そう、当時は良い時代だったのさ!

1992年に三井芦別炭鉱が閉山して、早23年。
私が芦別を離れて8年後のことです。

まぁ、私も西芦の炭住は高校2年生の途中までで、
その後は本町のすみれ第二団地へ引っ越しをしました。
親父が”じん肺”だったので、何かの理由で炭住には住めなくなったのでしょうね。

今の西芦は面影なんかほとんどなく、記憶の中の想い出だけの町になっていますが、
同郷の人と話す時は「今とは違って、西芦は賑わっていたよね」と話しをします。
けど、「芦別物語」さんなどで、当時の光景を見ると「・・・・・?こんなにさびれてたっけ?」
と結構ショックな感じです。

でも、ほとんど芦別から出たことがなく、それ以外の地域に出るのは
見学旅行や修学旅行、親戚のいた釧路くらいだったので、札幌生活が31年目に
なった私の物差しで測ってはいけないのかも知れません。

確かに丙午生まれの私たちから、小学から中学卒業まで二クラスになりました。
今にして思えば、炭鉱住宅にも空き屋が結構ありましたね。

そんな中でも、子供たちは親の苦労も知らず、ましてや将来に対する不安なんか
これっぽっちもなく遊んでいたのですからね。

クラブローンという、三井芦別の方(多分、偉い人)の保養施設みたいな所があり、
小学校から真直ぐに下って行くと、池が何ヶ所かあり、「ここから自転車は入れません」
的な鉄柱が何本かあり、子供たちはそこで自転車を下りて、緑いっぱいの野原みたいな
所で遊ぶのです。(池でもタニシやトンボを捕りました、ギンヤンマ狙いで。)

何をして遊んだのか?分かりませんが、何もなくても子供たちは遊びの天才なので
それなりに楽しんでいました。

小学1年生の頃だったか(いや、幼稚園かな?)遠足でクラブローンへ行ったのですが、
その時に男子は”仮面ライダー”ごっこをするのですが、同級生の”しんどう君”が
ライダーベルトなんぞを持ってきていたので、必然的に”しんどう君”が仮面ライダーで
その他、私たちはショッカーの役割でした。(何度かベルトを貸してもらいましたけど)

今の世の中なら、それを聞いた親が「一人だけ、そのようなを持って来ては持って来れない
子供が可哀相じゃなですか!今後はそのようなことはさせないか、皆にベルトを用意して
下さい!!」などと、お叱りの言葉を投げかけられるのでしょうね。(笑)

そう考えたら、本当に良い時代に生まれ育って感謝です。。。。。

”しんどう君”覚えてる?これだよ。↓

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