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お知らせ&号外!報告。

今日から2月1日です。
あたくし、何を勘違いしたのか、はたまた単にお酒のせいで
「アルチュウ・ハイマー」なのか?は知りませんが、今日は
”エイプリル・フール”だと、今朝方まで勘違いしておりました。。。。。
(なんでだろう?)

はい、まずはお知らせです。
ホームページでもありますが、今月の「K-1」は
各店舗の「オリジナル・ハイサワー」です。

まぁ、あたくしがこんなことを言っていいのかどうか?
ですが、それなりに店やそこの店長のカラーが出て
面白いんじゃないかな?と思います。

なので、一杯でもいいので、この”世知辛い世の中”ですが、
是非飲んでいただければ、嬉しい限りです。

次に、号外!報告です。

今日から、一応「丸か加藤商店」も調子に乗って”人事異動”
なんて、洒落たことなんかをしちゃいました。

まずは”欽ちゃん本店”にいる「鈴木規夫」は”鈴木徳太郎商店”へ、
”徳太郎”にいた「山内」は”満福や”へ移動します。

山内は今後”満福や”を中心に活躍してもらいます。

そして、ここからが本日の”目玉!!”報告です。

実は、なんと、「鈴木規夫」は4月1日から”鈴木徳太郎商店”で
独立を致します!!(パチ、パチ、パチ・・・・・)

かねてから(昨年の秋頃から)話をしていましたが、
年を越してから本格的に動いて行く事になっていたので。

メンバーは、今いるメンバーです。
のり、浩太郎、天、かよちゃん、まいちゃんの「ゴレンジャイ!!」です。

のりとは、タスコから数えて15年の付き合いです。
浩太郎は・・・・・?まぁ、いいっか。(な~んて”青春の輝き”からなので
約7年になります)

まぁ、詳しいことはこれからなのですが、とりあえずご報告まで。

と言うと、「そう!じゃあ、これからは応援するよ!!」とか、
「そっか~、これからは、そっちがメインだね!」と、言う人が
必ずいますが、そのような人に限って、実は滅多に来ていない人か、
もし、そうなっても来ない人が多いんですよね。(笑)

要は社交辞令ってやつです。(まぁ、いいけど)

応援する人は、いちいち何も言わなくても来るし、
あえて特別なことでもないんですね。

まぁ、「判官贔屓」と言うんですか、それって?

あたくしも「タスコ」から独立する時には、色々と言われました。
そのほとんどが「判官贔屓」じみたものです。

別に、社交辞令だとしても、一応はその人の好意からなので、
悪い気はしませんでしたけど、何とも複雑な気がしたのも事実です。

それは、あたくしは何か不満があって辞めた訳でもないし、
企業でやるのが悪で、個人でやるのが善。と言われている様な
気がしたからです。

「それじゃ、あなた達は本当は嫌々来てたの?」と思うし、
「その嫌々来ていた店や会社で働いていた、俺たちって何?」と。

まぁ、「会社の方針や店の運営は嫌いだけど、そこで働いている
スタッフが好きだから。」と言いたいのだと思いますが、それを知っていても
複雑な気持ちでした。

確かに、企業でやっているのと、個人でやるのとは、どっちが
不安定か?と言うと、個人かもしれないけど。
(しかし、それは100%!丸かには当てはまらない。力なぁ。)

あたくし、こんな体験があります。
タスコを独立すると決まってから、店にいるとお客さんが
「そうですか!本部長!これからは本部長の店に行きます!」と。

でも、その時に一緒に飲んでいたのは、これからもタスコに
残って頑張っていく社員たちがいたのです。その時の彼らの
複雑な顔が今でも脳裏に残っています。(あたくしも複雑でした)

もし、徳太郎で丸かのスタッフが同じような場面に出くわしたら
と思うとね。。。。。

でも、そればかりは仕方がないですよね。
自分では中々できないことをやるから、応援もしたくなるんですから。


「頑張って欲しいし、応援もする。けど、規夫さん本当に大丈夫かな?」

この人も小さいながらも自分で経営をしてます。
なので、会社員でやっていることの「良い面と辛い面」、個人でやることでの
「良い面と辛い面」を知っていてくれるのです。

それでも、こうして本気で心配してくれるお客さんがいてくれるので、
そのような言葉を聞けると、逆にあたくしは安心します。

「ああ、のりお達には本当に心配してくれるお客さんが
ついているんだな~」と。

だから、”鈴木徳太郎商店”は大丈夫なのです。

まぁ、おいおい、3月31日が近づいたら、一人一人の思い出
なんかを、この”トップギア!!”で書いていきますので。

3月31日まで、”丸か加藤商店”は一丸となって頑張りますので、
これからもよろしくお願いします!!

