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周辺時事。

最近の周辺では、

1、「傳助」が9月20日で無事一周年。

そうです、西10丁目にある「傳助」が一周年を迎えたのです。
前の店が7月30日までの営業で、取りあえず8月1日に開店
と、今は亡き、じゃなく今は社長の西舘部長に指示したのですが、

結局、どこでどうなったのか9月20日の開店になりました。まぁ、
あのまま8月1日にやっていたら、とんでもない事態になっていた
ことは間違いなく、そういう意味で言えば西舘部長の天性の「いい加減さ」
に救われたかも知れません。

これからも「藤田」頼むぞ、「傳助」も「西やん」も。

2、そば・やき鳥 円山「古今(ここん)」祝開店。

9月24日に以前タスコで一緒に働いていた「川崎」が、この度
めでたく円山に「そば居酒屋」を開店しました。

何を隠そう(隠しても仕方ないけど)彼は「高田屋」の立ち上げメンバー
の一人で、1995年8月に「高田屋北4条店」のオープンスタッフでした。
それから、札幌で高田屋を5軒立ち上げて東京へ行き全国の高田屋の
直営、FCの店舗展開に活躍した人物でもあります。

現在は宮の森にある「都留」という料理屋さんもしております。
顔は「熊のプーさん」のようで、それで女性を油断させるのが得意技
でもあります。

大通り西26-2-10 オ・ドミール円山公園1F
011-622-4755 年中無休 
11:30~15:00 17:00~23:00 P7台
全58席 個室全10席  川崎にあたくしの名前を言ってもらってかまわないです
よ、でも「あたくし」からの紹介ではなく、その時は「かとう」ですからね。

3、「てまひま祝4周年」。

わが「てまひま」が今月で4周年になります、「てまひま」は丸かになって
から、初めて立ち上げたお店でもあります。創業にあたり「タスコ」から
4店舗を運営委託しておりましたので、事実上「てまひま」が丸か
名義の初店舗でもありました。

会社も「てまひま」の奥に作りなんだか「やっと独立したのか」との思い
でした。昨年の「縁・JOY(現ハングリーぶぅ!)」が出来るまでは
細川部長が2階に住んでもおりました。3世帯住宅です。

新メニューと、
昨年から3月までとても人気だった「温泉湯豆腐」も復活して、秋の
夜長をお酒と料理で楽しみにいらして下さい。

あたくし流「温泉湯豆腐」の楽しみ方は、温泉湯豆腐を食べながら
その豆腐から出てきて白濁して豆乳のようにな旨味スープを焼酎で
割る「湯豆腐割」が結構いけます。

その後にキノコを入れて雑炊にするもよし、チーズをいれて「リゾット」
にして食べてもすごく美味しいです。豆腐をあまり好まないあたくしが
唯一、?そっか「ぼんち」の豆腐も好きなので唯ニか?

まぁ、いいや、「豆腐」が美味しいな~と感じたのですから一度食べに
来て見て下さい、それにしても不思議です、あんなに美味しいのに
もっと宣伝すれば良いのに・・・・・。

ちなみに「ぼんち」が出てきたので、少しだけ説明をします。
ススキノの「自由の女神」の迎にある店です(これで分かった人は、
ちょっとした遊び人の金さんですよ)。

焼鳥屋さんで、お父さんと息子でやっております(以前はお母さん
もいたのですが)、中々渋いお店で、もう40年くらいやっています。
そこの豆腐を食べた時に「ムムム!」旨い、

となり、「おさむちゃん」へじゃなかった「ぼんち」へ行くたびに豆腐を
頼むようになりましたが、ある時に発見をしてしまったのです、
なにをって?

はい、薄くらい店内に白い豆腐の上でキラキラと光る「結晶」をです。
不思議に思い、試しにその結晶を箸の先にくっつけて食べてみた所
小さいのにその結晶はたちまち口の中いっぱいに旨味成分が広がり
昔、爪楊の先につけて虫歯につめてもらった味の記憶が蘇りました。

それは紛れもなく「明日の元=味の素大先生」だったのです。
「そうか、わかったぞ!どおりでおとうさん豆腐を出す時に背中を向けて
一所懸命に何かをふりかけていたんだ」

「そうか、この日本が誇る万能調味料の仕業だったのかー。」と思わず
日本の技術力と頭が馬鹿になるんじゃないかとたっぷりと味の素をふり
かけるお父さんの潔さに妙に感服した酒場のひと時でした。
「てまひま」のHPですよ。

時代遅れな奴です。

ここ最近、また「精神論」を口にするようになった。
辞書には「物質的・現実的なものよりも精神的な
ものを優先して考える立場」と書いてある。

正直言って最近は「精神論」とか「根性論」とか
言うのがなんとなく嫌だった。世間一般でもどちらかと
言うと「ネガティブ」に捉えられる傾向にあるし、

自分自身も、「そんなのでうまく行くのなら苦労しない
よ」、なんて考えていた節もあった。

しかし、元来あたくしは「スーパーヘビー級並で多分
7回くらいは防衛できる位の精神論者」であり、且つ
「浪花節だよ人生は」的な人間で、

第17回(1984年)~第19回(1986年)の日本有線
大賞の「アジアの歌姫ことテレサ・テン」には敵わないが、
相当いい勝負は出来るほどの実力は兼ね備えていると自負
はしている。(ヤバイ、また横道にそれて話が長くなった)

義理、人情、礼儀、躾、道徳と言うことにはとてもうるさく
、そしてかなり厳しい。しかし、それも自分に都合のいい
ようにだが。(ペシッ!)

