ブログ

記事一覧

やっぱり。

やっぱりと言うか、当然と言いますか、違う意味で
期待を裏切らない記事を目にしました。

「子ども手当に外国人殺到、自治体職員怒りの声
 困難な”確認作業”」

その記事の中に「韓国人男性が養子縁組と称して554人分
年額8600万円を申請しに来た。」と。

何でも、その人の奥さんの母国タイの孤児院の子ども達と
”養子縁組”をしているとして、子ども手当を年額8600万円を
貰おうとしたという記事です。(毎年8600万円ですよ!)

他にも中国人やミャンマー人の人たちが目立つそうです。
先ほどのような悪質なまでもいきませんが、基準やら整備が
整っていないから、職員さん達もかなりしんどいとか。

中には、日本語がほとんど話せないので筆談でのやりとりを
しながらだから、余計に時間も掛かるそうです。(ホステスか)

それにしても、何の為に外国人にまで「子ども手当」を
支給するのでしょうか?

そもそも、あたくしは「子ども手当」それじたい反対ですけど。
このような”アホ”な事態になることは予測できたはずです。

それでも”選挙対策”の為に、このような愚策を平気で
”マニフェスト”に乗せてしまった”ツケ”が、今後まだまだ出てきます。

大体にして、そんなことで「子育ての応援」になるのでしょうか?
それで一体全体、どのような国益になるのでしょうか?

ありえない人数の養子縁組をしておいて(これもどこまで本当か?)、
申請を却下されたら、今度はその男性の知人達が
「これは”人種差別だ!”」と言っているとか。。。。。

あの~、やはり”鳩山首相の財産”と社民党やこの制度を強く推し進めた
議員の人たちが、自分達の私財で子ども手当を支給して下さい。
(そうなると、多分一人当たり1円くらにしかならないけど)

税金は日本人の為に使うものですし(国籍をとってもダメです)、
そして敢えて言わせて頂ければ、そこまでして税金を使った子ども達の
「費用対効果」は何を持って”成果が出た”となるのでしょうか?

まさか、そこまで手当をしておいて「ニートやら、引きこもりやら、逆切れして
人を刺したり。」するようなことになりませんよね?

もう一つ、ここはやはり”大人手当”にして飲食券にしませんか?
そっちの方が市場と国内で消費されて景気にも少しはいいと思う。。。。。

こんなことも思い出しました。

携帯をいじっていると、このような質問がありました。
「クラス替えの時期に何を思った?」と言う質問です。

・好きな人と同じクラスに
・友達と同じクラスに
・親友と同じクラスに
・苦手な人と別組で
・担任は誰だろう
・その他少数意見

と、この中から選ぶのですが、一番はやはり「好きな人と同じクラスに」
がダントツトップでした。

皆さんは、どう思いましたか?
あたくしは当然「好きな人と同じクラスに」でした、
次に「誰と一緒だろう?」か「担任は誰だろ?」が甲乙付けがたい
くらい重要なことでした。

廊下の掲示板に貼られた大きな紙に、クラスごとで名前を書いているのですが
あの”ドキドキ感”は、中学生ながら何も言いようの無い緊張感でした。

で、好きな子が違うクラスになっていた、あの”失望感”と言ったら、
思春期を迎えた年頃にはかなりショックでして、友達が「かー、また同じクラスで
良かったな!」

なんて、言われても口では「あぁ。」と、そっけない態度で流しておいて
がしかし、中々あきらめ切れずに「いや、ひょっとして見逃してるかも?」と
何度も「好きな子」の名前を、本当に何度も探して

しまいには「嫌いな女子」と変わるようにと、目をつぶって”念力光線”まで
送る始末でした。。。。。

あたくしの所は、小学生から中学まで2クラスしかないので、
ほとんどどこかで同じクラスになる可能性が高いのですが、
まぁ、慣れれば何ともないのですが、それにしてもその瞬間は

「この一年は長い。」しか思えませんでした。

でも、クラス替えっていいもんですね、
嫌な人とでも、同じクラスになって1~2年間一緒にいると
仲間意識が芽生えてくるので、それなりに仲良くなりますもんね。

でも、それなのに一度もクラス会や同窓会へ呼ばれていないってさぁ、

・・・・・どうゆこと?

