二条通りの想い出・・・・・

西芦は道道・頼城(らいじょう)芦別線が幹線道路になっており、
それが一条通、それから炭住のある東一条通から東二条通の間が
小学生の通学路でもある、二条通で東二条から東三条の間が三条通で
そこから縦の道路があり十字路で出来ていたのでとても住所が分り
易くできていました。

先日、一つ上の高山先輩の店でいつもながら西芦の話になり、
先輩が「二条通、懐かしいな~」と言う話になり、それぞれの想い出話で
盛り上がりました。

小学生の頃なので、昭和40年代後半から50年代前半。
それから十数年後には三井芦別炭鉱が閉山になり、過疎化が徐々に
進んでいくのですが、私が小学生の頃は全盛期に比べれば全然ですが
それでも子供の目からすれば人も居ましたし活気もありました。

小学1年生から6年生までの炭住に住んでいる生徒たちが朝7時代から
8時くらいまでの間で通学するのですから、それはそれは様々な光景を
目にしました。

朝っぱらから親子喧嘩をしている家、親に叱られて泣きながら家から
出てくる子、上級生から叱責されている下級生、じゃんけんで負けてかばんを
両肩、両手、背中、胸、それに頭で持たされている子、これまたじゃんけんで
チョキで勝ったら「チヨコレエート」と7歩前に進み、パーで勝つと「パイナツプル」
と6歩進めて、グーで勝つと「グリコ」と3歩進めるというゲームをやりながら
通学している子もおりました。

冬は冬で、かばんを投げて滑らせながら通学したり(たまに、中身が飛び出る)、
ツララでチャンバラごっこや鉄砲ごっこをやりながら通学します。

一条通よりも上に住んでいる生徒は、そのまま一条通なのですが
断然、二条通の方が多いので面白い。たまに三条通を歩いて来る生徒も
いましたが、それはごく少数。(いじめっ子に合わないようにとか)

朝の通学路と学校帰りの通学路は、勉強が終わった解放感からか
子供たちの笑い声も、大人たちの怒鳴り声も大きくてとても賑やかでしたね。

途中で、それぞれの家に帰るので6丁目、7丁目、泉町や東頼城と学校から
遠くに住んでいる生徒は徐々に少なくなっていきます。で、帰る時に男子は
「バイ!」と言ったら、相手も「バイ!」と返し、それは離れて行ってもどちらかが
言い終わるか、家に入るまで続いていました。(笑)

本当に懐かしい想い出です。。。。。

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