んでもって、ちょっと前位から(二日前)、しばらくそんな
うるさいことを言わないようにしていた自分が、周期的
なものなのか、突発的なものなのかは知らないが、しつこい
ようだけれど二日前くらい前から急に目覚めてしまった。

きっと、どこかで相当我慢をしていたのだと思う(こんな
あたくしでも)、ただ、「精神論」と言っても「気合と根性
があれば何でもできるんだ!」とか、

「貴様ァー、それでも帝国軍人か!歯を食いしばれ!」的
ではなく、あくまでも仕事の姿勢に対してです。(自分的には)

なぜ、ここ最近(二日前から)そうなったのかと言いますと
、9月20日のトップギア!で「あの頃の匂い」という題で、
あたくしが「オペラ時代」を思い出したからだと思います。

別に昔は良かったとか、あの頃の自分に戻りたいとか言いたい
訳ではないけど・・・・・?いや、やっぱり良かったし、戻りたい。
まぁそれは置いておいて、普通にみんな凄かったな、と思って。

皆、まだ若く(あたくしも22歳)、18、19、20歳の若輩者
達がしっかりと礼儀や躾、義理、人情(残念ながら道徳は・・・・・?)
を持ち合わせておりました。

でも、ほとんどの子たちは最初からそうではなく、日々の体験
を積んで数ヶ月でそのように「たくましく」なって行きました、
よく、「男は・・・・・」とか「人として・・・・・」とか「生き様とは・・・・・」
と、二十歳前後の奴らが真剣に熱く語り合っていました。

よく、「精神論」がネガティブに捉えられるのは、それはただ熱い
話で終わるか、自分のことばかり話しているからなんだと思い
ます。

あたくしも、なぜ最近まで敬遠していたかと言うと、自分でも
気づくと「自分の昔の話ばかり」になっていたり、話す相手が
15歳以上も離れていて、熱く語れば語るほど「えっ?この人
いつからヘブライ語を憶えたの?(多分、ヘブライ語という言葉
さえ知らないだろうけど)」位の勢いで、

股間に、じゃなく眉間にしわを寄せて聞いているので、逆にこっち
が段々と冷めて来るといった、とても切ない自己嫌悪現象に落ちる
くらいならその子の上司に頼もうとね。

でも、それじゃダメなんです、やはり小さなことでも大切なこと
はあたくしが伝えるべきには伝えないと。これを部下に任せている
気になっているうちは、会社の目指す「あるべき姿」にはなりません。

そう思い、現在「たかちゃんの熱く語る委員会」を発足をして(今、決定)
年内キャンペーンをやります。(長い?)

あたくし、以前の会社では中途半端になってしまった「人」を
中心にした「強い人、強い店」そして「強い業態」を目指して
います、ええ。

それでは「強い人、強い店」とは、極論を言いますとお店は「イス、
テーブル、電球があれば、水を出してもお客さんが来る」ことです。

それくらいに「人の魅力」でお客さんから指示される「人・店」になる
のが理想なんです。例えば、あたくしが店長をやっていた「オペラ」
と言うお店は「死に物狂いでやってます!」と言うだけあって、

細川部長(ちなみに、度々出てくるこの人は女性です、一応)を
はじめ、本当に真剣に本気だった、それは仕事=自分との闘い
だったから、そしてお客さんとはある意味において喧嘩なんです。

喧嘩?そう喧嘩です、自分との闘いと言いながらお客さんとの喧嘩
なんです、その喧嘩の勝ち負けは「お客さんが楽しんで喜んで帰っ
たら勝ち」逆にクレームまで行かなくても、「ああ、あのお客さん楽しませ
られなかったな~、ちょっと暇そうにしてたな~となったら負け」。

馬鹿なようですが、このような感覚でみんな「お客さんを楽しませて
喜んで帰ってくれることが、自分の喜び」でもあって本気でした。多分、
これを見ている、その頃のお客さんなら知っているはずです。

カラオケ・パブ(死語?)だったので、接客がメインですがカラオケは
皆で手拍子とかで盛り上がる武器です、しかし、一度金曜日(当時
は花金)に停電になり、店内は真っ暗で当然カラオケも使えません、

しょうがなく「ロウソク」で営業をして、「あぁ、せっかく盛り上がって
いたのに、お客さん帰っちゃうな~」と思って、スタッフ一同全卓に
謝りに言ったら、信じられない言葉をもらいました、

「いいよ、いいよ、たまにはこんなオペラもいいじゃない」と、ロウソクの
灯りの中、まるで小学生が夏休みの学校に泊まった時のように楽し
んでいました、

それだけではなく停電なのに、次から次へとお客さんがお店に入って
来るのです、入り口で事情を説明すると皆口々に「でも、皆いるんでしょ?
店もやってるんでしょ?」と言いながら。(ここで言う皆とはスタッフのことです)

あたくし思うんです、時代が変わったわけでもなく、若い子が悪い
わけでもなく、精神論が古くなったわけでもなく、ちゃんと伝える側が逃げ
ないで真剣に伝えるべきことは伝える本気さが大切なんだと。

いい立地に恵まれることも結構、内外装が格好いいのも結構、流行の
料理を提供するのもいいでしょう、それらは否定しません。

しかし、あたくしは思い続けます、「やはりベースは強い人・強い店」だ
ろうと、何もなくても「いいよ、いいよ、今日は水で」と言いながら1000円
札を置いていく魅力ある人と店。

