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昨年の今頃は。

昨年の今頃は、「青春の輝き」の業態視察で東京~大阪
~神奈川へ出張に行っていました。

東京での目的は「酒場と鉄板中華(上海月用)」と大阪では「ホル
モンとソース焼きそば」、厚木では「白コロホルモン」、横浜では、
ここが一番の目的の焼肉と坦々麺がドッキングしたハイブリット店。
(閉店してましたが何か?)

今日、それらを全部話すと「北方兼三」さんばりの「水滸伝」
位の長さになるので、やはり単にメーカーの担当とあたくしが
一番行きたかった「酒場」の話です。(前置きですでに長いけど)

そこは東京は門前仲町(通称門仲)にある「大衆酒場魚三」です。
実は、あたくし5年前の「青春の輝き」がオープンする前にも
「酒場」コンセプトのヒントを見つける為に行った店なんです。

今でこそ、「酒場」や「立ち飲み」という言葉、店が見直されて
若者向きのお店も随分と出来てきましたが、その当時
は「酒場?何ですかそれ?」っていう感じでした。

話がそれました。ただ、あたくしの時代を先取りした「感性」と
そこに「レトロ」を交えた「青春の輝き」は凄いですよね!と
ほんの少しだけ自慢を・・・・・、(ごめんなさい)

まぁ、昨年だから4年ぶりに行ってきたのですが、そこは1階に
はコの字のカウンターが2つあり、4階まである店で、17:00
には満席になるお店です。

店名に「魚三」とついているだけあって、魚介料理が豊富で
安い!本気で安い!!スンゴク安い!!!

あたくし達、5人で行ったのですが(普通、5人でカウンターに
座るのは邪道)、最初2階へ通されそうになりましたが、そこは
頑なに「カウンターがいいんです」と、それには理由があります、

理由その1、酒場の良さはカウンターにあり。

理由その2、カウンター越しの店主や他のお客さんとの交流が
酒場の醍醐味だから。

それで「じゃぁ、席は別々だよ」とママ。「はい、ありがとうござい
ます」と普段は大抵、人の言うことなんか聞かないあたくしも
ここは素直に従います。

でもね、「酒場」と言う所はね、そうなると見かねた常連さんが
「ここ、座りな」って言って席を移動してくれたり、帰っちゃうの。
大抵は「下町気質」でそれ以上気を使わせないように帰っちゃう
んだけどね。 あったかいね~。

その常連さん、誰とでも仲良くなれる「規夫」と少し話をして
いてあたくし達が北海道から来たって知ったら、何やらママに
話してる。

常連さん、「せっかく北海道から来たんだから、サンマ食べてきな」
って言うの、遠慮してるとママが「ご馳走になりなよ」って。
(でも、この時期は北海道の方が・・・・・)

ここで「なに言ってるんですか~、今時期は北海道の方が美味し
んですよ~、昨日も脂が乗ったの食べましたよ~、ハハハハー」
なんて言うのは人として風上にもおけません。

しかし、その常連のおじさんの一言にあたくし達は一同「!?」となるのです。

「ママ、この人たちにサンマのかぶとをやって」。(かなり本気でした)

すかさずママが「なに言うのさぁ、サンマの頭って親指くらいだよ、かぶと
にしてどうすんのさ」。

「・・・・・」。

おじさん、あたくし達の為に「サンマ」を2匹注文して帰って行きました。
もちろん、あたくしたち5人は、おじさんとママの会話を口にするような
「野暮」ではありません。

ただ、皆、万が一誰かがその話題をしちゃいけないと思ったのか、
一所懸命にそれぞれが「サンマ」「かぶと」というキーワードに触れない
会話をしていました。

あ~、これだから「酒場」はやめられない。
「魚三酒場」です。

輝く人たち、最終回。

~前回までのあらすじ

自動車事故で両足切断、手術による激しい痛み、
加害者である若い女性の自殺、車椅子マラソンとの
出会い。
その車椅子とそれに無心で打ち込む人たちとの出会いが
、鈴木さんに「夢や目標」を失いかけていた大切さを呼び
覚まさせてくれました~。

リハビリを終えた鈴木さんは、中学に復学しました。
車椅子の自分を受け入れてもらえるかどうか不安で、
養護学校へ行くことも考えましたが、

周りの人たちの理解もあり、スロープや手すり、トイレなどを
リフォームをして学校は受け入れ態勢を整えてくれたのです。

友達も車椅子の鈴木さんを温かく迎えてくれました。
仲の悪かった友達ですら、いつも気遣ってくれるのを見て
「人間って分からないものだな」と思ったりもしました。

運動会でも車椅子で参加したりと、それなりに充実して
いましたが、ただ、修学旅行の時に少し悲しい思いをしました。
少しよそよそしく感じたと言うんです、もちろん自分達も思いっきり
楽しみたいだろうし、付き添いのお母さんに気兼ねしたのもあるの
でしょう。