最近「遊歩計」にはまっていると書きましたよね、
これ↓
ファイル 595-1.jpg

”天下統一”の予定より「2日おくれ」ですけど。

で、いつも歩いているのですが、先日、久しぶりに地下鉄に乗ったら
なんと17日ぶりでした。

その間、かなりの勢いで酔っていない限りはタクシーにも乗らないので
ひたすら歩いていたんですね。

なので、あたくし最近は密かな楽しみと言うか、街の中を歩きながら
感傷にふけるのが、ある曲を聴きながらサラリーマンの方を見てるときです。

「それがこの曲」

この曲を「ユーチューブ」で聴きながら、サラリーマンの方達を見ると、
「この人たちの青春やら、人生はどうだったんだろう?」ってね。

そう思うと「頑張れ!サラリーマン!!」と、密かに”エール”を
送っているのでございます。。。。。

って言うか、”お前もな!”と言われそうですがね。。。。。

最近、見たこと&思い出したこと。

本日は、最近見たこと&思い出したことです。

昨日、コンビニへ行きゴミを捨てようと
コンビニの前に置いてある、ゴミ箱へ捨てようと思ったら
このような文字になっていました。

ファイル 594-1.jpg
燃やしてどうする、しかも”コミ?”


2002年『日韓サッカーワールドカップ』で、札幌ドームでも
因縁の試合でもある「イングランド代表VSアルゼンチン代表」の試合が
ありました。

ワールドカップ開催前に問題になっていたのが
”フーリガン”と言う、熱狂して時には暴徒化するファンの問題です。

しかも、イギリスにはその”フーリガン”が多いとのこと。
しかも、因縁の相手”アルゼンチン”です。

あたくしは札幌ドームには行かなかったのですが、
途中、事務所から誰にも言わずに抜け出し(このタイプはB型に多い)、
今は懐かしのSTVの”スピカ”で大きなスクリーンで試合中継を行なって
いるとのことで、”野次馬太郎”のあたくしは、そそくさと一人で向かい
楽しみました。

時は”ベッカムブーム”で、ほとんどのファンがイングランド代表を
応援しています。(あたくしはどっちでも良く、お祭り騒ぎであれば)

結果、試合はイングランド代表の勝利で終わりました。
で、事務所へ帰ろうかと大通り公園を通ると、日本のサッカーファン達が
かなり盛り上がっていて、「何だかこのまま事務所へ行き仕事をするのもな~」
と思い、近くのコンビニでビールを買って、そのお祭り騒ぎを遠巻きに
見ながら楽しもうと。

どのくらいの時間が経ったでしょう?いえ、何本目の500mlのビールを
飲み干したでしょうか?

あたくしは、ほろ酔い気分になりながら芝生の上で胡坐(あぐら)なんぞ
かいたり、寝転んだりしながらお祭り騒ぎを心地よい気分で堪能して
おりましたら、

うん?何か様子が違うかな? まっ、いいっか?
最初はあたくしの周りで日本人がサッカーボールを輪になって
パスなどをしておりましたが、次第にドームから観戦して来た
イングランドファンが湧き出してきまして、

気が付くと、あたくしが胡坐をしている周りは30人ほどになり
その輪の中であたくし一人がぼつんと胡坐で、ビールなんぞを
飲んでいるでありませんか?(いつのまに!?)

不思議なもんで、ああゆうのってタイミングを逃すと
立ち上がれないもんで、あたくし針のむしろの上に座っているような
とてもいたたまれない気持ちと、

訳のわからない、酔っていたせいもあり「ここは日本だ!」と言う
思いも手伝ってか、頑としてそこに居座り続けていた”ヘンテコ”な
日本人と化しておりました。

あたくしが動き出したのは、何のことは無く
ビールがなくなったので、コンビニへ買いに行くときでした。(どんだけ飲むんだよ)

で、気が付けばというより、ほとんどおぼろげですが
イングランド人と肩を組んで、ビールを回し飲みまでしておりました。。。。。

記憶はそこまででした。。。。。


中村さ~ん、元気ですか?5月9日「花見ですよ」。
19:29分札幌駅でしたら、23時までには函館に着きますよ。
(泊りでもいいけど)