てな、感じかな。

最近の思うこと。

何でも「ハイチの人達に”千羽鶴”を贈ろう。」と、呼びかけた
女性のネットが”賛否両論”を呼び、”炎上”状態になったとのこと。
・善意で行っているのだから、頭でっかちな理論を振りかざすなよ!
って感じです。宗教上の問題やら習慣、食料品をおくれ。
だとかと言った批判はする奴よりも、気持ちを行動にうつす人の
方がよほどいい。 黙ってろ!です。

首相は国会で、インド建国の父、マハトマ・ガンジーの言葉を
演説に盛り込み、その中に『労働なき富』と言いましたら、
野党席からこのような野次が飛んできました。

「それはあんただ!」と。(ママから毎月1500万のお小遣いの件があるので)

・まったくそのとおりです。
「働くもの食うべからずなのです。」から。

って言うか、もっと生産性の上がる政策を打てよ!

ラーメン屋さんで、市川海老蔵さんと小林麻央さんの会見を見ていた、
隣の常連さんらしきお客さんが言った一言、

「見ているこっちが照れちゃうよな。でっ、なんで坊さんが会見なんかしてんの?」
・分らなくもない。
しかも、そのお客さんコンビニの袋一杯にカップラーメンを入れていました。
本当に好きなんですね「ラーメン」が。(小池さんかも)

あたくし、最近つくずくおもしろいな~と注目している政治家がいます。

その名が「ザ!亀井静香金融大臣です」
(これほど、名前と顔や態度とがかけ離れている自体もおもろいけど)
しかも、どことなく狂言師の和泉 元彌さんのお母さんに似ていて、
大阪船場吉兆の会見で有名になった、女将にも似てなくもない。

あの人の面白い所は、なんていっても”ネグセ”です。
本当に不思議なのですが、なぜいつも”ネグセ”がついているのか?
周りの人は教えてあげないのでしょうか?

次に、公衆の面前で、思いっきり音程のズレテいる歌唱力で”ド演歌”
歌い上げる勇気といいますか、単に恥知らずと言いますか?はともかく、
インパクトはあります。

それと、「失言」をしたとしても、どこ吹く風で、逆に「本当ことを言って
何が悪い。」と、開き直るところも良い悪いは別にして、

「憎みきれないろくでなし」と言った感じで、あたくし的には目が離せません。

てな、感じです。

何だかんだと、1月も終わります。
2月、3月は色々な意味で動きが出てくるので、しっかりと身を引き締めて
やって行こうと!決意した自分でした。


これでも観て、楽しんでください。

「生き筋」に見るリーダー。(家康編)最終回。

どうも、マグロを釣り上げた”弘樹(松方)”です。

さぁ、いよいよ「その時、リーダーは”生き筋”を見た!」の
最終回です。歴史に興味のない人には苦痛な日でしたが
それも今日で最後ですので、しばしお付き合いを。

徳川家康と言う人は、
「信長・秀吉・家康」では、どうもイマイチ三番目になりますね。

でも、あの戦乱の世の中を260年近くも平和にして、しかも
文化も発達させたのは、本当に凄いと思うのです。

よく、経営者は”信長”に憧れますが、それは多分派手なことを
したからでしょう。その点、家康公は地味なイメージがあります。

しかし、「渡部氏」が言うには、”家康”の「生き筋」は”勇猛”なこと。
だったからだと言います。確かに”家康”と言うのは「狸親爺」のような
イメージがありますが、それは晩年になってからです。

時は元亀元(1570)年、家康と信長は浅井・朝倉軍と戦い
これを破りました。「姉川の合戦」です。

この時は、生半可な激戦ではなかった。しかし、この時に躊躇することなく
突破口を開いたのは家康です。

次に戦国最強と言われた「武田軍」と三方ヶ原で戦ったときです。
この時、武田軍は京都を目指していて最終的に戦うのは”信長”です。
しかし、”家康”の領地を通るので”信長”への義理からぶつかることになりました。
(信長とは”兄弟分”なので)

