すっかり土や草むらが見えて、小汚いすすの被った雪を尻目に真新しい学生服と西中の帽子を被り、 通学路を二条通りから一条通りに変更。
いざ中学へ入ってみると、 中の丘や頼城からの新しい仲間が一気に10人以上も増えて、もの凄く楽しい。
あれだけ離れがたかった西小のことなんかまったく気にしなくなっており、 しかも上目線。(笑)
一番の楽しみはクラスメートが誰になるのか?と、担任の先生が誰になるのかと言うこと。
1年生は旧校舎木造造りのグランド側。 1年1組は林木久治学級で、1年2組は新任の宮腰司学級。 私は2組でムラは1組と別々になってしまいました。
ちなみに林先生は芦別の渓水町(けいすいちょう)から、 しかも自転車で通勤しており、 一度バスに乗って芦別へ行く時に自転車に乗った林先生が思いっきりクラクションを鳴らされていた光景を目撃した時には、「あちゃ~」 と思ったものです。(きっと子供が芦中だったんでしょうね)
この林先生は生徒の間では名前の「きくじ」と呼ばれていて、 確か理科の担当で生徒に質問を出しては廊下側から順に当て、 直ぐに回答できなかったら「お座り!」と言って、イスの上に誰かが答えるまで正座させられました。
今なら、一歩間違えば頭のおかしい親や蛙の子はカエルのアホガキなどが「体罰」だとかと騒ぎだしかねないのですが、 当時はみんな楽しんでおりました。 当然、あたくしは一度も回答(正解)なんかしたことはありません。(笑)
担任でもある新任の宮腰先生は2年生まで一緒でしたが、 なぜか?転勤してしまいました。 きっと独特の炭鉱町のクソガキどもに心底くたびれたのか? 先生同士で何かあったのか?は、その当時は知る由はありません。
1度、いや2度宮腰先生にこっぴどく叱られたことがあります。 1度目は先生の担当の国語テストの時に名前の欄に自家製サインで書いた時と(しかも、カンニングも同時に)、 2年生の時に皆が体育祭かなんかの練習でグランドに行っている時に、 一人クラスに忍び込んで女子のカバンからナプキンを取って教室の扉にくっ付けた時でした。
1度目は教員室に呼ばれて先生の机のすぐそばで正座をさせられ、 何時も持ち歩いているほうきの柄だけの部分で思いっきり頭を叩かれました。 何かを誰かを叩いていたお陰で少し柔らかくなっていたので、いくらかダメージは防げましたが、 それでもかなり痛痒かったのを憶えています。
2度目は泣いているその女子生徒とクラス全員の前で思いっきりビンタをもらいました。 どう考えても殴られて当然です。
次に重要になるのは部活動。
別に強制ではないけど、 周りは皆入るし自分たちだけ入らないのも何だか中学生として乗り遅れたという感じがしたので、 どの部活が良いか・・・・・。
ここでも選択肢は ①嫌な先輩が居るかいないか。 ②練習が厳しいか、厳しくないか。 の二つを基準にムラと相談し合いました。
基本、二人ともあまり運動が得意ではなかったので、 スキーも泳ぎも小6からでしたから(笑)、 でも、ここで文化系に入ることは何だか女子や皆の手前どうかな?と。
帰宅部と言う手もありましたが、やはり格好悪い。
で、結局相談して入部することにしたのが”村上直定”先生が顧問を務めていた”剣道部”でした。
今から思うと小学生と中学生の一番の違いは部活動なんじゃなかったか? と思うのです。
中学生になって部活に入部すると言うことは、 色々な意味で思春期になる第一歩であり、 また親離れをする準備段階だったのだとも思います。
今までは大人との接触は親と先生でしたが、部活という上下関係があり、 初めて経験する、また勉強以外の目標を一つにする世界が存在していて、 いくら近所の幼馴染で「00ちゃん」とちゃんずけで呼んでいた一つ上でも中学生になり部活に入れば「00さん」と敬語になる。
今まで許されてきたものが許されない。 そして今度は中学から高校へ高校から社会へと続いて行き、 そこでコミュニケーションや様々なルールなどを学びながら社会人(大人)としての自覚を持つ様になるのでしょうね。
確かに先輩も練習も厳しかったけど、 そこから逃げないで部活動を通して我慢することや根性(ちょっとのですが)、 試合前の緊張感や勝った時に嬉しさ、 負けた時の悔しさなど全てが今では良い経験で思い出です。
剣道、またやってみたくなりました。 もちろん、遊びでですけどね。。。。。