勝負への執念

先日、テレビで「輪島功一伝説」なるものをやっておりました。

実は輪島功一さんは、樺太生まれで士別で育ったんですね。

テレビで見る輪島さんは、ひょうきんなおじさんといった印象ですが、
何を隠そうボクシングの元世界チャンピンで「炎の男」と呼ばれて、
何度も王座から陥落しても、復活をしチャンピンに返り咲いたので
「不死鳥」とも呼ばれておりました。

世界チャンピオンになる為に、色々な奇策を立てて世界チャピンに
なったのですが、

その1「かえる跳び作戦」
100%勝算がなくて、まともに戦えば絶対に負けてしまうので
そこで、思いついたのが「かえる跳び作戦」。
一度、しゃがんで相手の視覚から消えて、かえるのように”ジャンプ”を
してパンチを打つ作戦。

結果、相手の不意をついて勝利!!

その2「あっち向いてホイ!作戦」
試合中にわざと、あらぬ方向に視線をはずして、釣られて相手が
そちらを見た瞬間にアッパーを繰り出す奇襲戦法。

結果、これも大成功!!

といった感じで、防衛を重ねていきました。

一度王者を陥落して、そのまま入院して次の再選は無理だと
言われたのですが、その時に周囲や医師の反対を押し切って
挑戦をする時に言った言葉が実にイイんですね。

それがこの言葉です、
「無くしたベルトはまた取り戻せるが、一度無くした意地は
二度と取り戻せない。」と言って、リングへ上がり見事に世界チャンピンに
返り咲きました。(かっこいい~!!)

でも、あたくしがもっとも印象に残ったと言うか、うけたのが
”ガッツ石松さん”「いや~、本当に”勝負に勝つ”と言う執念で
色々な作戦を立てていたので、一度俺もマネをしたんだよ。

それで、相手に接近した時に耳元で”ディスザ・ペン”と片言の単語で
意表をつこうとしたら、まったく反応しなくて失敗にお終わりました。」

その原因をガッツさんは
「相手がスペイン人だったんだよね」とおっしゃっておりました。

これはうけた。

奉公。

今はほとんど使われなくなりましたが、日本には「奉公」と言う
制度がありました。

そして、「滅私奉公」なることばは、ある人から言わせると
”ファシズム”だとか”超国家主義”を連想させる言葉として
嫌悪される時もあります。

あたくしの4年前に亡くなった”おじさん”は、東京の足立区で
「テーラー」を永年営んでおりました。

文部大臣か、何か忘れましたが表彰されたくらいなので
身内が言うのもなんですが、それなりに頑張ったのだと思います。

母方なので、生まれ育ちは「阿寒町」。
昔なので普通に貧乏人の子沢山の家庭で、早くから
働きに出ていました。

「手に職をつければ、食いっぱぐれがない」との事で、
縫製の仕事につきました。

何年か「奉公」をつとめて、厳しい修行を経て親方から
「奉公明け」をもらいました。

今なら、「独立していいぞ」とお墨付きを頂いた感じです。

しかし、普通はそれで独立が出来るのではなく、
そこの店の状況にもよりますが、おじさんはそこから三年間
無給でそこの店に勤めて、今まで受けた”義理や恩”を返してから
そこで初めて、本当の奉公があけました。

その三年間はまさに「滅私奉公」です。
滅私奉公とは「私心を捨てて公のために尽くすこと」を言います。

それから”おじさん”は東京へ行き、そこの就職先の娘さんと
結婚しました。

下町の職人堅気(かたぎ)の家で、そこには息子さんもいたので、
色々と苦労したようです。

ましてや、花の都東京の人たちから見ると、北海道と言うだけでも
最果ての地なのに、そのまた田舎から出てきた人間ですからね。

なので、結婚する時にも「どこの馬の骨か分からない奴」と
陰口を叩かれたので、おじさんは戸籍を取り寄せたり、
自分のルーツを調べて父親が”岩手県出身”だという証明書などで
「馬の骨」じゃないことを必死に証明しました。

実はあたくしが”おじさん”に会ったのは30歳位になった頃でした。
それも”おじさん”の兄弟の葬式で。(そなもんだよね)

