初めての弁当

中学までは給食だったけど、高校からは弁当か校内にある「売店」で買うか、
高校のバス停を降りたところにあった小さな商店で何かを買うかでした。
今のようにコンビニがないので、必然的に弁当が主か売店でパンを買うか。

ちょうど、私が「芦別工業高校」へ入学した時に“おふくろ”がヘルニアで
入院をしていたので、弁当は東一条五丁目に住んでいた時に同じ茂尻の「雄別(ゆべつ)炭鉱」
から越して来ていた「青山さん」のおばさんに作ってもらうことに。

その時は木造の炭住も「改良住宅」なんぞと木造からモルタルになり、
東一条五丁目(雄別炭鉱チーム)はそれぞれ別々の改良住宅へ。
まぁ、名前だけは「改良住宅」だけど風呂がないのは一緒でしたけどね。

で、高校の弁当を毎朝「青山さん。(当時二条四丁目の改良住宅かと)」の家まで朝取り行ってました。
最初は、良いんですが「青山さん」も毎日は面倒なのと朝が早いので段々と面倒そうな表情で
弁当を渡すようになったんですね。

まぁ、15,6歳とは言え申し訳ない気持ちもありましたね。だからと言って、「青山さん」には
全く嫌な感情はありません。が、ただ今でもあの時の眠そうで、面倒くさそうな顔が脳裏に残って
いるんですね。

けど、“おふくろ“が退院してからは弁当かお金をもらい売店でパンを買う日々に。
あれだけお世話になったのに薄情にもそれから一度も顔を会わせておりませんでした。
で、十年前頃に「あれ?そう言えば“青山さん”のおばさん元気かな?」と急に気になりましたが、
風の噂程度しか情報がなく、歳も歳だからもう亡くなってるんじゃないかとのこと。

もし、まだ生きていてくれたなら一言お礼はしたいと思います。
きっと、もう居ないと思いますが、自分でも「なんで、もっと前にお礼をしよう」と思いつかなかったんだ?と反省と後悔をしています。

そうです、この時期になると必ずあの弁当を取りに行った時と「青山さん」にお礼の一言を
言えてなかったことを思い出すのでした・・・・・。

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