それが出来て初めて「強い業態」が出来るんじゃないかとね。

ティナ・ターナーかとうでした。

あたくし月寒で髪を切ってます。

本日、「徳太郎」で会議を終えた後に髪を切りに
行ってきました。

月寒にあるので東豊線で月寒中央下車です、もう
かれこれ20年通っています。そこのマスターはあたくし
と同じ年で「オペラ」の店長をしている時にお客さんと
して来店した時に意気投合して通うようになりました。

会った時は「アルカポネ」と言うお店で砂田ビルという街の
中にあり、その後「アルカポネ」がパルコの中小路にあるパレード
ビルに移りました。

元々はお母さんが実家の月寒で長らく「理容院」を営んで
いられまして、そめちゃんがその場所で自分で商売を始め
たのです。

まあ、このそめちゃん、昔から飲むと「ハイテンション」になり、ある意味
兵(つわもの)ぶりを数々と発揮なされる御仁で、エピソード
には事欠きません。

1、ビアガーデン軟派事件。
当時は二人ともまだ若く、よく飲みに行ったりしていました、
ある時、「かとうくん、ビアガーデン行かない?」 「いいよ」
「そんでさぁ、せっかくだから軟派しようよ」 「いいよ」

「そめちゃん、どこのビールにする」 「かとうくん、違うよ、それ
を言うなら、どこの会場に女性が多いかだよ」 「わかった」
と言うことで、本来の「大通り納涼ビアガーデン」の主旨とは
まったく違う目的で楽しもうと。

「かとうくん、いないねー」 「そうだね、でもさぁ別にビールを
飲むだけでもいいんじゃない?」 「ダメダメ、なに行ってんの!?
せっかくの納涼ビアガーデンなんだから!」と意味不明なことを言い、
「ここはダメだね、かとうくん次行こう!」

って、あーた、まるでススキノではしごするかのように「ここは、いいの
いないねー」と、隣の会場へ移り「なんか出会いの予感」などと
ほざきながら、野獣の匂い「プンプン」とかもし出した二人が
結局仲良くなったのは、

カナダ人でした、しかも「男」。

話の顛末は、あたくしたち二人が必死で女性が来た時のために
席を取っていたら、一人の外人が心細そうに席を探していました、
それを見た、そめちゃんが「かとうくん、あの外人席がないんだよ、
可愛そうだから、座らせてあげようよ」

と言うことになり、そめちゃんらしかならぬ発言だったので少々
戸惑ったのですが、あたくしも、その外人を見て迷っていたので
「そうだね」と言うことになり、三人で盛り上がっていた頃合いに
そめちゃんが、

「そろそろいいかな?」と言うではありませんか、「何が?」と聞き
直すと「だから、かとうくんこのカナダ人を使えば、女はバッチリ
なんだから」・・・・・。 どうりでおかしいいと思った。

その2、懐かしい小樽ドリームビーチの思い出。
「プップー、そめちゃん迎に来たよ」 ガラガラと2Fのアパートの窓が開き
「えっ!?かとうくん本当に行くの?」・・・・・、前日も何度も電話して確認
したのに、しかも携帯のない時代に。

「行くよ!」 「でも、雨が降りそうだよ、かとうくん、ほら、山の方が
曇ってるでしょ。」 「いいから準備してよ」・・・・・。

「かとうくん、今何時?」 「8時」 「まだ海の家、開かないのかな~」
「・・・・・、そめちゃん、取りあえず海の家開くまで車で寝てよう」
「だったら、もう少し遅くても良かったんじゃない?かとうくん」
(どうせ遅くても来る気なんて無かったくせに)

「そめちゃん、開いたよ海の家」 「よーし、まずは飲もう!!」グビグビ・・・・・。
「かとうくん、やっぱ海はいいねー、天気も良くなってきたし」
「そうだね・・・・・。」

「かとうくん、日に焼けよう!」 「そうだね」 「その前に、もう一本」
「大丈夫、そめちゃん?そんなに飲んで」 「大丈夫だよ、海だから」
「・・・・・。」

しこたま飲んで何時間が経ったのでしょうか?その日は以外と風が
強くて、障害物で風が来ないように寝ていたのですが。。。。。

「うわー!かとうくん起きて!起きて!」 「うわー!なんだこれ!」
二人とも日に焼けながら全身砂まみれで体の三分の一は砂で隠れて
いました。

「ハハハハハー、かとうくん、ヤバイヨ!!取りあえずビールでも飲もう!」
「そめちゃん、先にシャワーじゃない?」
「ダメだよ、そんなことしちゃ、またとないチャンスなんだから、ほら、かとうくん
あそこの二人、こっち見て笑ってるよ!」

するとそめちゃんは驚くべき行動に出たのでした、「ねー、そこの彼女~!
見ての通り、俺たち動けないのでビール買ってきてくんな~い!」

もちろん、だ~れも、あたくしたちに近づいては来ませんでした・・・・・。
そめちゃん曰く「かとうくん、砂が足りないのかな~」

「そめちゃん、もう帰ろ。」

ラスカルな日曜日。

昨日、「なのはな」へ行きました。基本的に「なのはな」は
日曜は休みなのですが、上海スタッフの「経田料理長」と
ホールの「綾子」二人で営業をしてくれました。

営業すると言うのは聞いていたのですが、昨日、「上海」
へ打ち合わせに行った時に、「今日、経田さんと綾子が
なのなはで営業しています」、

と、まるで「もちろん行きますよね」的な空気を感じたので
、「そうだな~、日曜でお店が暇だったら少しでも売上に
貢献しよう」と思い行ったのですが、お店はそれなりに入って
おり、

一応、座ってビールと餃子を頼んだのですが、何となく
手伝う雰囲気になったので、「元スーパーアライグマラスカル」
のあたくしは洗い物&買い物をやらせていただきました。