「お荷物扱いされてるな。やはり自分は別なんだな」と、忘れ
かけていた障害者としての辛さを痛いほど感じたそうです。

しかし、この頃、漠然とながら将来について考えるようになって
いました。それは小学生の時に憧れていた教師の夢です。

他にも医療関係者に親切にされたこともあり、そちらの方向も
考えましたが、忙しく動き回ったり、患者さんを支えるのは
足のハンディのことを考えると断念せざる終えませんでした。

それで、地元で障害児教育を学ぶことが出来る、愛知教育
大学に進路の的を絞ったのです。が、ここでもある思いを
抱きます「障害のある私が本当に教師になってよいのか。
何か緊急事態が発生した場合、子供を守ることが出切るのか。
父母の理解は得られるのか」という悩みです。

鈴木さんは、大学の先生に相談しました。すると「確かにそうかも
しれないけれど、やってみなきゃ分からないじゃないか。やらない内か
らあれこれ考えても始まらない。この先、同じ道を歩こうとする人
のためにも、あなたが道を開きなさい。もしそれで、どうしても駄目
なら途中で辞めたらいい」

とアドバイスを受けて、「そうだ、やってみるか」と気持ちが吹っ切れた
たのです。

鈴木さんは現在、四年生のクラスの副担任と算数の少人数指導
をしています。放課後はソフトボールの指導にあたり、それから次の
日の準備に取り掛かります。

授業では板書きする時は義足をつけたり、車椅子で膝立ちなどです。
ソフトではキャッチボールもするし、バッティングのコーチもします。
最初は違和感をがあった子供たちも、毎日一緒に過ごすことで、障害
者という目で見なくなくなったのが嬉しいとのことです。

鈴木さんは言います、私は事故で両足を失いました。しかし、事故に
遭ったおかげで、私たち人間は一人で生きているのではなく、多くの人
に支えられながら生かされている、自分を必要としてくれる誰かが必ず
いるという、とても大切なことに気づきました。

高校卒業まで毎日学校に付き添ってくれた母の苦労を思う時、「自分
みたいなちっぽけな人間は死んでしまってもいい」と考えた当時の自分が
とても恥ずかしくなりますと。

「もう一つ、私は事故をきっかけに夢を持って生きることの大切さを知りました。
夢、目標を持てば現在やっていることに価値を見出せるし、それに向かって
現実的、計画的に歩いていくことは人生で輝きだすと思うのです」とも。

鈴木さんは、「健常者の頃と車椅子になってからの人生を選べと聞かれたら、
間違いなく車椅子の生活を選びます」
とキッパリ答えています。

その理由は、もし私が健常者だったら、一生このことに気づくことはなく、
自分の行く道を探りながら悶々(もんもん)としていたと思うからです。
少なくとも現在のような充実した毎日を送っていなかったでしょうと。

子供たちには「生きている時間が100%だとしたら、それを使い切る勢いで
生きるほうが絶対に格好いいよ。そのためには夢や目標を大事にすること。
オリンピックやパラリンピックの選手があれだけいきいきとしているのもそのため
なんだ。 だからもっと皆も輝き放つ人になってほしいな」と。
「致知(ちち)」 2007年12月号より。

今現在、パラリンピックが開催されています。どうして、TV中継もマスコミ
も、浮かれた芸能人もインターネットもあまり話題にしないのでしょうか?

手や足のない姿を見せるのが嫌なのでしょうか?痛々しいのでしょうか?
目の不自由な人が出るのが不憫なのでしょうか?それらを子供たちに見せる
のが残酷なのでしょうか? 恥ずかしながら、あたくしも街で体の不自由な人
を見かけたりすると、言い知れず心が痛みます。

それは可哀想とかよりも、どこかであたくし自身が偏見の目、いいえ、
もっと言うと偏見の『心』を持っているのでしょう。それを少しでも相手に
悟られないように、少しでも自分はそんなんじゃないと自己弁護しようと
しているのです。

しかし、こうも思うのです。あたくしのような人間が五体満足なのに、
「何かいいことないかな~」って、何一つ不自由な体でもなく、人から
奇異の目や哀れみの目で見られはしないのに、他愛のない不満や、
時には運がないと嘆いてみたり。

だからなのか、「お前のどこが不幸なんだ?」って自分に問いかけられている
ようで、とても身につまされるのです。

昨日まで、普通に生活をしていた人が突然の事故に遭い障害になったら
どれほどのショックでしょうか?いえ、その家族は?奥さんは子供は?
今回のパラリンピックでそのような人たちが大勢出ています。