戦国最強の騎馬軍団を持ち、しかも兵の数の上でも「武田軍」が上です。
明らかに不利で、味方からも「”義理”や”意地”なんかよして、
そのまま通せばいい」と。でも、”家康”は打って出た。まさに激戦でした。
(ちなみに武田軍2,7000千、徳川軍1,1000千)

命からがら”家康”は浜松城へ逃げ帰ります。(脱糞までして)
結局負けるけど、負けても力の限り戦う。ここで、見せないとこの先一生
”信長”に貸しを作ることになるし、他の大名にも「家康、”あなどれない”」
との印象を与える。だから、命がけで”生き筋”を通した。


次は”秀吉”との戦い。
これは戦わなくてもいいのだけれど、死んだ信長の息子が家康を頼ってきたので
家康はここでも立ち上がる。一旦戦うと決めたら戦う事に躊躇しないんですね、
家康と言う人は。それを家臣達はずーっと見てきている。

武士の本業は戦争で、家康はその本業が好きで、とことん戦う勇気を
備えている。だから若き日の家康には勇猛な姿が家来たちには焼きついている。
それが説得力なり、家康は強固な家臣団を持つことで「徳川幕府」を開いたのです。

実は”家康”の「生き筋」は若い時の”勇猛”さだったんですね。

それは”織田””今川”に18歳まで人質にとられていたからこそ、
なお更に”勇猛さ”が必要だったのだとも思います。

冒頭でも述べましたが、戦国武将の憧れはには、その最後が華々しかったり
するので(例えば、信長、真田幸村)、”秀吉”や”家康”のように長生き
して、戦場で死ななかった武将にはイマイチなところがあります。
(家康は満73歳まで生きました、今で言う95歳くらいです。多分)

確かに歴史上の”マロン”じゃなくて”ロマン”は、かき立てられないかも
知れないですが、リーダー的素質、経営者的素質では”家康”が
結局一番なのでは?と思う次第です。(きっとO型です)

破壊と創造の”信長”
全国統一をなしとげた”秀吉”
戦国の世を約260年にわたり、守り通した”家康”と、

今回は「信長・秀吉・家康」の「人生を変えた”生き筋”」でしたが、
振り返ってみると、皆さんにも「あの時かも!?」と思う”生き筋”があると思います。

人生には何度か転機があります。
その中でも「ここ!」と言うのを逃さないようにしていきたいと思います。
(でも、それってあとから分るんですよね)

それでは、ま~ったく興味のない人には退屈な四日間でしたが、
単に歴史オタクのあたくしに付き合っていただき、ありがとうございました。

まだ見ていない人は、面白いのでおすすめですよ!
http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=603&category_cd

ファイル 522-1.jpg
あたくしの「甲冑ストラップ」です。
加藤清正の”蛇の目”です。ただの○じゃありませんよ。

「生き筋」に見るリーダー。(秀吉編)

どうも、こんにちは”ねね”です。

本日は”秀吉”の「その時、リーダーは”生き筋”を見た!」の
お時間です。

”秀吉”の生涯には、大きく分けて転機は3つあります。
一つ目は、信長と出会ったこと。(良くも悪くも帝王学を学んだ)
二つ目は、明智光秀に勝利したこと。(結局、清洲城で有利になり
天下への道を作った)
三つ目は、朝鮮の役。(これが、その後に家康を有利にした)
と、あたくしは見ています。

秀吉は”信長・家康”と違い、正真正銘の本気で農家の出なので、
その当時は普通に考えて、”天下統一”なんて出来るわけがない。

これを今の確立にすると、一度に「BIGで6億と年末ジャンボ宝くじ3億と
ロト6の1等」が同時に当たったようなものです。
しかも、元手は全て千円以内で。

やはり、”強運”の持ち主だったのでしょう。

しかし、”強運”だけでも「天下統一」は難しい。
それ以外に何か?と問えば、機転が良いといいますか、やはり頭が
良かったのでしょう、きっと。

頭が良いだけなら”明智光秀”も非常に頭がいい。しかも、
彼は”源氏”の家系で、「足利将軍家」にも仕えていたので、
非常に教養人でもあるのです。

でも、”光秀”は頭が良すぎた。

だから、結局”光秀”は勘違いしたんだと思う。
「信長様は確かに凄いが、それは我ら家臣が命がけで働いたからだ、
その中でもこのワシの功績は大きい」と。

しかし”秀吉”は違う。
どこまでも、”親方様”とあがめている。しかも、”信長”のツボを充分に
心得ている。現に”信長”も秀吉に関しては寛大です。

それでも、やはり所詮は農家のそれも貧農の出である”秀吉”は
どこかで、”一度は賭けなければならなかった”と「渡部氏」は書いております。
いくら”信長”が身分は問わないと言っても、周りはそうは見ない。

