楽しみなクリスマスも過ぎて、大人達の慌ただしさを尻目に年末特番やら総集編やらを手をみかん色に染めて過ごし、 正月は正月で親戚やらが来て”お年玉”をもらっては直ぐに中身を見て叱られながらも過ぎて行きます。
また、正月の楽しみの一つに友人から来る年賀状を見る楽しみがあります。
が・・・・・。
あれは小学校の5年生だと思いますが、初めて年賀状なるものを送りました。
クラス全員に。
で、正月楽しみに郵便受けを開けて確認すると、
なんと・・・・・1枚!!
それも担任の”佐藤妙子先生”から来た1枚きり!!(涙)
家族や親戚からは冷やかされるは、情けないはで あたくしの正月のウキウキ心は一気に冷めてしまいました。
ん~まったくの想定外でした!
三学期が始まりそのことを言ったのか、どうなのかは覚えていませんが 6年生の正月にはクラスだけではなく、隣のクラスの人からも年賀状が 来てかなり安心しました。(嬉しかった!)
子供心にでも案外と傷つくものです。
それが基で人間不信にもならず、 良くもまぁ道を外さなかったと我ながら感心しますよ。(笑)
あたくしは兄貴と違いスキーなどが苦手で、 家でプラモデルを作るか一条通りから降りてくる坂道でミニスキーやボブスレーをしていました。 ほとんど1人で。(笑)
また、家の前は雪はねで出来た雪山があるので、 そこで基地なんぞを作り1人戦争ごっこをしていました。
ん~、夏は家の前でビニールプールで1人遊び。 冬は冬で家でプラモ作りで、外では1人ミニスキー&ボブスレーか 基地で1人戦争ごっこ・・・・・。
あれ?これってかなり孤独じゃないですか!?
でも、私はまったく気にしていませんでしたね。
1人で遊ぶ方が気楽だったんだと思います。 それか!?年賀状が担任の先生から1枚という現実は!!(笑)
あと、冬休みは小・中と釧路のおばさんの家に2週間以上行っていたので、 冬・夏休みにあまり同級生と遊ぶという考えがなかったんですよね。
そう考えると、ちょっと変ですかね?
まぁ、小中、高校とそれなりに正月も冬休みも楽しんでいたので よし!とします。
って言うか、「お年玉」は何に使ったんだろうか? スポーツとかしなかったしましてや勉強なんかしなかったので、 そのようなグッズにお年玉を使った記憶はありません。
あっ、プラモデルだ!伊藤商店やプラカラーも買う時には芦別の 松田さんでお年玉がプラモデルに変わっていたんだった。。。。。 コンバットが好きだったのでプラモデルは↓
一気に興奮でした!!
松田さんでは誰か上手な人の作品があり、いつも憧れていました。
色を塗るのに、こんなに上手くは絶対に行きませんでした。
コンバットはヨーロッパ戦線なので米軍VSドイツ軍でしたが、 やっぱり日本人としてはね・・・・・。 おふくろが掃除をするのにはたきを掛けるのですが、たまに腕が取れていたり兵隊の位置が違っていると、 あたくし猛烈に怒っていましたが、 おふくろはしらを切っていましたけど、絶対に分かっていました。。。。。(笑)