私は中1の時に足が遅く運動会の徒競走が嫌でアメリカへの家出を考えていました。
で、そのお金を得るために新聞配達のアルバイトを始めたのです。
炭鉱の田舎町で、しかも中学生に出来るアルバイトは新聞配達くらいしかなく
池下商店さんが北海道新聞の販売店で、同級生もそこで働いていたので一応紹介と言う
形で入りました。
自転車に乗れる時はまだ良いのですが、冬になると雪が積もったり吹雪いたりと
自然現象にプラスして、寝坊や寒くて面倒くさがって来ない人も居るので、
家まで起こしに行ったり、起きない時や風邪で休み(その風邪も怪しいけど)の時には
私がその人の代わりに新聞を配達していました。
なぜか?途中から事務と言うか新聞の束を各セクションに池下商店のおじさんと車で配り、
配り終わると先程も書きましたが、起こしに行ったり、代わりに配達したりするので
担当を持ってる人は私たちが置いた束の新聞を配り次第そのまま家に帰れるのですが、
私の場合は全セクションが終わるまで待機してるので一番遅くなります。
西芦別には他に毎日新聞の販売店もあり、私の家は定期的に北海道新聞になったり、
ある時には読売や毎日に変わっておりました。きっと、親が景品で変えてたと思います。(笑)
なので、毎日新聞のおじさんが私がいつも真面目に働いてるのを見ていて、
「うちで働いて欲しい」と言ってたよ、ちょっと誇らしげに“おふくろ”に言われました。
思えば、月1万円にも見たいない給料でした。それを貯めたとしてもアメリカなんて
夢のまた夢でしたね。まぁ、結局は中2の終わりから少し悪いことを覚えて運動会の徒競走も
気にならなくなり、そんなことよりも部活や遊ぶ方に忙しく「家出」なんてどうでも良くなりました。(笑)
あの頃、子供ながらに結構ナイーブでしたが、こうして今の自分を見ると自分で言うのも何ですが、
今でも結構ナイーブな自分がいます。そう思うと、つくづく人間の本質って変わらないんだな~と
思うのでした。
炭住は碁盤の目になっていたので配りやすかったです。
中3になり、完全に遊びが主になりました。時折、池下のおじさんが新聞の束を配ってる姿を見て
一年も経ってないのに、なぜか?懐かしさと切なさを感じたのを今でも思い出すと心が痛くなります。。。。。