だからこそ、是が非でも「生き筋(勝機)」を掴まなければならなかった。
それが、決定的になったのが「浅井・朝倉攻め」の時だと言っています。

それは”織田軍”が挟み撃ちにあい、一大危機に陥ったときです。
その時に”信長”及び他の”織田軍”を逃がす為に、”秀吉”は
「殿(しんがり)」を自分から申し出ました。

殿(しんがり)と言うのは、味方を逃がす為に追ってくる敵と戦いながら
逃げるのですからかなり損な役目です。

要は味方の為に”犠牲になって討ち死にする”覚悟で戦うのです。
たとえ、自分が死ななくても多くの部下が死にます。

しかし、”秀吉”は申し出た。
「渡部氏」は、ここで”秀吉”のその後の「生き筋を見出した」と言います。
いわば、勝ち戦ではなく、負け戦で死を覚悟して仲間を救うのですから、
しかも、誰もやりたくないことを自分から申し出たのです。

なぜ、危険で損な殿(しんがり)を引き受けたのか?
理由は2つあると言っています。

一つは「サルと呼ばれた身分から出世して、大名になり他の家臣団から
嫉妬の塊に取り囲まれた」。一歩間違えば仲間からも殺されかねない。
それを防ぐには、危険な殿(しんがり)を申し出て「恩を着せておくこと」だったと。

二つ目は「信長です。信長は大将としては偉いが、猜疑心(さいぎしん)が
強い、身近に仕えてる秀吉はよくよく知っている。しかし、信長でさえ
逃げ出す戦場で殿(しんがり)を務めた人間に対しては、いくらかでも心を
許すだろう」と、秀吉は”賭けた”のです。

現に、この時”信長”は挟み撃ちと聞くや、
殿(しんがり)だけを決めて、とる物を取らずに一目散に逃げ出しました。

この後、”光秀”が本能事変で”信長”に謀反を起こし、その後、
中国地方(山陰・山陽)で”毛利氏”と戦っていた”秀吉軍”が
急遽引き返してきて(有名な中国大返し)、”光秀”を「山崎の合戦」で破った。
(あまりにも早く帰ってきて、その勢いで”光秀”を破ったので、それを、
今でも耳にする”三日天下”と言う)


そして、この合戦では”信長”の家臣のほとんどが”秀吉”に付き勝利したのは、
”あの時の『恩』が働いていたのは大きい”と述べて言います。

(一説によると、秀吉が”信長”の他の家臣たちに「信長様は生きいる、
なので謀反人の”光秀”を討つから協力しろ」と言い、”信長”の威光を借りて
手紙を送ったとも)

その後、”秀吉”は1590年(天正18年) ”本能寺の変”から8年
北条氏を破って、1467年の応仁の乱から続いた各地での豪族や武将の
戦いが終り、全国統一を果たしたのでございます。

大なり小なり成功した経営者の方に、「なぜ、ここまで成功できたのですか?」
と聞きますと、みなさん口を揃えて言うのは「ヒット商品が売れたから」とか、
「あの取り引きで飛躍した」とかではなく、「ヒット商品の開発途中での出来事」
だったり、「取り引きをする前の決断」だったりなのです。

要は、上昇気流に乗る前の段階のギリギリでの”決断”を言うのです。

”秀吉”は、あの時に「火中の栗」を拾う事で、その後の自分の
立場(ポジション)を確立したのだと思うのです。


「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」
 
あたくしが一番好きな”豊臣秀吉”の時世の句です。

「生き筋」に見るリーダー。(信長編)

どうも、こんにちは”ザビエル”です。

それでは今日から「その時、リーダーは”生き筋”を見た!」
の時間です。(勝手にタイトルを変えました)

本日は”織田信長”です。(尾張国、愛知県西部地方)

