収容して教育を始めるのです。

身体障害者の”心の母”と呼ばれた波乱万丈の人生を歩んだ
”大石順教”尼は1968年81歳で亡くなりました。