「なのはな」で働くのは初めてなので、勝手がわからなく
途中、山内に電話で聞いたりしながらやりましたが、あの
位の規模のお店は一体感がでるので楽しいですね。

それに、日曜なのに結構お客さんが途切れなく来て頂き、
「あれ?これって、もしかして日曜も普通にやればいい感じじゃない?」
なんて、思いつつ「ラスカル」はグラスと皿を汗だくで洗っておりました。

しかも、「常連さん」も顔を出していただき、本当にありがたいな~と
感じつつ、「いつまで、洗い物するのかな~」と「ラスカル」をしてました。

それでも、「経田さん」は「もう、そろそろいいですよ」と言ってくれる
のですが、「綾子」は「まさか、もう終わり?まだ手伝ってくれる
んですよね」と言う空気を撒き散らしていたので、

「やはり、女っていう生態系は図太くないとやっていけないん
だな~」と生命の神秘さの中で「ラスカル」になっておりました。

28日の日曜日も、上海スタッフで営業するので皆さんも
時間があれば来て下さいね。働いているスタッフのご迷惑
でなければ、あたくしも「Tシャツ」なんぞを着て働いちゃおう
かな~、「ラスカル」担当ですけど・・・・・。

時計を見ると20:30分、良かった念のために「篤姫」録画
しておいて。
「なのはな」です。

スタッフとの出会い(規夫編)。

あたくしが規夫(欽ちゃん、徳太郎担当)と初めて
会ったのは、「しゃかりき屋メトロ店」です。

当時、そこの店長で「荒城堅治(あらきけんじ)」と
いう人物がいまして、規夫はその堅治の調理師学校の
同級生ということもあり、お客さんとしてお店に来ていたのです。

その当時、規夫は「ケーオープラザホテル」で洋食のコック
をしていました、あたくしはと言うと事業部で「大東京、
クラック、ハリーズ・ベイ、しゃかりき屋メトロ店」の責任者
だったこともあり、「しゃかりき屋メトロ店」へ行った時に二言
、三言声を掛ける程度でした。

その後、規夫の親友でもある「堅治」が1号店でもある
「しゃかりき屋ニュー北星店」を統括することになり、触発
されたのか、

それとも居酒屋の方が「女性と知り合う機会」
が増えると思ったのかは知りませんが、規夫も入社することになり、
そのまま「ニュー北星店」で働くようになったのです。

当時の規夫の印象は、仕事が終わったり、飲んだ後には
コンビニに寄って夜食ならぬ朝食を買い、必ずレジ脇にある「Wシュー」
をまるでマックの「ポテトはいかがですか?」のような付録のように
買っていたことです。(やはり元洋食の人間としてデザートはつき物ですから)

ん!?、いやこれだけなら、ただの「食いしん坊万歳」の太った梅宮辰夫さん
になってしまいますので、まじめに規夫との一番の思いでは「あれはー、忘れもしない
、えっと・・・・・」(忘れてるジャン!!)

そうでした、「しゃかりき屋」を無くし新しく「暖中」を立ち上げる時に、
規夫が「俺、この店買って独立します」と言ったことです。
(当時、規夫はメトロ店で繁盛していました)

あたくし、思わずお店のテーブルをひっくり返して、朝青龍ばりに
武蔵丸のような規夫に張り手をしてしまいました。(のりゴメン)

悔しさと、寂しさが込み上げてきたんです、堅治と規夫含め「しゃかりき屋」
3店舗のスタッフたちは本当に「しゃかりき屋」が好きでした、でもいくら好き
でも、会社としては業績と今後の方向性を考えての判断です。

今まで愛着を込めて信じてやってきたことが、いくら会社の方針と
はいえ、そこで働いているスタッフから見ると辛いことです。いつもは
そんな規夫を叱る堅治も二人のやりとりを黙っているしかなかったのでした。

それは、規夫の気持ちは「堅治」の気持ちでもあったからです。あたくしも
辛かったし責任を感じていました、だから何とか「しゃかりき屋」を残そうと
色々とやりました、

当時、「高田屋」が調子が良く、「なんだよ、ランチからやる業態がそんな
にいいのかよ、何がそば居酒屋だ、なぁ、みんな、よし!それじゃ、そば
居酒屋に対抗して、うどん居酒屋しゃかりき屋っていうのはどうだ!」

とか、何とか残そうと本気で考えていました。今から思うと「そんな問題じゃ
なかったんです」。当時は「マンパワー」だけではなく「業態」として運営が
できる「安定」した業態に移行していった時期でもありました。

だから、悔しかった、みんなの思いを考えたら余計に辛かった。でも、心のどこ
かで「確かに、このままだったら先細りだよな」と自分自身先が見えていなかった
のも事実です。それでも、必死であがいていました。

社長の言葉で「かとう、それはお前の意地か?その意地で可愛い部下達
をこれ以上、辛い思いをさせて不幸にするのか?」と言われ、無性に腹が
立ち「俺たちだって、ランチからできる店をやらせて下さいよ、高田屋のような
1Fの路面店でやらせて下さいよ、そうなったら俺たちは絶対に負けませんから」

と、いま思えば「高田屋」に対抗心を出すことで自分達を正当化してたのです、
どっちみち今の現状でダメ店が「あそこの立地なら」とか「時間帯が」とかの話をする
時点で、ただの「意地」だったんですね。(本当は社長の言葉だけではなく、自分
に一番腹が立っていたんです)

それでも、「メトロ店」だけ残して「しゃかりき屋」スタッフは新しい業態の「暖中」
を立ち上げることになりました、この時点では、と言うか、これを書いていて改めて、
まさか周りからも当の本人達も期待してなかった業態があのように繁盛店になる
なんて今でも不思議な思いです。