彼ほど「破壊と創造」を地で行った生き方をした人もいなく、
また、その死に様も壮絶だったので、いまだに人気武将ランキング
では、ベスト3に入っております。

織田信長は「武力を持って天下を統一する!」と言う”天下布武”と言う
明確なスローガンを持ち、そのためには様々な改革や時には”非道”とも
思えるような行動をしました。

彼の逸話は沢山ありますが、その中でも代表的なものを紹介します。
・鉄砲の特徴をいち早く取り入れて、従来の戦いかたを変えた。
(尾張の兵は弱卒と言われていたが、鉄砲の導入で覆した)

・それまで、ほとんどの武将たちは迷信や神社・仏閣の罰などを
恐れたいたが、「自分が神だ。」と言い、信長にはむかう神社・仏閣は
ことごとく破壊して、僧侶や女子供も容赦なく殺した。

・宣教師が持っていた地図や地球儀を見せて、「世界は丸いのです」
と言ったら、信長は即座に「理にかなっている」と理解した。

・日本で初めて黒人を側近にして、彌介(やすけ)と名乗らせた。

など、他にも392個ほどありますが、そろそろ本題に入ります。

信長公の代表的な”生き筋”が見えたのは、何と言っても
永禄三年(1560年)三月の、駿河・遠江・三河を領有していた
「今川義元公」を討ち取った”桶狭間の戦い”です。
(この時、徳川家康(松平元康)は”義元”の人質ですが家臣扱いでした)

この、今川氏は四万五千(最近では2万人ぐらいだとも)で、京都へ行き
自分が将軍になろうと(一説には、最初から織田領目的だったとか)、
大軍を率いて出張ってきました。

対する、信長軍はわずか二千。

常識で言えば城に篭城(ろうじょう)するか、降参します。
当然、家臣達はどっちかにするだろうと思っていましたが、
が、それをしないのが”信長の信長たる所以(ゆえん)”です。
なんと、信長はこの一大事の会議に「世間話」で終らせました。
(きっと、家臣たちは、”こいつは筋金入りのアホだがや”と思ったことでしょう)

しかし、信長は100%負けるとは思っていなかったと思うのです。

それは、幼少の頃から”うつけ(アホ)”と呼ばれながらも、
馬に乗って自分の領土を馬で駆け巡っていたので、
土地勘がバッチリと頭に入っていたからです。

で、「万が一にも勝てるとしたらどこだ!?」と思案していたに違い
ありません。現に一番槍をつけた者よりも、今川義元の情報を逐一知らせた
者を一番に評価しているのですから。(当時としてありえません)

なぜ、そうなったのか?それは信長は「今川軍が進入してきても
道幅が狭いので、団子状ではなく一列か二列で進んで来るだろう。」と。
そして「細長く伸びた大軍の真ん中あたりの”今川義元”のいる、
横っ腹に突っ込み敵の大将の首を獲り、一気にかたをつけよう!」と。

(現に、信長は義元軍に突っ込む時に、「他の者の首は捨ておけ!
狙うわ”義元の首”のみ!!」と言明していますので。)

その様子が”信長”の頭に鮮明に映し出されたのだと。
この時に”ピカッ!”と光ったもの、それが”信長”の「生き筋」が見えた
瞬間で、むろん戦に勝ったのもありますが、あそこで逃げないで決断をしたことが、
その後の信長”自身もそうですし、今の世にも伝えられる歴史上の人物になったのです。

この後、”信長”は二度のこのような一か八かの奇襲作戦は取らないで、
大軍での正攻法の戦い方をしたのでした。

本日はこれまで。

「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり
ひとたび生を得て 滅せぬ物のあるべきか」。

信長が今川義元との決戦にのぞむ前に、
舞った幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」です。

天正10(1582)年6月2日
本能寺で家臣の”明智光秀”の謀反(裏切り)にあい、炎の中で自刃する。
結局、遺体は見つからなかった。

明智光秀の謀反を聞かされた時の、信長が言った言葉は
「是非に及ばず」でした。(しかたがない。あるいは、あれこれ言ってもやむを得ない)

「生き筋」に見るリーダー。(前書き)