あまり自分の苦労話はしない人でしたが、”おじさん”の葬式で
初めて”おじさん”の家族やら向うの親戚に会いましたが、
ぶっちゃけ「よく、こんな人たちの環境でやってこれたな~」と
今更ながら辛抱強い”おじさん”に感心しました。

やはり、それも若い時から厳しい修行をして「奉公」をしてきたから
”忍耐”がついたのでしょうね、そう考えると「奉公」とは単に厳しい
修行の中で仕事を覚えるだけでなく、人間としても成長させる
ものだったんですね。

最近は、何をやっても食べて行けます。
変な話し、働かなくても国が面倒をみてもくれます。
(税金で、しかもネコババまでされて)

仕事も嫌ならすぐに辞めれますし、情報誌にも沢山の職種が
載っています。

あまりにも”私”を大切にしてきて、そしてまたそれを助勢してきた
雰囲気も手伝ってか、フリーターとかいう自分的にも会社的にも都合の良い
風来坊が社会では認知されてもいます。

いま、昔のように「奉公制度」などをやれば、よっぽど憧れた
職種で無い限り、ほとんどは勤まらないでしょう。ましてや、
最後の三年間を無給で「滅私奉公」するなんて言ったら、
ここぞとばかりに、どこぞの”組合”やら”団体”が乗り込んできます。

なぜ、あたくしが本日このようなことを書いたかと言うと、
最近、丸かでも「鈴木徳太郎商店」が独立をしました。

そこのオーナーでもある”規夫”は、既に三年ほど前には
充分に独立できる状態でしたが、彼はあたくしや会社の為に
三年間辛抱しました。

辛抱しただけでなく、その間に”欽ちゃん”と言う業態を立ち上げ
”尚吾”と言う、次の担い手を育成させてもくれました。

もうそこまでやってもらえたら、充分すぎるほどです。
なので、4月1日に独立を晴れやかな気持ちで応援することが出来たのです。

時代が違うので色々と方法はありますが、
やはり、お世話になった会社や人にはしっかりと返すものは返して
何の憂いも無く新しい人生を踏み出して欲しいですね。

あなたは何を返しますか?

常識ですよね?

前にも書きましたが、急にアポ無く現れる人がいるのですが、
結構迷惑です。

確かに、そんなに、いえ、いつも暇なあたくではありますが、
それでも一応”やることはあります”、のですよ。

なので、急に来られて「社長、00さんがお見えになっています。」
「えっ!?約束あったっけ?」
「いえ、近くまで来たので顔を出したそうです。」
「・・・・・」(どういう近所付き合い?)

せっかくと言うか、目の前にいるので断るわけに行かないし、
しょうがく会うことにしますけどね。

「今日は何かありましたか?」
「いえ、近くまで寄ったのでお顔でもと思いまして・・・・・。」

小さい頃に、近所で一度家に上がると永遠とお茶を飲みながら
居続ける、はた迷惑な”おばちゃん”がいましたが思いっきりかぶります。のです。

ぶっちゃけやっこさんは、それも営業のつもりかも知れませんが、
その度に仕事を中断されるこっちとしては、かなり迷惑です。

似たような感じで、電話での訳のわからない営業もそうです。
「光なんとかがどうの」だとか「ご融資がどうの」と、たまに「何だかよく
分からない商品」を言ってきたりと。

これも本気で迷惑です。

実はあたくし”アホ”なんで、何か考えたり作業をするときは、
自分で言うのも何ですが、結構”感性勝負”のところがありまして、
自分の世界観を作るので、そのような勝手なことで中断されると
と~っても復活するのに時間がかかるのです。

もし、これを見ていて「あっ、ひょっとして”自分かも?”」と思った
方がいましたら、申し訳ないですが事前に連絡を入れてからにして下さいね。

って言うか、そう言うのって「営業マンなら常識じゃネッ?」。。。。。

精一杯やってきたらから。

昨日は、タスコ時代の社長の満50歳の誕生会を開きました。

当日は、タスコ創業時から成長期で活躍した懐かしいメンバーも
顔を出し、3次会まで盛り上がりました。

1988年にあたくしが21歳の時に、当事27歳の高田社長に
会いました。ちょうど「オペラ」というお店をオープンに向けての手直しを
カウンターに座り支持を出していました。

あたくしこう見えても「あいつはダメなら三日で辞めさせていいぞ。」と
言われていたみたいですが、何か?