その背景を伝えながら観戦すると、俄然力が入ります。残念ながらアナログ
TVしか映らないあたくは、熱血元テニスプレーヤーや、人気お笑いコンビの
口の悪い相方や、朝のワイドショー番組の自称オリンピックマニアのキャスター
の中継ではなく、NHKの午前中に約50分間(しかも録画)を見て一人
感動しています。

この映像を見ただけで、
TV局もマスコミも、もっと宣伝すればいいのに、普通のオリンピックより
感動するのにと思いますよ、きっと。

最後に、
「健常者の頃と車椅子になってからの人生を選べと聞かれたら、
間違いなく車椅子の生活を選びます」
。 
あたくしのような心の弱い人間はとてもこのようなことは思えません・・・・・。
「右真中のダイジェスト」←ここクリックですよ。(小川さん怪しくないよ)

輝く人たち。(中)

昨日の続き、

中二の時に事故で両足を切断した、鈴木さんは
緊急措置としての最初の手術は無事終わりました。

しかし、それからが大変で二度目の手術で院内感染
で傷口から菌が入り何日も高熱が続き、一時は医者
から「抗生物質が効かなければ、命が危ないかも知れ
ません」と宣告までされる状態までなったのです。

三回目の手術の後は皮膚移植に伴う『強烈』な痛み
と闘い、切断した部分のガーゼを交換する時の痛みは、
皮膚を剥がされるかと思うほど激しく、

何度も泣き叫びそうになり、痙攣(けいれん)を併発し、ま
ともに食事をとれないことも度々でした。

ようやく痛みが治まってきても、また別な悩みが頭をもたげて
きます。それは自分が障害者になったことで、人の目が気になり
出したことでした。

鈴木さん自身、障害者に偏見を持っていたので気づかぬうちに
障害者であることを隠そうとしたのです。足はいつも膝掛けで
覆い、お見舞いに来てくれた友達にも心から喜ぶことができな
かったといいます。

鈴木さんの入院期間中には様々な出会いと別れがありました。
その一つに鈴木さんをはねた人は二十代の若い女性で、お見
舞いにも二度来てくれました。

うつむき加減で鈴木さんに二言、三言声をかけると、それっきり
黙ってしまうのでした。しかし、その後その女性からの連絡は
途切れ、事故後の話し合いをしようとしていたお父さんはやき
もきしていました。

鈴木さんは、一時的なショックから徐々に立ち直り、自分の中
で何かが吹っ切れて新たな人生をスタートしようと新鮮な気持ち
で、むしろいきいきと毎日を過ごしていました。

加害者の女性が自殺したと聞いたのは、そういう時でした。
鈴木さんは、それが事故のせいだと思うと、いたたまれない気持ち
になりました。

実はその自殺した女性は複雑な家庭環境で、それを知るにつけ
幸せを味わうことなく亡くなったことが不憫(ふびん)でならなかっと
いうのです。

もっと話を聞いて「本当に大丈夫だよ」という一言をかけてあげて
いたらと思うと、今でも悔しくてならないと言います。

一方、厳しい治療の中にも楽しい出会いがありました。車椅子
マラソンをしている「杉浦さん」との出会いです。トラクター事故で
両足をなくし、本当なら落ち込んでいるはずなのに、普通の人
以上に明るくバイタリティーあふれる姿は、いささかもハンディを
感じられなかったのです。

その時、鈴木さんは「障害者でも普通の人と変わらないんだなぁ。
もしかしたら、人生を明るく生きるかどうかは、その人の気持ちが
決めるものかもしれない」。

そんなある日、杉浦さんから車椅子マラソンを誘われて見に行き
、雨の中デットヒート繰り返す選手達の走り終わった後の姿の笑顔
、歓声、惜しみない拍手がとても衝撃的で理屈抜きに「かっこいい」

と思い、鈴木さんも中3で車椅子マラソンを始めました。練習を重ね
徐々にスピードが出るようになり、大学時代は国内外の大会に
エントリーするほどになったのです。

鈴木さんにとって「車椅子マラソン」は、あの事故以来忘れていた
「夢や目標」の大切さを呼び覚まさせてくれたのです。

車椅子マラソンという、生きがと出逢った鈴木さんのその後の人生
にとても影響して行くのでした。

続きは明日。

輝く人たち。

7日から北京でパラリンピックを開催しております。
パラリンピックとは「国際身体障害者スポーツ大会」
のことで、オリンピックが終了後に同じ開催地で行う
もう一つのオリンピックのことです。