その後、規夫は東京で「暖中」を展開するということで東京へ行き、
何だかんだと約5年ほど「Wシュー」を食べる暇もないくらいの忙しさで、東京で
活躍をすることになりました。

2003年、11月5日に堅治が「くも膜下」で倒れ、17日に「永眠」し、
その辺りから何かが終わった気がしたあたくしは辞めることを考え始めたのでした。

それで翌年、最初は創業なんて考えてもいなく、誰も知らない場所でひっそりと
一人で「喫茶店」をやろうと考えていました。辞める日が近づいて現実感が増して
来て「ん?多分一人でやっても最初はいいけど、半年もするとダラケてくるし、寂しいよな」
と思い、

「焼き鳥屋かホルモン屋でもやろうかな?でも、料理できないし、憶えるのも
面倒だし、あっ、そうだ!規夫を呼ぼう!!」となり、何とも自分勝手な考えで
、しかも資金もあてもない中で規夫のいる東京へ会いに行ったのです。

規夫本人も、あたくしから電話で「話がある」と言われて、なんの話か大体
分かっていたと言っていました。それで二人でホルモン屋でも・・・・・、「待てよ、
のり、多分俺たち二人だけでやっていたら、十分過ぎるほど意志の弱い二人な
んだからダラケるし、寂しいよな」、

と言うこととなり、あたくしが当時兼務していた「上海月、暖中サイバー店、
上海月伏見邸、青春の輝き」で創業することになったのです。

だから、規夫があの時「本部長(当時)、俺は東京でモデルと出会い
結婚するために残ります!」なんてことになっていたら、(有)丸か加藤商店
はなかったのです。

そうだ!、いま改めて気がついた!「規夫をありがとう!!」、感謝。
これが規夫との出会いと思い出と、こんにちです。。。。。

それでは皆様に、ここで規夫からのプレゼントです。

規夫の「Wシュー」の所で思わず笑った人には、もれなく規夫から
「欽ちゃん」「徳太郎」に行って「思わず笑ったよ!」と言ってもらえれば、
ワンドリンクサービス、しかも「Wシュー」まで持っていってくれたら、

もれなく、縁起の良い規夫の「太鼓腹おさわりサービス」を実施中です、
思わず笑った人や最近、あまり調子がよろしくないと思う方は願ってもない
チャンスですよ、しかも「Wチャンス!」ぜひこの機会にどうぞ!
(期間、9月20(土)~9月30日(火)まで)
*「徳太郎」の場合は「えびちゃん」になります。
*何度も書きますが「赤い文字」は「Aクリック(Aクイックにかけてみました)」ですよ。(ヤバッ)

あの頃の匂い。

昨日、浩太郎と尚吾とで店を見に行き、
色々な意味で参考になりました。

その帰りに、あたくしが初めて店長を務めた
サンスリービル(南3西3だから)の6Fの「オペラ」
のあった場所(行った店が近くだったので)へ一緒に
行って外から覗いてきました。

サンスリービルのエレベーターに乗ると、そこは21年間変わ
らない独特の匂いがして、多分当時としては画期的だった
のだと思いますが、エレベーターから外の景色が見えるのです。

出勤の時にエレベータに乗り大体2F位から、6Fの一番奥に
あるはずの「オペラ」からお店の賑わいが聞こえてきて、そうなるると

「ワクワク・ドキドキ」して「よーし!店が俺を待ってるぜ!」
と胸を躍らせていたものです。(なぜか心地良い緊張でウンチもしたくなりました)

あたくしにとってお店は「人生」そのもので、いつも全身全霊
で頭のてっぺんから足のつま先まで、「前進、前進、トップギア!!」
そのものだったのです。

この「トップギア!(ブログとは言わない)」を見ている多くの人は
丸か加藤商店か、タスコシステムの時の中期(高田屋が出来た頃)
か、あるいは暖中とかを展開して東京へ行き「上場」した
あたりくらいだと思います。(しげちゃんやヒトシさんあたりは生き字引です)

でも、本当のタスコのファンや一番良かったという人はススキノを
中心にカラオケ・パブ(オペラ、2001、クラック)やバー(クール、
ハリーズ・ベイ、サントリージーガーバー・ドラゴン倶楽部)、

女性店(ソウル・トレイン、クラブタンゴ)、居酒屋・レストラン
(大東京、しゃかりき屋、祭りや)があった初期当時が一番楽しかった
んじゃないかと思います。

みんな輝いていました、スタッフもお客さんもね。

「オペラ」のあった場所は現在「ダーツバー」になっていました。
大切に使って欲しいです。

あっ、そうそう、6Fに着いて最初の行為が廊下にある共同トイレ
に入り「おしっこ」でした。あたくし思うにあそこトイレがススキノで
一番落ち着くトイレだと思うんですね。(なんせ汗と涙とゲロが染み
付いている青春のトイレですから)

「オペラ」の隣にスナック「暖」というお店があり、ママとえっちゃん(と言っても
今から思うと、今のあたくしよりも年齢は上だったと思います)、と
もう一人のホステスさんがいて結構繁盛してたんです。

いつもお客さんの歌に合わせて、ママやえっちゃんがお客さんと踊る
役で時には廊下まで出て踊っていました、でも見たんです、なにがって?
ママが踊りながらお客さんの「オチンチン」をさすっていたのを。(笑)
(これも繁盛の秘訣です)