あたくしは歴史好きなので、よく大河ドラマを観ますし、
歴史の本を読みます。やはり好きなのは「安土桃山時代」です。

なんて言うか、本やテレビでしか分りませんが、武将の生き方には、もの凄く勉強になるのです。

「よく、このような状況でこんな”決断”が出来たな。」とか、「自分なら、ささっと降参するけどな。」とか。

なんでも昨今はゲーム等の影響なのか、女性の戦国武将ブームです。
中でも人気なのは、天下分け目の関ヶ原の戦いで東軍の”徳川家康”と戦い破れ
斬首された西軍の首謀者でもある”石田三成”や、負けると知りつつも”石田三成”との
恩と友情の為に東軍と戦い奮戦むなしく”自刃”した、

”大谷吉継(おおたによしつぐ)”や大坂夏の陣で、
家康をあと一歩まで追い込こみ、力尽きて討ち死にした
”真田信繁(幸村)”などが、戦国武将好きの女性の間で人気なのだそうです。

それには、主の為とか友の為に己(お家)の命を掛けて戦うという所に、
現在の男子には見られない”憧れ”があるのだとか。

最近は大河ドラマも代表的な戦国武将よりも、
その家臣で有名な人を主人公にしていますよね、でも、その前に
九州地方の武将がいないんじゃないかな?と。

個人的に好きな”立花宗茂(たちばなむねしげ)”や”島津兄弟”なんかは
面白いと思うけどな・・・・・。もしくは、中国(山陰・山陽)、九州地方の、
情勢を絡ませたストーリーとか。

あれ?段々とプチマニアックになって来たので話を戻します。

まぁ、今回は戦国時代云々よりも、上智大学名誉教授でもある
「渡部昇一」氏の著書「歴史に学ぶリーダーシップ」(致知出版社)の中で
第1則「生き筋を見つける」を読んで思ったことを書いてみます。

既にここまでが長いので、今回は全4回の長編です。(いつもですが)
なので、興味のある人とそうでない人とで半々に分かれると
思いますので、ま~ったく興味のない人は飛ばして下さい。

まずは「信長・秀吉・家康」から見ての”生き筋”です。
その前に”生き筋”とは「その時歴史が動いた!」ではないですが、
「その人の人生にとっての勝機は!」と言ったところでしょうか。

あまり詳しく書くと「ネタバレ」をして、出版社さんにも読んでいない人にも
ご迷惑が掛かるといけないので、本の内容に関しては要約して
あたくしなりの解釈で行います。

それでは、今日はここまで。

あっ、文武両道で”麒麟(漫才師じゃないよ)”と呼ばれた
「蒲生氏郷(がもううじさと)」も好きですね~。(知らんか)

佐藤さん(旧姓瀬口)、お誕生日おめでとう。(34歳)

早いな~。

”欽ちゃん”が出来て1月23日で2周年になりました。

以前にも書きましたが、”欽ちゃん”の味は故郷の味、
そして、家族の思い出の味でもあるのです。

炭鉱町で生まれ育ったあたくしにとっては、
あの”タレ”をつけて食べる”ホルモン”は、小さいときから
慣れ親しんだ味なのです。

あたくしの食べ方は、まずタレの小皿に”にんにく、辛味噌、
胡麻をた~っぷりと入れて”タレ”を回しかけます。

頼みかたは「ホルモン、ホルモン、シンタン、ホルモン、サガリ、
ホルモン&シンタン」で、後は様子見です。(牛肉は邪道です)

最後の〆は「おにぎりと熱々の味噌汁」。
そして、先程までホルモンをつけて食べた薬味皿に”おにぎり”を
つけながら、熱々の味噌汁。

うまい!うますぎるぞ、こんちくしょう!!

しかし、最近この〆に強敵が現れました。
それは「〆の素ラーメンです」。こやつは強敵です。
普通に2~3人前は頼んでしまいますから。

そう言えば、昨日「ソロモン流」と言う番組で、東京は
日本橋の「たいめいけん」と言う洋食屋さんの”三代目”の
活躍を紹介する内容でしたが、その中で”二代目”のお父さんが
このようなことをおっしゃっておりました。