あたくしが愛読している月間誌で「致知(ちち)」と
いう雑誌を読んでいるのですが、印象に残っている
記事がありました。

それは、愛知県の岡崎市で小学校の先生をして
いる「鈴木良美さん」という方がおります。

念願の先生になり、三年四組で副担任を務める
ことになりました。初めて教室へ行った時に、「先生
は車椅子だけでなく義足というものを使っています。
見せてあげようと思うんだけど、いいかな」

「見たい」 教室のあちこちから、リクエストの声があがり
鈴木さんは子供たちを車椅子の周りに集め、自分の
義足を指差しながら、

「右足と左足は怪我の程度が違ったので、義足の作り
方が違います。ここが義足、ここがソケット・・・・・」と
一通りのことを説明して、

「苦手だと思う人は見ないようにして話を聞いてください」
と言って、義足を全部外しました。

「これが先生の足です」

すると子供たちは一様に驚いたような表情で、膝までしかない
鈴木さんの足を食い入るようにして見ました。

「先生は膝立ち、膝歩きはできます。自分のことは大抵できる
けれども、みんなに手伝ってもらわなくてはならないことがあるか
もしれません。その時はよろしくね」と自己紹介をして鈴木さんは
教師としてスタートしました。


鈴木さんは車椅子に乗っています、鈴木さんが中学2年の
クリスマスの日に、家族三人でスキーへ行く途中に車に乗っていて
軽い接触事故にあいました、これが最初の事故でした。

運転していた父と相手側が事故処理の話をして、しばらくすると
車の中で待っていた鈴木さんと弟に父が「いまタクシーを呼んだから、
車を降りて二人で橋の下まで来なさい」と声をかけました。

鈴木さんは弟と道路脇を歩いていたその時、一台の車が対向車線
から鈴木さん目がけて突っ込んできました。「あ、ぶつかる」と思う間も
なく、気がつくと鈴木さんの体は、

道路の真ん中に放り出されたのです。その時はまだ自分でも状況が
把握できていませんでしたが、足部に強烈な熱さと痛みを感じて
上半身を起こした時、少し見えたのが大量の血と鈴木さんのスノー
シューズでした。

両足がひきちぎられていたのです。

道路の真ん中に放り出されたので、万が一車が来たら鈴木
さんは逃げることができません。鈴木さんは「お父さん、お父さん」
と何度も大声を出して助けを求めました。

父はすぐに駆けつけてきて、鈴木さんを抱いて道路脇によける
と、自分の服で鈴木さんの足を覆いながら「大丈夫だからな。
すぐに救急車が来るから頑張るんだ」と励ましてくれました。

まさに家族は晴天の霹靂(へきれき)ともいえる大事故です。
実を言うと、その時鈴木さんは「死ぬんなら死んでもいいかな」
と思っていたと言うんです。

それは所属していたソフトボール部でいじめのような目に遭い
、成績もいまひとつ。それに加え友達との人間関係も歯車が合
わない状態も続き、投げやりな気持ちにもなっていたからなんです。

ただ、それでも自分を育ててくれた両親のことを考えると「このまま
死ぬわけにはいかない」と思いましたし、

「障害者の親にしてしまって申し訳ないな」と言う気持ちも湧いて
きたのです。病院に運ばれる救急車の中で鈴木さんは心の中で
、そういういくつもの思いが交錯していたといいます。

足をひきちぎられた娘を見た時のお父さんはどんな思いだったので
しょうか?そのような状態で冷静に自分のことや家族のことを考えた
中2の鈴木さんは・・・・・。

人間、まったく想像もつかないことがおきた時には案外、冷静という
より客観的に自分を見れるのかも知れません。

続きは明日の「トップギア!」で。

ケチを馬鹿にする人間はお金持ちになれないの法則。

タイトルだけを見ると、なんだか自己啓発本とか、成功
本のような感じですが、まったくそうではなく自分のことと
単なる酒場の会話で培った経験則です。

つい先だって、知人の店へ飲みに行った時にサッカー
の話題になり、いつしかサッカーくじの話になった時に、
「宝くじだとか、あんなのに当ったらさぁ、その後の人生
の運を使い果たして、逆に不幸になるんだよな~」

と、一回も当ったことがないくせにとんでもない事を言って
いた御仁がいらっしゃったので、「へー~、でもさぁ、その
当った人が88歳で、後いくらも生きられなくてもか?」

と聞いてみると「残された家族が遺産問題で不幸にな
るんだよ、きっと」と言うので、

「へ~、なんで遺産残すってわかるの?」と少し意地悪く
聞いてみると、「だってさぁ、よく言うじゃない。分相応の
お金が入ったり暮らしをしたら人生おかしくなるって」

四人で話していたのですが、その一人を除いて他は皆、
「はんた~い!、だってよ、おかしいじゃんかよ、どう
考えても一生手に入らない額が紙切れ一枚で手に
入るんだぞ」