帰るときに、浩太郎と尚吾に当時どのようにお客さんをお見送り
していたかを実演しました。

1、まずは元気にお見送りをして、お客さんをエレベータに乗せて、
一度閉まりかけたドアを開きます(今ではどこもやっていますが、オペラ
スタッフが元祖です)、油断しているお客さんは当然驚き次の瞬間は
大爆笑です、これを2回ほどやります。

ここで、ふたパターンありもう一つは、元気よく「ありがとうございました!」
と言いながらエレベータのドアに頭を挟めます。(これも類似品にご注意してください)
ツワモノは両方やります。

2、次にエレベーターのドアが閉まった瞬間に階段を猛ダッシュして
お客さんより先に1Fに着いて、そこでとどめの「ありがとうございました!」
とやります。ここでもツワモノは、「いらっしゃいませ!」と言いそのままお客さんを
お店に連れて来ます。

さすがに、今のあたくしがやると心臓麻痺で「危険が危ない」ので、
今回は浩太郎に代わってもらいました。それにしても、いいだけ
飲んで声を出して動いて、一日何回もやっていたのですから、今
考えると恐ろしい店でした。(だからお客さんもツワモノが多かったしね)

あの頃は、あたくしたちには何もありませんでした。路面に面している
目立つ立地も料理人が作る商品や流行の内装も、ただ、みんな自分の
可能性だけは信じていたんです、

「このまま一所懸命にやっていれば必ず何かいいことがある!」って、ただ
それだけを信じてくる日もくる日も「精一杯お客さんを楽しませよう」と、
立地とか商品とかデザインという武器を持たずに自分の身ひとつで。

一度、「イエローページかすきタン」にこのように紹介したんです、
「死に物狂いでやってます!」って、そしたら初めて来たお客さんが
「雑誌に死に物狂いでやっているって書いてたけど、本当に死に物狂いだね」
って驚いていました。(笑)

もう一度あの頃に戻ったら、同じ仕事を選びますか?と問われれ
ば迷わず「もちろん!」と答えます。ただ、今「オペラ」をやるか問われれば
答えられません、それは人がいなからとか会社の方向性とは違うから
と言う理由で「二度もオペラを投げ出し裏切る訳にはいかないからです」。

それと、やるとなったら簡単に人任せに出来る店ではないから・・・・・。

あたくしも細川部長も大好きな歌を紹介します、この歌の
特に「あの頃は なにもなくて それだって楽しくやったよ」と言う歌詞を
聴くたびに思わず涙ぐんでしまうんです。

それはあの頃を語るときに、この言葉がすべてだから。

そうですよね「社長」。

それにしてもいい匂いだったな~、あのエレベーター。
でも、少しだけ覗いた店は今でも優しく迎えてくれそうな、そして待って
いるような、そんな自信をおこさせる感じがしました。。。。。
この歌、出来れば音声を出して聴いてください。

戦慄の朝(番外編)。

ハァハァー、「すびません、札幌駅まで」
(息が切れすぎて、すみませんが、すびませんになった)

「急ぎですね、少しとばしますよ」「こういうのは慣れておりますから」

「おぉぉー!!これは以前にも書いた運転手さんばりにヒーロー誕生か!」
と、胸が踊るさんま御殿。

「北口と正面どちらにします?」

「えっ!?慣れてんじゃないの?慣れてたらどっちが早いか分かるよね」
と心でつぶやく。(少し不安)
と思いつつも気を取り直して、「どちらでもいいので早く着くほうへ」

「分かりました、それでは正面にいきます」

「ここの信号はね、流れに乗ると引っかからないで行くんですよ」

「そうですか」。やっぱり頼もしい。(運転手さん少しでも疑ったあたくし
を許してください、と心でつぶやく)

「ほら、信号で止まってそこから曲がればまた信号でしょう、だから真っ直ぐなんですよ」

「はぁ~?」って、あたくしも車乗るし、そんなの当たり前じゃん、と
心のつぶやき。って言うかー、流れのいいはずの信号に既に引っかかってるしー。
(若いお姉ちゃん風に)

引っかからないと一本で行く信号と言うのは、一度でも引っかかると、ことごと
く引っかかるもので、とうとう運転手さんは無言になり、気まずい空気が
車内に充満しておりました。

その後、札駅に着いたのはいいのだけれど、運転手さんは札駅という地名に早く
着く方が目的となり、かなり前で降ろされて「いい感じで走らされました」・・・・・。

今回の運転手さんは「ヒーロー」には慣れなかったのですが、結果、間に合ったの
と、気持ちを汲んでくれて危険をかえりみず「とばしますよ!」と言ってくれて
色々と努力してくれたので、

運転手さん!あなたは「準ヒーローに決定!!」。今度は頑張ってよ!(また寝坊する気かよ)

でも、本当に間に合って良かった。

戦慄の朝。

本日、日帰りで東京へ行って来ました。
(って行っても最終で帰って来て書いてるので昨日
になりましたが)

11:35分千歳発の飛行機だったので、前の日は
早く帰って万全の体調で行くはずでした、欽ちゃんへ行くまでは・・・・・。

その前に徳太郎に行き、気になる商品を試食して、
ついでにかる~く麦酒などを3杯飲んで喉を潤し、

色々と思いつき、「ん!?」そうだどうせ浩太郎に言っても
「ヌカに釘」なので規夫に言って来ようかな~、
どうしようかな~と迷いつつも、あたくしの迷いとは裏腹に、
あたくしの「足」が勝手に・・・・・。

「あら!どこ行っちゃうのこの足は?ダメですよ、今日は」
「あれ!一丁目側の信号渡っちゃったよ、この足は。しかもご
丁寧に欽ちゃんの常連さんでサンクスの中野君に手なんか
振っちゃって、ご機嫌だね~」、