まだススキノでカラオケパブが3店、しかも中心スタッフは10代後半
から、20代中盤の勢いだけの「アパッチ集団」でした。

ふと、なぜあんなに頑張れたんだろ?と、素朴に思うと
何かに飢えていた人間達が、自分が成長できる”可能性”に
出会えたからなんですね。(宝くじで1等前後賞3億円当たったようなもんです)

「こんな俺でもやれば出来るんだ!」という、今まで味わったことのない感情、
そして明確な何かがあったわけではありませんが、漠然とでしたが何の疑いも無く
「社長と、このメンバーとなら、きっと何か良いことが待ってる!」とね。

その当事、よく”ススキノ”の同業者から色々なことを言われました。
そのほとんどは、新参者が成長する過程での”嫉妬や妬み”でした。

しかし、あたくしちはま~ったく気にしてませんでしたし、
何よりも、あたくしたちの一番の関心ごとはお店に来てくれるお客さん達
でしたから、そんなの相手してるほど暇じゃありませんでしたからね。

大体において、当事の”ススキノ”の店舗オーナーの人達は
まだまだ古い慣習のままで、何年か辛抱したら独立をさせて、後は
自分で頑張れよ”バイバイ”的だったので、いつまでたっても飲食店=水商売という
地位に甘んじており、歓楽街でアルコールを扱う分どこか”裏”の仕事的に
見られておりました。

しかし、高田社長は違っていて、
「飲食業で働いている人間の幸福」を常に考えていたのです。
やはり、社長自身も「飲食業」というだけで、世間から蔑まされた経験を
持っていたからこそ、

「飲食業で働く人と、その家族が胸を張って”プライド”の持てる仕事」にしたい、
その為には「飲食業=水商売と言うのではなく”企業”にする!」と。
(当事は結構、この仕事を親に隠したり家族が親戚に隠しているケースがありましたから)

なので、高田社長は会議で事務所で店で、ことあるごとにあたくしたちに
”夢”や”目標”を語ってくれました。

なので、あたくしから見てタスコを批判する経営者の方達を見るに付け、
「何だよ、自分の幸福しか考えなくて、土地やマンションを買って
会社や店を部下に高い金で売って、後は勝手にどうぞ。」と言う、
”人の面倒を見切れない無責任な経営者”に映って見えました。

ぶっちゃけて言うと、薄野で15、6軒ほどやろうとすれば(あの人は余裕です)
今日この時点でもそれなりに成功しています、そして若い経営者や
従業員に「経営のなんたるかを教えて、水戸黄門よろしく」的な
生き方をしていたでしょう、きっと。(非常につまらない)

あっ、別に普通に”ススキノ”でやられている方に言ってるわけでは
ないですし、沢山店舗展開をするのがどうとかではないですよ、
考え方や生き方の違いもありますから、すべてが”善”ではなかったですから。

ただ、「いらんこと言うなよ。」と言うことと、
自分の可能性に挑戦して限界を決めないか、「まぁ、このくらいでいっかな?」
と、自分で限界を決めてしまうかのどちらですからね。

あたくし今でも忘れない言葉を思い出しました。(って、忘れてたじゃん!)
あたくしが”オペラ”の店長時代に、当事29歳くらいの社長が銀行か
何か偉い人達(明らかに社長より年上)三人を遅い時間に連れてきた時に

「いいですか?皆さん、こいつは僕と同じ血が流れているんですよ。」
と言ってくれたことが、とても嬉しかった。

どういうことか口では上手く説明できないけど、感覚的に何を言おうとしているのか
分かったので、その言葉がいつも頭の片隅にあります、今でも。


それから紆余曲折の22年。

その間、あれよあれよと店も増えて、東京へ全国へそして上場、そして現在。
”走馬灯”と言う言葉がありますが、面接の時からのことが正に”走馬灯”のように
そして、どこか心や頭の少し引っ込んだ所で今でも見え隠れしています。。。。。