別の人も「そうだよ、それにさぁ、その人がさぁ、その半分
をアフリカなんかの恵まれない人の為に寄付するかも知れ
ないじゃん、俺はしないけど(あらっ)」。

「とにかくよ、当ったものは素直に喜べばいいんだよ、素直に
さぁ、それを当ってもいないのに、その後の人生は不幸にな
るなんて、それは単なる貧乏性か、ヒガミだよ、お前は細木か!?」
と、その後も永遠にその話題は続き、

とうとう、当った時の話になり、その場は大盛り上がり。
「よし、一年に一回は俺のスイスの別荘で飲み会だ」とか、
「マスター、あたったら銀座に店出してやるよ!」だとかね。

さんざん夢を見て現実に戻って、
結局、「なぜ俺たちはこんな店で飲まなければならない貧乏
人なんだろな~」と後ろの席の人が言ったら、

すかさずマスターが、
「馬鹿なこといっちゃいけないよ、お前らはこんな店と言うけどね、
この店は医者も来るし、弁護士だって来るし、隠居した元
会長さんだって来るんだよ、本当の金持ちはお前らと違って
いいふりこきじゃ、な・い・の」

他の人たちは、ワーワーと言っていたけれど、あたくしは思い当た
るふしが沢山あります、そういえばお金持ちとか、きちんと貯金
出来る人は「ケチ」だなっと。しっかり割り勘にするし、銀行の
ATMの手数料さえ気にするもんな~。

割引とか手数料とかと言う何百円や数千円単位は気にする
くせに、何千、何億、何十億の単位のお金に関しては、結構
アバウトにと言うか、思いっきりがいいもんな~と一人マスターの
話で納得していました。

そして、まだ飲むか帰るかで仕事以上に迷っている時に、「俺、
タクシーで帰ったら2千円は掛かるんだよな」と言い、「あたくし
は1380円位も掛かるな~」、

うん・・・・・、と言うか二人とも迷うも何も、あたくし達が使えるお金が
二人揃って、そのタクシー代の約3500円なのですから、迷いようが
ないんですけど、出てきた答えが「わかった!同じ方向だから、
あたくし経由で行けば2180円位で、残りで焼酎ならあと2杯づつ飲める
よね!」でした。

「マスターあたくし達のような「ケチ」もお金持ちになれるかな?」

「ムリ、お前らはケチじゃなくて、セ・コ・イだけ」。

結論、お金が貯まる人は「ケチ」というより「浪費」をしないんですね。

結局、二人とも全部その店で使い果たして歩いて帰りました。
ええ、もちろん当った時の夢を語りながらね。。。。。

スタッフとの出会い(細B編)。

あたくしが、細Bと初めて会ったのは、以前いた
会社が初めてではなく、まだ、あたくしがフリーター
(昔はプー太郎)をしていた時です。

その昔、ススキノに「泣き虫ピエロ(ジャパンランド
ビル)」という店の姉妹店で、アルトビルに「おしゃべり
ダックス」というカラオケパブで初めて会いました。

あたくしは当時「コースターズ」という、地元の友人達と
チームを作り(ただの飲み会チーム)揃いのスタジャンや
ボーリングシャツを羽織って、毎週土曜の夜は「おしゃべり
ダックス」へ飲みに行っていました。(常連って奴です)

メンバーの仕事は、あたくしがポンプ車のバイト、リーダーの
藤田が自衛隊、山住が設備屋、アッキが・・・・・?何して
たっけ?でも、きっと建築関係のバイトの4人です。

けっこう、「おもろー」な奴らで、よくその店でモノマネや話術
で、店の人や周りのお客さんを笑わせておりました。
(後に全員別々の店だけどススキノで働くことになる)

そこで、カウンターに他を寄せ付けない気取っているけれど
、なんとなくいい感じの二人組みの女性が座っておりました。

「おう!いい感じ、よし、ここはいつものモノマネや話術でなん
とか、こっちに気を引かせよう」となり、あの手この手で気を引こう
としましたが、完全に無視。話しかけてもまったく無視。

とうとう、あたくしたち「コースターズ」が出した結論は「何だよ、
あいつらお高く留まっちゃって、きっとマヌカンだよ」と。

その当時、ややが歌う「夜霧のハウスマヌカン」と言う、DC
ブランドの見栄っ張りの販売員のことを歌った曲が流行り、
お高く留まった女性は「マヌカン」と呼んでいました。

