恵子ちゃん

先日、高知から幼馴染の“恵子ちゃん”が来ました。
会うのは実に30数年ぶり!!

私は西芦別東一条五丁目で“恵子ちゃん”は東二条四丁目に住んでおり、
兄貴同士が同級生で同じ少年野球団のチームメイト。しかも、“恵子ちゃん”の
お兄ちゃんは「たかし」と言って私と同じ。また、“恵子ちゃん”のお父さんは
「こういち」と言って、今度は私の兄貴と同じという何とも奇遇。(笑) 

お互いの家が仲良くなったのは、“おっかー”が「三機製作所」と言う三井炭鉱の
製作機器を作ったり修理したりする所でガラス洗いのパートへ行った時に“恵子ちゃん”の
お母さんも来ていてそれで行き来するようになった次第です。

“恵子ちゃん”のお母さんはとても社交的な人でした。家に来てお茶を飲む時も
ありましたが、ビールを飲んで陽気になっていることも。それまで、“おっかー”は
茂尻時代の近所の方達が主でしたが、そのおばさん達はあまり飲むような感じではなく
お茶がメイン。(前回の“想い出のあとに”で書いています)しかし、“恵子ちゃん”の
お母さんと付き合うようになり“おっかー”はお酒の楽しみを覚えましたね。

その内に家飲みだけではなく、芦別の繁華街へ飲みに行き、またそこで飲み友達や
店の人たちと仲良くなり交友関係が広がって行きました。良くも悪くも。

“恵子ちゃん”が小学生の頃にご両親が離婚しました。先程も言いましたが“恵子ちゃん”の
おばさんは社交的でざっくばらんな所があり、酔うと小学生の私にも「たかしちゃん、チュー」
と顔に近づいて来るので、離れると「たかし!チュー」と。(笑) そんな陽気で社交的な
人だったから彼氏が出来て家を出て行きました。

炭鉱町はある意味互助会的な所もありますが、狭いコミニュティーです。噂は直ぐに
広まり、それも「尾ひれはひれ」が付いて。それから“恵子ちゃん”はイジメに合います。
が、そこは彼女の持って生まれた我の強い所と言うか性根の座った所で、ある時期から
「なら、強くなればいいんだ。悪い仲間たちと連るめばいいんだ」と。(笑)
まぁ、そこから彼女なりに必死で寂しさと孤独さと戦い様々な経験をして来ました。
私の同級生とは処女を捧げたと、この前もあっけらかんの言ってましたね。当時、その同級生が
14,5歳で“恵子ちゃん”は2つ下だから・・・・・?でも、「00君のお陰で本当に助かったの。
とーっても優しくしてくれたし支えになってくれたお陰であの辛い時期を乗り越えられたの。」と。

まぁ、そんなこんなともあり“恵子ちゃん”は生きるために30数年前に高知へ渡りました。
今は子供と孫がいます。しかも、あのおばさんも一緒に生活しています。それだけではなく、
“恵子ちゃん”は“お父さん”も呼んで離れ離れになった親子三人で生活をしていたこともあったけど、
残念ながら”お父さん“は病気で亡くなりましたが。偉いよね。

小さい頃、そして高知へ渡ってからも口ではとても言い表せられない様々な経験したことでしょう。
しかし、この前高知へ帰る前に会った時に「たかしちゃん、私ね本当に周りの人に恵まれて来たの。
確かに色んなことあったけど、こうして今いられるのは色んな人たちに助けてもらってきたからなの。
だから、本当に幸せな人生だなって思うの。」と。そう、名前と同じで恵まれたんだね。

また、札幌へ来た時には思う存分飲もうかと。出来れば、おばさんと一緒に飲みたいし、
皆で花札をやりたいよね、あの頃のように・・・・・。

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