あたくしは2004年の3月で辞めて、4月21日で6周年になる
「有限会社 丸か加藤商店」をやっています。

22年前、サンスリービル6Fのオペラで初めてのミーティングで
「今年中に店を10軒出す、そして将来は経営者を沢山作るのが俺の目標でも
あり、夢なんだ。」と、言った高田社長の座っていた席と自分の席と、
その様子をはっきりと覚えています。

果たして、
その年に見事に10軒作りましたし。現在、タスコ出身の経営者が、
それは法人だろうと個人だろうと、そんなことは関係なく、全国で自立して頑張っております。

「本当に何も無く、ただ”頑張れば、良いことが待っている!”」と言う思いだけで、
余計なことを考えないで一心不乱に前だけを向いてやっていた。

本当にそのような環境の中で働けたことに感謝します。

これからは、あたくしたちはそれを単に「思い出話し」になんかしないで、
チャレンジ精神”を忘れずに仕事をしていくこと、

また、自分達の今があるように当事経験した環境を作り、
そして部下達を、今の自分もしくは、それ以上の人に出来るように
することが、今までお世話になった人への感謝を伝えることになるんでしょうね。

でも、43歳でまだこんな感じなのに、果たして出来るのだろうか、あたくしが
いや、ちょっと待てよ?ひっよっとして、この22年間は”夢”だったんじゃなかろうか?

ファイル 590-1.jpg
ファイル 590-2.jpg
ファイル 590-3.jpg
ファイル 590-4.jpg
いや、間違いなく現実だった。。。。。


やっぱり聴きたい”この曲”

何故か泣けてくる”この曲”

果報者?

あたくしは、果報者です。
それは”スタッフ”に恵まれているからです。

先日も”欽ちゃん本店”の前が暗いと言う話をしたら、
早々に”スタッフ”が動いてくれて「看板を出して、ライトを当てる」
と言う工夫をしてくれました。

いいねぇ~、仕事が早い!!(いいぞこの野郎!)と言うことで、
せっかくやってくれたので、見に行かないのは失礼ですからね。

どれどれ、

おっー!↓
ファイル 589-1.jpg
いいねー。

逆側からは↓
ファイル 589-2.jpg
いいねー、いいねー。

よし、それでは中小路は↓
ファイル 589-3.jpg
うん、うん、そんな感じ。

逆側からは↓
ファイル 589-4.jpg

かず、つかぬ事をお聞きしますけども、
向かいの店に案内してどうすんだYO!!

追伸、万ネギに”万ちゃん”なんて付けて遊んでるくらいなら・・・・・。

それでも前に進む。

生きていれば後悔することも、切ないこともあり、
その結果、自分自身を攻めることもあります。

「どうして?こうなっちゃたんだろ?」ってね。。。。。

でも、そこで立ち止まっているわけにはいかない、
だって、いくら自分が悔やんでも、どんなに自分自身を攻めてみても
時間や周りはどんどん先に進んでいるから。

さぁ、どうする?
お前さんが、そこで立ち止まっている間に時間は過ぎていくし、
もう戻らない状況も、人も、思いも、その分動いている。

お前さんが出来ることは、ただ一つ、
「どんなに胸が張り裂けそうな心境でも、どんなに過ぎ去った日を
後悔しても、”前に進むこと”」

例え、進めなくても「進みたい、進まなきゃ!」と思うこと。

一日、塞ぎ込めばその分、お前さんの魅力も減っていく、
しかし、何でもいいから”希望”を持ち「前に進む心を持つこと」。

決して、「このまま、明日が来ないように」なんて祈っちゃダメだ。
むしろ「早く明日が来るように」と思うこと。

無限の可能性のある、明日と言う”希望”から逃げちゃダメだ。

大丈夫、落ち込んでいても、辛くても、
人の不幸なんて、あざ笑うかのように時間は過ぎていくから。

人生の限られた時間が問答無用で過ぎていく、
それでも、”お前さん”はそこで立ち止まろうとするのかい?