その時はそれで終わりましたが、2ヶ月ほどして大通の
地下鉄で、前からテクテクと歩いて来てすれ違った女の子は
まさしく「マヌカン」の細Bでした。お互いに「あれ?」
と言う感じで、そのまま通り過ぎました。

その当時、細Bは18、9歳で昼は「かにっこ」夜はディスコ
「エクシング」で掛け持ちをしていたのだそうです。
まぁ、その当時の「ディスコ」の店員も「マヌカン」もどっちも
どっちだったけどね、お高く留まっているところは。(笑)

そして、それからあたくしが以前いた会社に入り「Rap」
(ラップ)と言う所で働いていて、マスターに「OPERA」
に行こうと誘われて、「OPERA」に行くと、ステージで
細Bが歌っていたんです。

お互いに声を上げて「あっー!」と。そして、どうしてここに
居るの?って聞いたら「私、ここの会社に入って隣のビルの
TANGO(タンゴ)で働いているのー」って言いました。

マスターが「お前ら知り合いか?」 「えぇ、まぁ・・・・・」。

それから、数ヶ月して新店が出来るということで、あたくし
が店長で細Bも新店要員として、一緒のメンバーになり
いつの間にか新店ではなくそのまま、あたくし達「ラップ」
メンバーと細Bとが数々の伝説を作った「オペラ」で働くよう
になりました。

その後、細Bは「ドラゴン倶楽部」「北海道むかし話」「しゃか
りき屋」「喜楽」「ティキ・ティキ」と渡り歩いて「大東京」から
また、あたくしと働いて現在に至っております。

細Bが一番店を移っているんです、それは細Bが行く店は
必ず業績がよくなるからなんです。行く先々で沢山のお客
さんを男女問わずファンにさせるし、スタッフも働きやすいんです。

「オペラ」で彼女が早番で2:00で上がる時に、1卓、1卓
挨拶をすると必ずその卓でご馳走になり、歌まで歌うので
結局2:00の早番が4:00位になってしまうんです。その位
お客さんから可愛がってもらうので、お店が繁盛しないはずが
ないんですね。

だから、一時会社では「あげまん伝説」って呼ばれておりました。(笑)

何だかんだと、仕事をして20年。出会ってから21年になります・・・・・。

どうぞみなさん、これからも「細B」をよろしくお願いします。
&そろそろ「労わってあげて下さい」ね。
それといい人も募集しております。ファイル 96-1.jpg
ファイル 96-2.jpg
「コースターズ」(笑)手前右が藤田、左がアッキ、右後ろが山住、
そのとなりがあたくし友人の結婚式で。

「チー的火鍋」と「使命感」。

昨日、と言うより午前0時をまわっていたので
正確には今日なのですが(でも、このトップギア!
を見た人が6日なら昨日です)、「てまひま」のアル
バイトで中国の瀋陽から来ている「チー」が本物
の「火鍋」を食べさせると言って作ってくれました。

最近、「上海」の火鍋を試食して今後の成り行き
を見守っているあたくしとしては「火鍋」、いや、そ
の前に「ほ・ん・も・の・の」と付いたのであれば、これ
は是非とも食さねばなりません。(一種の使命感です)

「マッキー」と「チー」、それにぶぅ!の「いくみ」と「まな」の
「いくまなコンビ」(多分、そう言っているのはあたくしだけ
だと思いますが)、それと元祖(げんそじゃないよ)
「火鍋魔人の細B」とあたくしで、午前1:20分から、
ちょいとした「火鍋パーティー」をしました。

あっ、ちなみに、あたくしその日は早い時間(17:30
分位)に上海で「エビチリ」と炒飯対決の「唐辛子炒飯」
を食べて、札駅の紀ノ国屋まで行った帰りにアピアで
20:10分位に「醤油ラーメン」を食べて、23:55分位
に事務所で「藤田」と「冷麺」を食べて、完全に「満腹中枢」
が食欲の秋モード状態になっておりました。

普通にお腹は空いていませんでしたが、「ほ・ん・も・の・の」
と言う言葉にやはり「使命感」なるものが、あたくしの「満腹中枢」
を制御不能にしていたのです。

「いただきまーす!」、一応、チーは食べ方を言っていました
が、大体にして鍋の食べ方なんて全世界万国共通だし、
それよりかなり疲れていた「チー」の日本語は言っている本人だっ
て正直、怪しかったので「ピラニア軍団」達は適当に聞き流し
「ガツガツ、うまい、うまい」と食べておりました。

「?チー、火鍋って、辛いスープもあるんじゃないの?」すると
「チー」は片言より少しはマシな日本語で「チュウゴクではこれが
イチバン、全国で一番多いナベ」と。・・・・・!?まっ、いいか。