一応、息子でもある”三代目”は皿洗いからはじめたのですが、
「小さい時から、その環境で育っているから、匂いやら
味は少し触れただけで分るもんなんだよ。」と。

要は生まれた時から、「たいめいけん」の匂いやら味やらその
職場の雰囲気を身近に感じてきているので、一から覚えなくても
分っている。と言うことなのです。

そうなんです、それを聞いて考えてみると、あたくしは別に調理を
担当していなくても偉そうに「分るんです」、”味”が。

なので、あたくしが行くと毎回チェックが厳しいのです。

こんなことを言っていいのか、どうなのか分りませんが
ぶっちゃけて言うと、あたくしの”欽ちゃん”の評価はまだ
70点なのです。

一応、合格ラインが90点だとすると、まだ20点足りません。
なので、これからも「本店、尚吾」「支店、直人」と言った
本当に良くやってくれるスタッフがおりますので、

この”欽ちゃん”コンビと一緒に合格ラインを目指し
やって行きますので、今後を期待していて欲しいです。

あっ、23日から「欽ちゃん2周年フェア」を行っていまして、
実は今日までなのですが、「ホルモン、ハイボール、サワー」が
なんと!100円!!ですので、”トップギア!!”を見られた
方は行ってもらえれば嬉しいです。

欽ちゃん本店支店で今日まで行っています。
(一応、トップギア”に書いてた。といって下さい)

皆さん、よろしくお願いします!

心を灯す。

ある小学の担任の先生のお話です。

その先生は小学5年生の担任になりました。
しかし、その先生にはどうしても好きになれない
生徒がいました。

服装がだらしなく不潔だったので、好きになれなかったのです。

先生は、記録帖にその生徒の悪い所ばかりを記入
するようになっていました。

ところが、ある時に、小1からの記録を目にしました。

それには、このようなことが書かれておりました。

1年生の時には
「朗らかで、友達が好きで、親切。勉強も良く出来、
将来が楽しみ。」と。

思わず、先生は「間違いだ、他の子の記録に違いない。」と。

2年生の記録には
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する。」と。

3年生では
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる。」と。

4年生では
「父親は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供にも
暴力をふるう。」と。

先生は胸に激しい痛みを感じました。

ダメな子と決めつけていた子が、深い悲しみを生き抜いている生身の
人間だと感じられたからです。先生は目を開かれた瞬間でした。

放課後、先生は少年に声をかけました。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
分らないところは教えてあげるから。」と。

少年は初めて”笑顔”を見せました。

クリスマスの午後、少年は小さな包みを先生の胸に押しつけました。
あとで開けてると、香水の瓶でした。

「亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。」

先生はその香水をつけて、夕暮れに少年の家を訪ねました。

一人で本を読んでいた少年は、先生に気がつくと飛んできて
先生の胸に顔を埋めて叫びました。

「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリマスだ!」と。

6年生の時に、先生は少年の担任ではなくなりました。
卒業の時に、少年から一枚のカードが届きました。

「先生は僕のお母さんのようです。
そして、今まで出合った中で、一番すばらしい先生でした。」と。

それから6年が経ち、またカードが先生に届きました。
「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担任を
してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって
医学部に進学することができます。」と。

さらに10年が経ち、またカードが届きました。

そこには、先生と出会えたことへの感謝と、父に叩かれた体験が
あるから患者の痛みがわかる先生になれると書かれて、
このように締めくられておりました。

「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。
あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様の
ように感じます。

大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の
時に担任してくださった先生です。」と。

そして1年後に、届いたカードは”結婚式”の招待状でした。
そこにはこのような言葉が添えてありました。

「母の席に座ってください。」と。

「致知」12月号より。

”マッチング”で活性化。

現在、物件を探しておりますが、中々条件に合ったのが
ありません。

不動産屋さん任せだと、どうしても二次情報になり
あたくしのような零細企業というか、”ケチ”な会社は
どうしても”うんち”みたいな物件しか来ません。

”うんち”ですよ、”うんち”。

先日、何を勘違いしたのか?
金融機関の担当者さんが、「社長、ご相談が」

”きやがった”

金融機関からの、この手の「ご相談が」と言うのは
定期で預金をしてくれだとか、それでなくとも余裕の
”よ”の字もない、スーパー自転車操業のあたくしたちに
無理な「ご相談を」されるのです。(本気で”ぶん殴るぞ!!”)