いま、歩き出せば必ず追い風が来る、必ず来る。

だから、今一度顔を上げて胸を張り、
今日も、明日も、その先も力強く生きていこうぜ。

それが唯一、過去の失敗や過ちといったことを引きずりながらも
少しずつ薄めていけるんだから。

本日は、今まで一緒に働いている、また、働いてきた全国にいる仲間達が
「仕事に、恋愛に、家庭に、将来に」様々なことを抱え、
今にも心が折れそうになりながらも、

がしかし、ギリギリのところで必死に歯を食いしばって頑張っているであろう
仲間達と、そして自分自身へのささやかな”エール”でした。

「生きることが辛いとか、苦しいだとか言う前に・・・・・
力の限り生きていこうぜ。」(笑)


「力の限り生きていこうぜソング!」


たまには、自然の中で”ゆっくり”楽しもうな。

”黒マグロ”に人生を懸けた男達。

これは、先ごろ話題になっていた「地中海産黒マグロ」に
思いをはせた男達の”熱い、熱い”酒場でのドラマです。。。。。


先日、”かも”のラストにカウンターで盛り上がっていたら、
誰が?いつ?何のために?そのような話になったのかは
定かではありませんが、

「地中海へ行って、黒マグロを素手で捕まえようかな。」
と、あたくし。(自分じゃん)

「マグロですか!?」
「そう!マグロ。それも地中海の黒マグロ。」

「えっ~、捕まえれますか~?」
「いける。」

「どうやって捕まえるんですか?」と、思いっきり疑いの目の中川と山内。
横でニタニタと笑っている”かも”とまったく信じてない経田チーフ。

そんなところへ、自称「家電マニア」の”田中さん”が
「いや、社長ならいけるかも知んない」と。(どんな根拠?)

「でも、素手ですよね!?」
「うん、素手。」

「どうして素手なんですか?」
「だって素手なら”松方弘樹”に勝てるだろ、350キロ以上の大物。」

「い~や、無理ですって。ぜ~ったい無理ですって!
下手したら死にますよ。」

「大丈夫だって、サメじゃないんだから。」
「マグロって早いんですよ!確か時速100キロくらいで泳いでるんですよ!?」

ここで”田中さん”が「大丈夫、80キロだから。」(って、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん)

「ば~か、作戦はちゃ~んとあるから。」(と、今さっき思いつきましたけど)
「どんな作戦ですか?」

「まずはな、黒マグロの大群を見つけるだろ、そしてそこへめがけて
黒マグロの上に飛び乗る!」(まったく作戦になってない)

「やばいですって!」
と、そこで”田中さん”が「そうだ、網でマグロを獲っていてその中に落ちた人が
尾びれで顔面を叩かれて、片目失明した人いたっけ。」

「ほ~ら、やばいですって。」
「ば~か、お前らなぁ、もし俺が黒マグロを本当に捕まえてみろ?
しかも、ドキュメンタリーかなんかでテレビ放送までされたらどうするの?」

「いや、そうなれば凄いですよね。」(意外と単純)
「なぁ、その捕まえた黒マグロをさぁ、店に送るからさぁ、それを”オススメ”で
やったら、ものすごい反響だぞ!そうだ”まぐろ屋 てまひま”という名前にしなよ。」

「マジですか!?」
「マジ。いいか、350~400キロの黒マグロだぞ!それをだぞ”素手”で
捕まえるんだぞ!全世界でこんなに話題になることはねーだろ。」
(今、冷静に考えると世界の大笑いになるか、猛烈なる非難をあびると思います)

「まぁ、確かに凄いですよね。でも、上手く行きますかね?」
「そうだな、ただの素手なら難しいからさぁ、これならどうだ?」

「どんなんですか?」
「手の先に”麻酔”の付いた指サックをして、黒マグロにまたがった時に
それを”エラ”に注すというのは。」

「・・・・・?あ~、それなら意外といけるかも?」(マジかよ)
と、その話を聞いていた”田中さん”が「社長、それいけるかも?その企画を
テレビ局とかに持っていったらいけると思うよ。」(何杯目ですか?)