でも美味しい。でも、スープが足りない。すると「チー」はその
様子を見て「コノナベハ、スープ飲みませんよ」って言うではあり
ませんか。「!?スープ飲まない?」「そう、チュウゴクでスープ飲む
人いないですよ、肉の味で・・・・・」(何を言ってるのか理解不能)

でも、完全にその口調は「これが本物の火鍋っていう奴さ」、みたいな。
中でも一番スープを「おいしい、おいしい」って飲んでいたのは細Bと、
プラスその時点で器にスープが一番入っていたのは「いくみ」でした。
二人とも口を揃えて、「先に言ってよね~・・・・・」

鍋の中は完全に干しあがった池のような状態になっておりました。

止めを刺すようにチーは、「デモ、普通チュウゴクじゃスープ飲みませんから」・・・・・。

あたくし、思わず「いくみ」に「その器に入っているスープ鍋に
戻しなさい。」と言ってしまいしました。

でも、チーが作ったからか、チー目の前で食べたからか、なんとなく
「本場中国の味」がしました。そのことを「チー」に言うと「その言葉を
聞けただけでウレシイです、イケマスカネ?」

チー、「イケマスカネって」まさか君は「日本で火鍋屋でもやる気なの?」
「イエ、イエ、23日ミンナ、喜んでモラエルカなってことデス」。

「大丈夫、皆よろこんでくれるよ、なぁみんな!」
「うん!そのかわり最初にスープのこと言おうね」

「ハイ、ソウシマス」

というわけで、
23日、「てまひま」ではスタッフとお客様とで盤珪(ばんけい)で
「パークゴルフ大会」をやり二次会は表彰式も兼ねて「てまひま」
「チーが作る、本物の火鍋」を食べて楽しむそうです。
参加ご希望の方は「丸か加藤商店」までお願いします。

チー、おいしかったです、ありとうね。

ある9月の夕方・・・・・。

いま、「てまひま」のランチスタッフのかよこ
さんと、竜子に「丸か菜園」で採れた野菜を
一口頂きました、ししとうは青々していて新鮮
で、ミニトマトは陽が沢山当ってとっても甘い味がしました。
ファイル 94-1.jpg
そういえば、本日「経田料理長」が小別沢に行って
おります、来年のある計画のための打ち合わせです。

「来年のある計画」、楽しみです。でも、今は言わない
でおきます。きっと皆さんやスタッフが喜んでくれることに
なると思います。

最近、同じような夢を見ます。、同じような・・・・・。
いいんだか、悪いんだかわかりませんが、朝起きると
切ない気持ちになっているのは確かです。

なんでしょうか、これも季節的なものなのでしょうか?
あたくしの人生、既に折り返し地点を過ぎました。
まだ振り返るには早いですが、時々確認は必要です。

昨日、上海で一人寂しくカウンターに居ると横にお客様
、お店のスタッフは親しげな感じです。合間をぬって30分
だけ顔を出したようなことをおっしゃっていました。

帰り際に挨拶をされたので、あたくしも挨拶をしました。
ん?どこかで、み・た・顔。「東京から来た、大龍の大嶋です」
「あっ!大嶋さん!?11年前に吉祥寺で会った!」
「そうですよね、私も見覚えがありました!」

と言うことで、実は11年前に「上海月」と「暖中」を作る前
に東京へお店を観にいった時に「大嶋さん」が何件か付き添って
くれたのです。

もう、あれから11年、偶然の出会い。本当にお店って色々
な出会いがあるのですね。

おぅ!今、先日「金富士」で久しぶりで偶然となり合わせ
になった「中島さん」から電話、早々、明日打ち合わせをしま
す。

う~ん、感傷にふけっている「ばやいじゃ」ないです。仕事、
仕事です。皆様のお蔭であたくしこうして商売をさせて頂いて
おります。

本当にありがとうございます、これからもよろしくお願いしますね。
(有)丸か加藤商店だよ~ん。

おぅ!!守岡さんから電話だ!!あたくしの人生、まんざらでもなさそうです。

チャーハンの思い出。

今日からチャーハン対決です。チャーハンで
思い出すのは、今はポピュラーになった「かに玉
チャーハン」です。
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これは、あたくしが店長をしていた時に「大東京」
と言うレストランバーで開発されてヒットした商品
です。もうかれこれ18年前になります。

あたくしは「オペラ」の後、1990年5月23日オー
プンの「大東京」の店長になりました。今は桂和ビル
ですが、当時はグルートすすきのビルと言う名前で
オークラビルの向かいに「ローソン」が入っているビル
の7Fにありました。