「明日は飛行機に乗るからこれ以上お酒は飲めませんよ、今日は」
「なに、階段上がっちゃったよこの足は」「あ~あ、とうとう店に入っちゃった」

と言うことで、「おう!麦酒ちょうだい」となり、
すっかり飛行機のことなんか気にも留めずに、常連の「まいちゃん」と
「健康パンプス」で一儲けしようだの、久しぶりに会った人に偶然に
二人も会ってしまい、

気がつけばいつものあたくしになっており、いつの間にかカウンターの
中にまでいるあたくしはすっかり「マスター」気取りで会話に夢中になっ
ておりました。


あたくし起きる寸前に電車を待っている夢で目が覚めました、
ええ、待合室で。

ん!?あれ!?10:00!?え-っと、昨日の作戦では11:35分の千歳発
なので、そこから逆算すると札駅は10:25分のJRにの・り?

「なに-!このクソ目覚ましのヤロ-寝坊しやがって-!」
・・・・・、・・・・・、・・・・・、・・・・・、・・・・・。
「お客様、Uシートのチケットはお持ちでしょうか?」
「いえ、頂きたいのですが」・・・・・。

奇跡です、起きてから22分で電車に乗っておりました。
もちろん日課の体脂肪付きの体重計も腕立て伏せと腹筋も
省略させて頂きましたが、ちゃんと歯も磨き、シャワーにも入り、ヒゲも剃りました。

浩太郎、人間はな、何事も諦めないでやることが肝心なんだ、わかったか。
要は、ここ一番の「集中力」と「執念」、それと日頃の鍛錬、
それと毎回欠かさず見ている「篤姫」のお蔭だ!(なんだそりゃ)

えっ!?何時まで欽ちゃんに居たかって?

確か、店を出たのが3:30。

20年前のあたくしよ。。。。。

最近、このように思うことが度々あります。
20年前の自分にいま逢ったら何て声を掛ける
のだろうか?と。

皆さんは、何て声を掛けます?(あっ、まだ生まれて
ませ~ん、と言う人はとっとと退場してくださいね)

決めた!38歳以上限定に・・・・・。(すいません、馬鹿で)

よく、「もう一度、あの頃に戻れたら」なんてのはあります
が、あの時の自分に逢って、飲む機会やゆっくりと話す
機会があって、恋愛や仕事、将来について悩んでいたり、

別に悩んだり迷ったりしてはいないけど、バッタリ20年前
の自分にあったら何て言うのかな~ってね。当然、向うは
まさか20年後の自分になんて気づかないけどね。

そういえば、何年か前に「中村雅俊さん」が出ているCM
で、中村雅俊さんが「俺たちの旅」に出ている時の自分と
道で通りすがり、お互いに!?って感じのCMありましたよね。

あたくしの20年前はちょうどある意味において人生最初の
分岐点だったので、こう言うと思います。

「大丈夫だよ、確かに君は何度もつまづく、何度もな、でも
その度にかけがえのない大切なモノを手に入れるはずだから」

「えっ?それはどんなモノかって?そうだな、それはつまづきなが
ら20年後にわかるよ」

「えっ、20年も先のことを考えられないって。ごもっとも、俺も
そうだったから。(って、自分の20年前だもんな)」

「えっ、大切なモノのヒントを教えろだって?(ったく、なんだ、こいつ
は、まるで人生の機微(きび)というものをわっかっちゃいない、もっと
物分りがいいはずだったけどな。って自分の20年前か)」

「えっ、俺は冒険家になり世界中の危険な場所へ行って、作家に
なるから、心配すんなって。(そういえば、あの頃落合信彦に憧れてたな)」

「えっ、俺は小学生の卒業文集にアメリカの海兵隊になるって書いて、
中学の卒業文集には波乱万丈の生き方をするって書いたくらいだから
少しくらいの苦労はへっちゃらだって。若いうちの苦労は買ってでもしろって
いうじゃないかって?(このクソ生意気なガキめぇ!でも、自分か。)」

「ああ、その通りかもな、確かに若いうちの苦労は買ってでもしろと言う
諺はあるけど、でも、本当に辛い思いを経験したら、そう簡単には言え
ない時もあるんだよ」

「まぁいい、ただこれだけは言っておく。20年なんてあっという間だぞ、
あたくしも、まさか20年後のいまの自分なんて(あっ、ヤバイ!汗)想像すら
つかなかったもん。漠然とした夢や目標を見たり持つのも結構、今から先
のことを考えなくてもいい、

ただ、時間や歳月は自分ではどうすることも出来ない。しかし、自分
次第で無駄にも有意義にもすることは出来る、しっかりと両目を見開いて
真っ直ぐに前を向いて胸を張り、一歩、一歩右足の次は左足を出して
歩いて行け、

そして時には、下を向きたくなる時もあるだろう、時には後ろを振り向き
たくなる時も出てくるだろう、足が震えて出ない時もある。それらも全部自分
の体に刻み込んで歩けよ。」

「おじさん誰?なに言ってんの?俺、これからバイトの面接だからもう行くわ。」
「あぁ、そのススキノのバイト先、案外面白いぞ」
「おじさん、何でススキノって知ってんの!?俺、言ったっけ?」

「誰にも言うなよ、あたくしはエスパーなんだ。」

「おじさん、酒飲んでんの? まぁ、いっか。何だか、おじさん面白い人
だね、言ってることあまりよく解んなかったけど、でも何となく俺にとっては
大切なことのように感じたしね、面接に受かったら来てよね、えーと。」

「大丈夫、場所は知っているから」

「ハハハー、そっか、おじさんエスパーだもんね、じゃあ。」

「20年前のあたくし、若いな~、キラキラしてたな~、頑張れよあたくし。」

「お前、案外良いこと言うじゃないか。」

「あんた誰?」

「あたくし?誰にも言うなよエスパー、R-62さぁ。」

「エスパー、R-62? まさか!?。。。。。」

皆さんは、20年前の自分に逢ったらどんな話をしますか。
さぁ、皆さんもご一緒に!