今回の件は「取引先の肉屋さんと、少しでも一度でも
いいので取り引きをして欲しい。」と、以外とまともな
「ご相談」でした。

まぁ、そのような話なら「お互い様」なので了承しました。
が、「ちょっと待てよ?」と。

世の中は”ギブ&テイク”と言う言葉があります。
(ええ、そうです。その通りです)

「では、お尋ねしますが、貴殿は丸か加藤商店に
取引先の宴会とかご紹介してくれておりますかね?」

とは言えず、

「そうですよねぇ~、何処も大変ですからね~。
でも、銀行さんもそのようなことまでするんですね~。」
と、お金を借りている”パワーバランス”をヒシヒシと感じるのです。

それで、最近中々良い物件がないので悶々と考えて
いると、あることが頭に浮かびました。

”なのはな”もそうだったし”欽ちゃん支店”もそうですが、
「本当は辞めたいけど、辞めれない。」と言う、店主がいるのです。

経営が厳しいとか、年齢的なものとか、後継者がいないとか。
様々な理由で「辞めたくても、辞めれない。」店主さんがいて、
誰にどこに相談してよいか分らない人たちもいるのです。

そのような人達は、まず”家主”さんに相談するか、
長年付き合いのある金融先に相談します。(特に信用金庫とか)

なので、あたくし思うに金融先は”店主”とも”家主”とも
それなりの関係があるのなら、単純にお金を「貸した、返せ」
だけでなく、その支店やらの地域を活性させる為にも

その辺の情報を常に把握して”マッチング”させて、
元気のある地域にさせるのも、基本業務になるのではないのでしょうか?

決算の時とだけ、偉そうに(そうでないかも知れないが、あたくしには
そう見える)査定するのではなく、普段から色々と(特に高齢の方)
相談に乗るようにしてあげればいいんです。

「社長、あそこの中華屋の親父さん、年で跡取りもいないので
辞めたがっているんですよ。社長の所で何かありませんか?」

などと言われれば、条件さえ合えば「分りました。」となりますし、
もし、あたくしじゃなくても知り合いを紹介することも出来ます。

そうなると当然、設備資金と言いつつ運転資金も上乗せして、
そこの金融機関に融資を頼む事になり、向うからの話なので
かなり”スムーズ”に(金融先からの話は本当に驚くべき早さです)
資金も出て、店主さんは悩みの種が消え、あたくしたちは
更なる事業もでき、金融機関は新規の融資も増える。

これぞまさしく「三方よし」です。

どうだ!金融機関!(多分、見てないので強き)
そのように地域に貢献してみろ!!(見てたらゴメンなさい)

でも、本当にそのように地域が連携して行くと
少しずつ活性化していくのだと思いますよ。

今日の標語
「地方分権・主権は、まずは地域の連携と活性化から」。

寂しいね・・・・・。

先日、狸小路10丁目界隈を友人と歩きました。

最近の街の中心部で古き良き”風情”が残っているのは、
狸小路1丁目で”欽ちゃん”がある「L路街」と言う
路地裏通りと、狸小路9、10丁目界隈です。

しかし、「L路街」も小ぎれいになったのは言いのですが
何となく趣(おもむき)が変わりました。

あそこは古着屋さんが多いのですが、個人的な意見を
言うと、もう少し小さい(5~15坪)の飲食店がひしめき
あって、横丁をつくると活気が出ると思います。

まぁ、こっちはこれからやろうと思えば出来なくもない
話なのですが、問題は9、10丁目です。

特に10丁目は問題です。

一列、4、5軒ほどある横丁が全部閉まっていて
後へまわると、ドバッと駐車場になっており、あとは
地上げを待つのみ状態になっておりました。

どのような事情があるのかは分りません、
例えば商売が成り立たないのか?後継者がいないのか?

商売をしていると、諸事情があるので
本人でないと分らないことがあると思うので、ここで、商売に
ついて云々を言うつもりはありません。

ただ、札幌と言う街は他都府県と比べて歴史が浅いからなのか?
それとも、あまりその辺にこだわらないからなのか?

歴史的建物とか、風情の残っているものをあまり大切に
していないんじゃないにかな?と思うのです。

聞くところによると「札幌時計台」は、
観光的な景観からすると「三大がっかり」に入ってるそうな。。。。。
(それこそ、がっかりです)

あたくし”金富士酒場”があるから言うのではないのですが、
9、10丁目界隈の”風情”は残していて欲しい思います。

古き良き”昭和”の世界を。

しげちゃん、その辺、市では考えてないの?
「もっと、札幌の”風情”を残そう委員会」とか。

ファイル 515-1.jpg
ひょうたん横丁の夏の午後。

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