名前の由来は、当時の社長から「何か力強くて
インパクトのある名前がいい」とのことで、かなり悩み
友人が名古屋へ自動車の部品を作りに行った時に
床屋さんを探していたら「名古屋なのにバーバー・
大東京って書いてあって、印象に残ってる」と言って
いたので、ダメもとで「大東京」と書いて出したら、
「これ、いいじゃん。これで行こう!」となりました。

正直、あたくし「!?」って感じでしたけどね。(笑)

まぁ、「大東京」については、いずれお話します。
なんせ、この店はかなりの『伝説』がある店ですので。

オープンしてどうも業績がかんばしくないので、メニュー
替えをすると云うので、その時の試食会で出てきたのが
「かに玉チャーハン」でした。

現在はドーナツ状の真ん中にカニあんが入っていますが、
試食会の時はその真ん中に白いデザート用の器を入れて
その中にカニあんを入れて出てきましたが、何か変てこだな~
と思っていたら、「これって、変だよね」と当時の上司で「山田
専務(当時常務」が言って現在のスタイルになりました。

その試食会の時に「かに玉チャーハン」を真っ先にしかも
頑強に反対したのは、当時の社長でしたが、あまり気にせず
にメニューに乗っけたところ、徐々に反応があり、それを目当てに
お客さんが沢山来るようになり「大東京」は繁盛するように
なりました。(一番はあたくしの獅子奮迅の働きの賜物ですがね)

その後「暖中」をかわきりに、その他カラオケBOXや同業が出す
ようになりました。まぁ、真似は別にいいんですがあたくしが解せない
のはそちらが「元祖」のように思われていますが、あくまでもあたくしたち
本家本元&元祖&本流のDNAが流れているのは「上海MOON」
だということ。(なのはなも本家にまぜてあげる)

はぁ~すっきりした。

皆様、正真正銘、本家本元&元祖&本流の「かに玉チャーハン」
を食べる時には是非「上海MOON」へお越しください。きっと「老舗の味」
がしますよ。。。。。
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「大東京」のオープンパンフ、真ん中があたくし23歳、左が山田専務、
右が西垂水チーフ。

酒場の会話。

昨日、東京からお世話になっている「佐野さん」がお見えになり、
あたくしが愛してやまない「金富士酒場」にお連れしました。
東京から来たお客さんを連れて来られる「金富士」はエライ!
ですが、自分の好みを最優先にして、かつ丸かの店を選ばないで、
しかもお酒を飲まない「佐野さん」を酒場に連れて行くあたくしが本当に
「エライ!!」。

まぁ、取りあえずカウンターに座って「酒場」を満喫していると、
「康夫ちゃん」の辞任会見、「ほ~う、やっぱりな、俺は最初から
こうなると思ってたんだよ」と、お隣さん。ムムム、来たな来たな、
「酒場の会話」。

「ったくよ、だったら最初からやらなければいいんだよなー」。
「ホントですよネ」とあたくし。「ダしょー、ん?あれ、加藤さん?」
「ハイ」と言ったわいいけど、この段階ではまったく記憶喪失。

「ああっ、やっぱり加藤さんだー、いまなにしてんの?」

先方は辞任会見をそっちのけで、色々と話掛けて
来ますが、あたくしの頭の中は「まずい、まずいぞ」
とリフレイン。どうにか視線をテレビに持って行こうとするの
ですが、敵はそう簡単には引き下がりません。

しかし、先方が話しているうちに「あっ!中島さん!」と急に
思い出し言ったものだから「中島さん」は「!?」という感じ。
わかりますか「!?」って感じが。

それからは「佐野さん」そっちのけで「中島さん」と
途中参加の金富士のおやじさんも加わり、辞任会見を見ながら
「ああでもない、こうでもない」と話しておりましたが、ここで「中島
さん」が全国の酒場の99.9%は交わしているであろう
言葉を見事に言ってのけました。

「じゃあ、おやじさんが総理大臣で、加藤さんが幹事長」
そして絶妙な合いの手であたくしが「中島さんが官房長官ね」
って、くどいようですが日本全国99.9%の酒場(特に新橋)で繰
り広げられているであろうこの会話を「佐野さん」を完全に無視して
中島さんは調子に乗って隣の女性二人にも同じ事を何度も言って
最初は笑っていましたが、3度目には無視をされ4度目にはお会計
をして帰っちゃいました。

こうして季節外れの蒸し暑い「金富士」の夜は深けて行くのでありました・・・・・。

マスター、ビールもう一本ちょうだい。。。。。

追伸、佐野さんの10冊目の著書にさりげなく「丸か加藤商店」
のことが書いております。

この本。

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