「でしょう!大丈夫、ぜ~ったい成功するから。そして、成功した暁には
シャンパンでも飲みながら美女を相手にしばらくは地中海で、の~んびりして
よっかな。」

「いいですね~!」
「だろ!そうだな、やっぱりドキュメンタリーの方がいいよな。」

”田中さん”「社長、大間でいいんじゃない?大間はブランドだし」
「ダメ、津軽海峡は波が高いから。」

すると、どうでしょう、周りにいた下々の民どもは
「社長、マグロが泳いでいるくらいだから、多分、地中海も高いですよ。」と、
せっかくの”命がけ人間”のやる気を無くすようなことを言うのって。
(って、命がけの割りには”波が高い?”って何だよって感じだけど)

「あっ、そうか。」と以外にも素直なあたくし。

そういえば、昔サーフィンに出かけた友人が以外にも早く帰ってきたので、
「どうした?」と聞くと「いや~、波が高くて危ないから乗らないで辞めてきた」と
言って、その場の仲間達に「えっー!サーフィンって普通は波が命じゃん」と、
思いっきり突っ込まれていたのを思い出しました。

すると”田中さん”が「例えば、お笑い芸人と一緒にやるとかは。」
「いや、それもダメ。だって、そうなったら”世界の果てまでイッテQ”になるし、
これはあくまでも”本気で真面目”な挑戦だから。」

もうこの段階では、すっかりと”あたくし”の熱い志を受けて、周りの下々の民どもは
感動とあたくしの命がけの挑戦への思いに”共鳴”をしているようでした。

その証拠に皆の目が”清々しいまでの眼差しで、遠くを見つめるように”、
あたくしの話に耳を傾けており、まるでその遠くには、地中海であたくしが
”素手”で黒マグロを捕まえている姿が浮かんでいたのでしょう、きっと・・・・・。

あたくしはと言うと、既に黒マグロを捕まえることに成功して、
海辺のホテルのテラスから夕陽をあびながら、シャンパンを手にしている
姿がありありと目の前に広がっておりました。。。。。

そんな余韻を吹き消すような言葉を、またまた下々の民から上がりました。
「でも、マグロって群れで泳いでいるんですよね?その中に入って捕まえるのは
やっぱり難しいんじゃないですかね?」

でたよ、何なんでしょうかね、この正月で”すごろく”いえ、ここは”人生ゲーム”
にしておきますが(別にこの際どっちでもいいけど)、ゴール目前で
「振り出しにもどる」が出たような感じにさせるのって?

だからあたくしは、そのような質問が来た時の為に大切に温めておいた
究極の解決策を言い放ってやりましたよ、ええ、それもしっかりと。

「それは大丈夫。大群の一番後ろを狙えばいいから。」
(えーっ!?それだけ!!)
「・・・・・。」

これはヤバイ、あまり説得力がないと瞬時に気付いたあたくしが
次に言い放ったのは「実は、確実に上手く行く作戦がもう一つ。」
「えっ、何ですか!?」

「それは、黒マグロにまたがった時点で振り落とされないように、且つ
その時にもダメージを与えるために、ウェットスーツのお尻とマタの所にも
先ほどの指先の麻酔のようなモノを付ける!!」

「ほう~、それはいいかも知れませんね。」
「だろ!またがった時点で黒マグロにお尻と両マタから”麻酔”を注入、
そしてとどめは、指の”麻酔”でエラにグッと!」(フゥー、良かった)

「いいか!俺は本気だからな、ほ~んとうにマジだから。
田中さん頼みますね企画の方。」

「分かったよ、社長。」と”田中さん”・・・・・。

と言うことで、温泉卵に続いて「かも」のラスト日なのに
ま~ったく「かも」には関係の無い酒場の会話になって終わりましたとさ。。。。。

ず~っと横で、笑いながら聞いていた”優子ちゃん”があくる日のメールで
「その話をしているみんなの顔見てたら微笑ましかった」と。

そうです!男は”ロマン”です!
そう、幾つになっても「夢や目的・目標に向かっている男は、いつまでも
輝いている」と言うことだよ。

こんな作戦↓
ファイル 587-1.jpg

ファイル 587-2.jpg

意外と本気ですけど、何か。
唯一の心配は、この”トップギア!!”を見た人が先にやったらどうしようか?と。

やるか!!

  • 丸か加藤商店スタッフブログ
  • 丸かの前進!前進!トップギア!!-加藤商店のブログ-