嬉しいことが二つ。

最近、店舗で嬉しいことが2つありました。

まず一つは、あの「鈴木徳太郎商店」です。
先日、新商品を試食に行ったときに「ん?」何か
違うぞ・・・・・?

きれいだ、キレイだ。奇麗だ!

「浩太郎!なんか店スッキリとしてないか?」
「ハイ、先日の師匠の(浩太郎はあたくしのことを師匠
と呼びます)メルマガで書いていたので」

「エライ!浩太郎!!」
(浩太郎とは2003年8月から仕事をしているけれど、
こんなに褒めたのは初めてです、ある意味彼もツワモノです)

メルマガでは「整理・整頓、清掃週間」のことを書いた
のです。それをいち早く行動に移してくれたのと、ただ行動
に移しただけじゃなく、ひと目でわかるようにしてくれたので
本当に嬉しかったんです。

そうなると、いつも「いちゃもん」をつける嫌味なあたくしも、
物凄く良い気分で試食会が出来て、結局一ヶ月越しで
行っていた試食商品は見送りになりましたが、わずか一言の
「トンテキ(徳太郎で徳テキ)」に決まりました。

でも、考えてみると、そのような清潔感があるお店で飲食
をするのはお客さんにとってはとても大切なことです。

ヤバッ!ツワモノ浩太郎は自他共に認める「三日坊主」でした。
こんなお願いは本末転倒ですが、皆様お店に行って整理・整頓
清潔感がない時は、一言「トップギア!」と違うぞ!って言って
頂ければ、これ幸いで御座います。
(エッ!?その前に浩太郎を清潔感を出せろ!と?ごもっともでございます)

次に「ハングリー・ぶぅ!」です。ランチで「竜子」という何だか昔の
東映の仁侠映画に出てきそうな名前ですが、この「竜子」がスゴイ!!

何がすごいって、食べたらすぐに下から出るので太らないんです!
じゃなくて(マジだけど)、「竜子」が作るランチ用の看板なんです。
まずは、
ファイル 102-1.jpg
最初の看板を見たただけでシンプルですが、分かりやすくて、
「おう!いい感じジャン」特にピンクが。って感じでしたが、今日見ると
さらにパワーアップして、
ファイル 102-2.jpg
これ画像では分かりにくいですが、立体になっているのです。
まだ分かりにくい皆様のために、これならどうだ!
ファイル 102-3.jpg
どうですか、いい感じゃないですか。何だかオッパイみたいだ。

気にも留めずに「寡黙」に串打ちの仕込をしている「いくみ」
が何だか「高倉建さん」ばりに「不器用な奴ですから」と今でも言いそうな
雰囲気を「かものはし」でした。(許して下さい、Rー42ですので)
ファイル 102-4.jpg
そして遅番の「まな」が、しきりに「わーっ、すご~い」を連発しておりました。右が「竜子」。
ファイル 102-5.jpg
でも、「いくみ」は「寡黙」ですが何か?

あたくし、この二つが特に嬉しい大賞に上半期ノミネートしたのは(おぅ!
そうだ毎年やっている忘年会の賞の一つにしょっと)、第一に直に行動
に移してくれて、かつ、違いがひと目でわかるレベルまでしてくれたことな
んです、

しかも、あの浩太郎が、もう一度「あの浩太郎」がですよ。「浩太郎」の
ツワモノぶりは機会を見て書きますね。きっと丸かのスタッフと常連さんは
知っていると思いますが。。。。。

それと、言われなくても「自分達で工夫をして行動」をしてくれたことです。
聞くところによると、「竜子」は最初失敗して紙をクチャクチャにしたら偶然
立体的になり思い付いたと言うんです。(ちなみに自称、美術5だそうです)

これも「行動」した結果、いっけん失敗したように思えたけど、そこから
このような素晴らしい結果になったんですね。いくら考えていてもダメなんで
す、まさに「失敗は成功のもと」なんです。

そしてどちらも、ほとんどお金がかかっていない。これ非常に重要なこと
ですね。昨今は非常に便利です、お腹が空いたら24時間いつでも空腹
を満たすことが出来ます。

面倒なことは外注すればいい。しかし、それはお金が掛かります。自分達で
出来ることは自分達でやる、それはお金だけのことを言っているのではなく、
「創意工夫」をすることで、それが大切な経験になり、自分でやったことには
愛着と責任がでて大切にするんですね。

あ~、本当に嬉しいですね。こんなことで喜ぶなんて、どれだけ普段はダメ
なんだと、おっしゃる方もいるかも知れませんが「嬉しいものは、嬉しい」と
どんな小さいことや当たり前のことでも、口に出して態度で示すことは非常に
大切なことなんだと思います。

特にあたくしは「普通以上に、怖い存在みたい」なんで、こういう時くらいは手放
しで褒めたいし、本当に嬉しいんです。

皆さん、是非「徳太郎」に行って「徳テキ」に「特性のりおソース」を
食べに行ってあげてください。

「ぶぅ!」は「竜子」の看板と「カツカレー」が絶品ですので、こちらも是非食べて
見てください。

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